短編集
53. しじまに沈んで (1/2)
夢の中でいつも灯子は走っていた。何かに追われているわけではなく、むしろ何かを探している気がした。何を、かは何度走り続けてもわからない。足を止めることもなく、灯子はあらゆる夢の中で踵を地につけてはつま先で蹴り出していく。
視界を通り過ぎていく景色は様々だ。光の一つもない闇だったり、見たこともない大都会だったり、ひね曲がったメルヘンな家が並ぶ街並みだったり、学校の帰り道だったり、幼い頃に遊んだ公園だったりする。自分の格好も、制服だったり私服だったり裸同然だったり、挙句人間ではない形だったりもした。けれどどこであろうと何であろうと灯子は走っていた。一人で、何かを求めて息を切らしながら延々と走っていた。何度かは間に合わないと直感して泣きそうになった。何度かはもう少しだと直感して笑みをこぼした。けれどどんな夢の中でも、灯子は自分が走っている理由に辿り着くことはなかった。
「走る夢にはいろんな意味があるらしいよお」
灯子の相談に、放課後の教室が似合う制服姿の少女達はきゃっきゃと楽しげにスマホを触る。
「何か、全体的に警告とか精神不安定とかそんなんばっか」
「まじで? 灯子、なんか思い詰めてんの?」
「ないよ何も!」
だよねえ、と灯子の友達は笑う。
「灯子ってさ、まじで何も悩みなさそう」
――何を言っているんだか。
悩みがないわけがない。灯子にも見た目だとか成績だとか親だとか、あらゆることに不満の一つや二つは述べられる。現に今、一番の悩みである夢について相談したのにその言い方はないではないか。
「酷いなあ」
灯子はわざと頰を膨らませた。怒っている、ということを示す、少しふざけた雰囲気が出る少女達の共通言語だった。
本気じゃないけど嘘でもない、そのくらいの。
灯子達には日本語ではない言語がある。例えば頰を膨らませれば、深刻ではないにしろ不満だという意思表示になる。例えば名札にネジで留める校章が百八十度ひっくり返っていたら彼氏募集中だし、例えば体操着を交換している二人組がいたらその子達は恋愛関係だ。制服のスカーフの赤色を明るい色にして良いのは最上級生だけ、スカート丈を二つ折りに捲り上げて良いのは最上級生だけ、これを守らなかったらイジメの対象。灯子達は入学してからすぐにそれらの情報を手に入れ、自分達に相応しい言語を文字通り「身に着ける」。
初めは面白いと思っていた。まるで自分達にしか通じない暗号みたいで、教師の目を掻い潜って交換日記を学校に持ち込むのと似た快感に興奮が止まらなかった。けれど少し間違えれば痛い目に遭うし――実際この言語を知らなかった子が上級生に呼び出されていたのを見たことがある――付き合ってる子がいるのに校章のネジが緩んで逆さまになっていたら浮気の証拠になるし、付き合ってるのに体操着を交換していなかったら不仲を疑われるし何かと面倒くさい。
今だって、灯子は本気で怒りたいのに頰を膨らませるのだ。
「あたしだって悩みくらいあるよ。無神経みたいに言ってくれちゃってさ」
「やぁだ、灯子ったら怒んないでよ。本当のことじゃん。あんた、いっつも気ままそうだし思ったこと全部口に出すし」
そんなことない。今だって我慢してる。そんなことを言えるわけもないのだけれど。
「何さ、もう」
頰を膨らませたままそっぽを向けば、友人達は面白がって灯子の頰をつついてきた。
***
灯子は走っていた。走っている、という事実が灯子に「ここは夢の中だ」と直感させた。夢だとわかったところで目が覚めるわけでもないし、何かに辿り着くわけでもないのだけれど。
目の端へ「止まれ」の標識が流れて消えていく。黄色いMの字が、二股の尾を両手に掲げた人形の看板が、中央分離帯が、車が、バスが、何もかもが前から後ろへと流れていく。ベルトコンベアーに乗せられているみたいだ、と灯子は走りながら思う。自分よりも速いものはなく、何もかもが静止したまま自分に追い抜かれていく。このまま走り続けたらどこに行くだろうか。日本列島は海で囲まれている。例え都市を過ぎて山を越えたとしても、そうでないとしても、必ず海に辿り着くはずだ。
海。
あの青い広大な水面を思い出した瞬間、灯子の目の前に砂浜が現れた。鼻先に腐ったような爽やかなような、息を止めたくなるにおいが届く。海だ。そうだ、これは灯子の見ている夢なのだから、灯子の想像したものが脈絡なく目の前に現れてもおかしくはない。
灯子は海へと走っていく。砂山へ乗り上げては引き込むように引いていく海の端っこが見えてくる。その先には陸地がない。海の上は走れるのだろうか? 夢ならできそうだけれど。
灯子の足が水面を叩く。パシャ、と水が跳ねる。残念なことに水面は灯子のくるぶしを撫でた。足の裏は水面の上に乗ってくれない。砂浜を蹴る感覚は続き、水面が灯子の身長を追い始め、段々と足が水の重みを蹴り飛ばせなくなっていく。
沈む。
途端、灯子は叫びそうになった。
沈む! 沈む! もう走れない、走りたくない、このままじゃ沈んじゃう!
水面は喉まで迫っていた。足裏は未だ砂を蹴っている。人間は肺に空気が入っているから浮くはずなのに、灯子はまだ沈む、まだ沈む、まだ浮かない、まだ浮かない。
溺れる!
「……ぅあ!」
叫んだ瞬間、口の中に海水が入ってきた。しょっぱすぎて吐き出しそうになったけれど、それよりも先に海水が雪崩れ込んでくる。
空気を求めて開けた口に、喉に、肺に、胃に、注ぎ込むように海水が流れ込んでくる。それでも灯子は海水を吐き出そうとした。そんなの無理だよ、と自分に思っても脊髄反射は止まらない。呼吸を求めて海水を吐き出そうとする、そこへ海水が流れ込んでくる――何が起こっているのか判断できないまま、灯子は手足をばたつかせて海の中を走っていた。もう訳がわからない。走れば良いのか呼吸すれば良いのか海水を吐けば良いのか他にすることがあるのかわからない。
わからないまま、すうっと眠りが訪れる。死にかけのところに突然の眠気。パニックによる喧騒も息苦しさも何もかもがすうっと消える。何て呑気なのだろう。そんなことを思いかけて、ああ、これが死ぬという感覚なんだな、と灯子は根拠もなく静かに気付く。
へえ、知らなかったな。
死ぬって、こんなに無音なんだ。
***
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei