時間屋
2. 病は気から (1/3)


 どんなに親しい人も、所詮は他人だ。
 桜は真夜中の住宅街を一人歩いていた。飲み会帰りのふらふら頭で歩く夜道は心地良い静けさで、桜は何を思ったわけでもなくヒールを高らかに鳴らして歩いている。
 今日も飲み会もいつもと変わりないものだった。また閉店時間をオーバーしてしまったのもいつものこと。同僚は飲み会が大好きで、桜も嫌いではなかった。お酒は良い。心が晴れやかになって、嫌なこと全部忘れられる。
 全部。
「あーあ」
 わざと大きな声を出す。夜は静かだ。とても。そんな中大声を出すことがどんなに近所迷惑かなんてわかっている。わかっていてそれをするというのは、背徳感があって爽快だ。普段の桜ならしない。お酒のチカラだ。桜は一人腹の底から笑い声を上げた。
 その笑い声はすぐに止んだ。桜ははたりと立ち止まった。
「……あーあ」
 ぽつりと呟く。今度はささやかに。
 今日も飲み会も、いつもと変わりなかったのだ。同僚の彼氏彼女の悪口が酒の上に飛び交って、かと思えば自慢話に展開して。それらに全て「そうだね」「わかる」「そうなんだ」と同意だけしてきた。たまにノリの良さを演じて冷やかしの言葉をかけてやったりもしたけれど。
 慣れたものだ、と自分に笑う。先日彼氏と手酷く別れた身としては、彼らの話は心の傷を抉るばかりだった。あたしにはもう、悪口を言う対象がいないのだ。自慢をする対象がいないのだ。話を聞いて、心に痛みを感じながらも笑い続けていた。
 元彼の話ができたらどんなにすっきりできただろう。悪口をいっぱい言って。あんな奴別れて当然、と彼らと言い合えたのなら、どんなに心が救われただろう。卑怯なやり方だとわかっていても、そうでもしないと切なさと悲しみに狂ってしまいそうだ。
 失恋は何度もしてきた。けれど、会社員になった今付き合っているのだから、自然と結婚を意識してしまうもので。この人とどんな家庭を築けるだろう、そんな妄想をして楽しい日々を過ごしていたのに、それがふつりと途絶えてしまったのだ。
「あー……まじで疲れた」
 空に吐き出すように、桜は上を向いた。星は見えない。雲があるのだろうか。それとも桜の目が曇っているのだろうか。
「つか何、結局デレデレじゃん、真理子と哲哉。あーもうまじでないわーこっちはキズゴコロだってのに、あんなに見せつけるようにいちゃいちゃしなくていーじゃんー」
 思ったことをそのまま口にしようとして、けれどどう言おうと自分の気持ちそのものにはならない。そうだろう、感情というのは言葉ではない。感情という自由で抽象的なものを言語という決まり切った型に完全にはめるのには限界があるというものだ。
 夜空にどんなに吐き出したって、すっきりしないものはしないのだ。
 ――一人で悩まないで。
 よくあるフレーズ。一緒に考えよう、一人で抱え込まないで。誰かに話したら楽になることがあるよ。
 なるものか、と桜は毒づいた。そもそも誰も何も話を聞いてくれやしない。知り合いである彼らでさえ聞いてくれなかったのだ。赤の他人がどれだけ親身になってくれるというのだろう。
 みんなできたてホヤホヤのカップルにばかり質問して、別れたばかりの桜には全く愚痴を聞き出そうとしてくれなかった。そうだろう、彼氏を失った女のぐだぐだとした暗い愚痴話より、からかいがいのあるカップルののろけ話の方が聞いていて楽しいに違いない。桜が彼らの立ち位置だったのなら、断然カップルの話を聞く方を優先している。人はいつだって他人だ。親しさよりも友情よりも、個人の楽しさを優先する。友情なんて嘘っぱちだ。
 いつだって、誰も話を聞いてくれない。
 だいぶ昔の話、両親の話をしたことがある。父の酒癖が悪くて、母に暴力を振るうことはよくあった。それを話したことがあるのだ。何かを期待していたのは確かだった。でなければ、「そっか、大変だったね」という相手の言葉に失望などしなかったはずなのだから。
 けれど懲りずに何度か同じ話を他の人にした。答えはいつも桜を失望させるものだった。何を期待しているのか、桜にもわからなかった。けれど、確かに求めている返答と違うということだけはわかって、桜はいつも会話をそこで打ち切るのだ。
 たまに違う答えを言ってくる人もいた。「わたしもね」と自分の体験を話し始める人だ。あなたよりもっと酷い体験をしているの。ね、そうでしょう? そんな隠れた自尊心が丸見えで、桜はうんうんと頷いてやる。違う、あたしが頷いて欲しいのに、何で私が頷いているんだろう。そういったことも幾度かあった。やがて桜は両親の話をしなくなった。誰に言っても無駄だとわかったからだった。
 わかっているのだ。誰も、誰もが、桜の期待する答えを返してくれないことを。けれどあたしは何度も求めてしまう。懲りずに、何度も。
 けれど、最近はそれすらやめてしまった。期待した答えが返ってこないから、それ以外に理由があった気がしたけれど、何だったっけ。
「……綾香なら、聞いてくれたかなあ」
 友人の一人を思い浮かべる。相談にいつも乗ってくれる良い子だ。けれど、と桜はすぐに首を振った。あの子だって真理子ののろけ話にばかり食いついていた。隣のあたしを無視して。あたしが振られたばっかりだって知ってるくせに、遠慮なく真理子達を詮索して楽しんでいた。
 彼女は話を聞いてくれる様子でなかったのもあるし、桜自身が話すことを躊躇していた。自分の気持ちを話すことが、いつのまにか苦痛になっていたのだ。何でだっけ。誰かに何かを言われたんだっけ。
 理由は思いつけないけれど、と桜は唇を噛む。こんな状況で、誰に自分の話ができるというのだろう。桜はそっと胸を押さえた。奥で、もやもやとした不快感が垂れ込めている。胃袋の中に曇天を詰め込んでいるみたいだ。しめっていて重くて、いまにも雨があふれそうな。
 早く吐き出さなきゃいけない。そうわかっていた。いつかこの雲はあたしの腹を突き破る。その前に出さなきゃ。あたしが壊れてしまう前に。
 けれど、どうやって。
「……誰にも、どうも言えないよ」
 ものを話す相手がいない。感情を言い表す言語が足りない。話したいと思えない。そもそもみんな飲み会に夢中で、あたしに時間を割いてさえくれないのだ。こんな状況で、一体どうしろというのだろう。
 誰かに話したら楽になることがあるよ。
 誰に言えと? どう言えと? いつ言えと? 相手も手段も気分も時間も持たない桜を、世間はなぜ助けてくれないのだろう。
 うつうつと考える桜は、またとぼとぼと歩き始めた。今度はヒールは音を潜めている。深夜のアスファルトは闇に溶けてよく見えない。まるで目を閉じて歩いているみたいだ。何も見えない。どこに何があるかわからない。
 ふと明かりが桜の視界に入ってきた。居酒屋の照明だ。まだ客がいるらしい。もう日付も変わっているのに、と桜は思った。自分達のような大人が他にもいたのだ。
 居酒屋の店主に同情しながら、桜はその居酒屋の角を曲がった。数メートル先に桜が寝起きするアパートがある。住宅が立ち並ぶ一角だが、さすがに深夜だからか人気はない。ないのがいつもだった。
 今日はどうやら違うようだ。
 アパート群の中を突っ切る道路の上に一つの人影があるのを桜は見つけた。人が出歩いている。珍しいこともあるものだ、と思ったが、すぐに桜の体は硬直した。
 黒だ。アスファルトに溶け込んで、闇に溶け込んで、見逃しかねない。街灯の下に佇んでいたからわかったものの、その人影の姿は深夜に出歩くにはいささか不自然だった。
 黒い帽子、黒いスーツ、黒い靴に黒い鞄。全身が黒い。まるで、闇に溶け込むための色で全身を包んだかのように、一色に統一された姿――桜の体が震えた。
 危険だ。この人は、危険だ。
 闇に消える色でわざわざ全身を包むなんて、まるで、見られたくない何かをするためのようではないか。
 逃げなきゃ。そう思った桜に、その人はゆっくりと顔を向けてきた。目が合った、と直感する。逃げなきゃ。心臓が急かすように激しく拍動する。
 逃げなきゃ。逃げなきゃ。
 そう思うのに体は動かない。逃げることを拒絶しているようだった。動けないでいる桜に、やがてその人影はゆっくりと歩み寄ってくる。しかたがない。桜は覚悟を決めて鞄を抱えた。
 いざという時には鞄をぶつけて思いきり叫んでやる。少なくともあの居酒屋には声が届くはずだ。
 人影が近付いて来る。男だ。身長と体格からそう判断する。もし襲われたとして、一介の会社員でしかない桜に逃げ切れるだろうか。そんなことを考える頭を一振りして、桜は男に向き直る。
 男は桜から一メートルほど離れた場所で立ち止まった。ほっとしたのもつかの間、スッと鞄を持っていない方の手を動かす。桜を捕らえるつもりなのだ。
 捕まる……!
「お呼びですね?」
 しかし男は桜の想像とは違い、手を自らの帽子に当てた。そのまま帽子を脱ぐ。やはり闇に溶けそうな黒色が現れた。
「……え?」
 悲鳴のためにため込んでいた息をドッと吐き出す。今、この男は何と言ったか。
「お呼び……?」
「初めまして」
 呆然とする桜に、男は微笑んだようだった。暗くてよく見えないが。
「時間屋です」
「じ、かん、や……?」
 聞いたことのない名称に戸惑う。じかんや。じかんや。漢字変換ができない。日本語ではないとか? まさか、日本語のように聞こえた。
 桜の様子がおかしかったのか、それとも違う理由なのか、彼は笑みを深めたようだった。
「『時間屋』あなたの時間、買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、是非お呼びください!」
 どうやら決まり文句らしい。抑揚もなく淡々と言い切った男に、桜は脱力したまま立ちすくんでいた。


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei