時間屋
O. 背水の陣 (1/1)
ずっと疑問に思ってきた。
誰かがそう言うたびに、私の心には薄暗い雲が立ちこめた。
――死ぬのは駄目なこと。
――死ぬのは弱いこと。
――生きていたら良いことあるから。
どうして、死んじゃ駄目なんだろう。どうせ皆いつかは死ぬのに。時期を早めることの何が悪いんだろう。
「死んじゃ駄目なんじゃない。生きていて欲しいんでしょう?」
病院――生者と死者を毎日排出している白い建物の屋上で、私は笑った。心底可笑しかった。今更口にするものでもない。
「知り合いに死なれるのが嫌だから。自殺なんて縁起が悪いから。みんなは生きているのに私にだけ死なれると居心地が悪いから」
目の前の見知らぬ他人にそう言って、私はくるりと背を向けた。屋上というのは風通りが良くて、おまけに視界も広くて、空が広くて、地上のどこにいる時よりも心が晴れやかになる。柵の欠けた屋上の端っことなるとそれが倍増しだ。
三角巾で吊った左手を軽く持ち上げるように、怪我一つない右手を引きちぎってしまうほどに、可能な限り両手を広げる。風を受けて、病院から支給されているぶかぶかの白い服がばさばさと音を立てた。服の下を、頬を、風が撫でていく。死人の指のように冷たいそれは、私の肌に、爪の先に、小さな痛みを与えていく。
「確かめたかっただけなの」
目の前の光景を眺めながら私は背後にいる人へ声をかける。眼下の横に伸びる黒い筋に、車が点になって走っている。その両側にそびえる建物の大群が、乱立するきのこのように、無造作に、無機質に立っている。その奥には青みのある山々。そして青色の空。遮るもののない視界の中で、空は私を覆うようにめいっぱいにその全貌を晒している。ぐるりと首を回しても途切れることのない空。その色は血の気を失った人間の肌のような冷たい青。
「どうして死んじゃいけないのか、どうして死なせてくれなかったのか。確かめたかっただけ」
「答えは出ましたか?」
穏やかな男の人の声が風に紛れて聞こえてくる。私は朗らかに笑った。
「出なかったよ。私は死ねなかった。学校って意外と低いのね、三階の窓から落ちたのに、左腕の骨折だけで済んじゃった」
大声で笑い出しそうになりながら、お腹から声を出す。大空に向かって叫ぶのは心地が良かった。
「また落ちますか?」
低い声が単調に訊いてくる。まるで私に飛び降りることを期待しているかのような言葉には煽るような響きはなくて、ただ単にイエスかノーかを訊きたがっているようだった。
「……そうだね」
私は背後にいる男の人へと体を向けた。全体的に白い病院の屋上はやはり白い。床は白いペイントで塗り尽くされていた。出入りを禁じている場所にも白を施すなんて、病院はどこまで白色に拘っているんだろう。
「ねえ、時間屋さん」
その白の中に佇む人影に、私は努めて明るく声をかけた。白色にぽっかり浮かんだ黒色。私自身の影と見間違えてしまうかのような黒い格好のその人は、私の声に僅かに反応するそぶりを見せた。
黒いスーツ、黒い鞄。黒い靴。一見普通のサラリーマンのような姿。若い見た目を裏切る全く染めていない真っ黒な短髪は、黒い帽子の下に隠れている。出会った時から違和感のある人だ。見た目も、存在も。まるで青い画用紙にべったりと乗せられた白い絵の具の塊のような。
「どうして死んじゃいけないの?」
「あなたはどうお考えですか」
先程屋上に唐突に現れた彼は、また同じ問いを私に向けて来た。一種のお遊びだろうか。私は明るく笑って、先程と同じ答えを返す。
「他人のエゴ」
風に吹かれて髪が視界を覆う。黒い彼と私の黒い髪が同化して、一瞬彼の姿を見失った。髪を掻き上げて、私は改めて黒い人を見下ろす。
「知り合いに死なれると怖い、誰かが突然いなくなるのは怖い、自分は死ぬのが嫌だから他人にとっても死は嫌なものだと思い込んでいる。……当人がどう考えてどういう経緯で死にたいと思ったかを全く考慮せずに、自分の考え方、感じ方を押しつけているの。もしくは、世間はそういう風潮だから、とか」
「あなた自身はそうお考えではない、と」
「だって私死にたいもの」
にっこり言えば、彼は困惑する様子も見せずにただ微笑んでいた。少しびっくりしてしまう。普通の人は、戸惑ったように目を逸らして、まるで英語を知らない子供がハウアーユーを言うように「死んじゃ駄目だよ」と言ってくる。中身のない定型的な答え。私はもう飽き飽きしていた。
けれど、と私は黒ずくめのその人を見返す。この人は違った。この人だけは違った。
「ねえ、時間屋さん」
だから、私は彼に、彼にだけは訊いてみたくなるのだ。
「どうしてあなたは私を止めるの? あなたには、他の人にはない、しっかりとした答えがあるんでしょ?」
「難しい質問ですね」
幼い生徒から変わった問いかけをされた教師のように、彼は風に揺れる帽子の下でくすりと笑った。屋上の端に立つ自殺志願者をよそに、のんびりとした様子で、のんびりと思考して、そして開口する。
「あなたにとって最も良いと思うから、ですかね」
その答えは、私が最も忌み嫌っている答えとさほど変わりないものだった。違う答えを求めていただけに、彼の言葉は包丁の刃先のように私の心の表皮を傷つけた。
「……つまり、この先に良いことがあるから今は死んだら駄目ってこと? あなたも他の人みたいに、生きていればいつか良いことがある、とかそんな証拠のない決まり文句を言うの?」
声が震えていることに気付いたのはだいぶ後だった。私はただ、すぐに屋上から飛び降りてしまいそうな足を必死に留めていた。
違う答えを期待していたのに。この人も、そこらの人と同じなんだ。他の人と違うと感じたのは勘違いだったんだ。
「いえ、そうではなく。言葉そのままの意味ですよ」
絶望する私に、なぜか楽しげに彼は笑う。
「あなたにとって、今死ぬよりも今生き延びる方が、後悔しないのではと思いまして」
「後悔?」
「後悔、です」
顔を上げたのか、僅かに黒い帽子のつばが上がる。その下から覗く彼の目が、私を捉えた。
「仮に、あなたが今ここで飛び降りたとして」
きらりと光る一対の黒。暗闇を思わせる黒い目が、獲物を狙う蛇の目のように私を映す。息が止まる。足の震えが制御できない。間違って足を滑らせて飛び落りてしまいそうだ。
「あなたは本当に幸せになれますか?」
「幸せ、に……?」
「後悔するでしょう?」
私の何かを知っているかのように、黒い眼差しが笑う。
「自殺をすれば家族に保険金は降りない。けれど葬式はお金がかかる。突然娘を失った家族はあらゆる意味で悲しまれるでしょう。ご友人もしかり、何も知らないのに『何もしてあげられなかった』と嘆かれる。世間にも『本当は生きたかっただろうに』と言われる。または『心の弱い子だ』となじってくる。あなたの部屋は荒らされるでしょう。そして趣味などが暴露され、『こんな子だった』と赤の他人に自分を極端に断言される。……あなたは、家族や友人が悲しんでくれることを知っている、そして、彼らに自らこの世界から離れるという前向きな思考が理解されないまま死ぬことを躊躇っている」
穏やかに告げられる言葉に、私は何も言えないまま耳を傾けていた。口を挟む必要もなかった。
――わかっていた。確かに、そうなんだ。私は、結局。
「……生きづらい世の中だよね」
私は笑った。正確には、笑ってみせた。強ばった頬は予想以上に綺麗な笑みを形作ってはくれなかった。
「自由に生死を選べもしない。……私ね、今まで一度も『生まれてきて良かった』って思ったこと、ないんだ。生まれてこなければ良かった、ってばっかり思ってきた。いろんな人を傷つけてきたし、お金かかってるし。私一人いないだけでどんなに笑顔が増えるだろうって、そんなことずっと思ってきた」
私のふとした言葉は友人を傷つけてきた。生活に苦しむ家族を尻目に、私は学校へ通い、欲しいものを買ってもらった。私は恵まれていた。そして、私は、私のいない世界を何度羨望したことか。
「望んでなかったんだよ、生まれてくること。なのに強引に生かされて、拒否することも途中棄権することもできなくて。死んだ方が私にとっても誰にとっても良いはずなのに、誰も許してくれない。……私はね、時間屋さん。誰の不幸にもなりたくないの。でも、生きている以上は誰かを傷つけたりしないわけにもいかないでしょう? いっそ消えてしまえたらって思うんだ。私と関わった人全てから私に関する記憶がなくなって、はじめからいなかった存在になれたならって」
冷たい風が背中に吹き付ける。まるで私を屋上の内側へと押し戻すように。私にまだ生きろと言わんばかりに。
そう、君もそう私を追い込むんだね。心の中で風に話しかける。目の前に迫る敵に向かえと。生きろと。背後の水の流れに身を投じることを、君も許してくれないんだね。
「でも今はもう死ねない。今死んだら、誰かが悲しむ。誰かが傷付く。そんなの本末転倒だよ、望んでない。……だから、私は死ねないんだ。こんなに死にたくてもさ」
もう、いっそ、ね。そう呟いて、私は笑う。
「死ぬことができたら、どんなに幸せだろうね」
震える声とは反対に、今度は綺麗に笑えた。これが私の本心だからだ。私は死ねない。どう足掻いたって、もうみんなの記憶の中から消えることはできないのだ。
「人がどうこうできないのが生と死です」
やはり穏やかな声で男の人は言う。私の話を聞いていなかったのではと疑うほど変化のない声音に、私は安堵した。
「阿部奈美さん」
教えていないはずの名前が呼ばれる。自然と反応してしまうような、隠しきれない本能を掘り出すような、脳に直接響いてくるような、抗えない柔らかな声。私は彼を見返した。同じく、彼も私を見返す。目が合った。黒い、優しい眼差しが私の目を惹きつける。
その目がそっと細められる。
「時間をお売りしましょう。死ねないあなたが少しでも生きやすくなるように。あなたがせめて苦痛を感じながら価値の見いだせないこの世界を生き続けることのないように」
優しい声に反して甘い響きはなかった。彼の言葉は、生き続ける未来しかないことを見せつけてくるだけの、厳しいものだった。
私はそっと背後を見た。黒いアスファルトと点のような車、たくさんの建物が青い空の下で輝く広い光景。建物の上から見下ろす地面は、遠い。
あと一歩をそちらに踏み出せば、死ねる。
「精一杯のお手伝いをいたしましょう。『時間屋』の仕事は、お客様の心を救うことですから」
背後とは対照的な、目の眩むような一面白の床の中で、黒いその人が優しく笑う。視力を奪う白い強烈な光の中でぽかりと現れた、黒い抜け道。私の背中にある、広大で鮮やかな景色とは違う、小さくて、けれど白の中にはっきりと浮かんでいる黒。
白以外の何も見えないこの世界の、唯一の道標。そちらに一歩踏み出したなら、私は、死ねない。
私は奥歯を噛みしめて、拳を握りしめた。喉の奥に炭酸飲料を飲み上げた時のような痛みがじわりとこみ上げてくる。その痛みは、やがて目の奥へと到達した。ひくりと喉が痙攣する。息をつめて耐えながら、私は顔を上げた。変わらず笑みを向けてくるその人の顔を見下ろす。
「私、は……!」
そして私は、一歩踏み出した。
解説
2017年12月02日作成
文庫化した時の冒頭短編。タイトルは中国の故事から。当時の死生観をぶち込んだ作品その1。彼女は最後屋上のどちら側に足を踏み出したのかは想像にお任せします。
生きたいと思うことが人間の権利なら、死にたいと思う心も尊重されるべきなんじゃないかと私は思います。死にたいにもいろいろあるんですよね、逃げたいだとかつらいだとかだけじゃない。生きたいと思って生きている人間が死にたいと思っている人の考えを理解できないのと同様、私には生きたいと思っている人の考えは理解できません。それで良いと思うんです。生死への思いなんて人それぞれなんだもの。そういうことを認め合える(その上でその人が死にたいから死にたいのか生きたくないから死にたいのかを判断するのは大事です)ような世界になれば良いなと思います。
文庫化したのを初めてあげたのが母だったんですけど、こんな冒頭で何と思われるだろうとひやひやしていたんですが、他に私らしくて時間屋さんらしい良い冒頭結末が思いつかなかったんですよね。母は喜んでくれました。家族全員に勧めてくれました。弟だけが「悪くないんじゃない?」って言ってくれたらしいです。父も姉もこういうしんみり系?考える系?のお話好きじゃないから仕方ない。むしろ国語が苦手な弟に読ませたってのが意外だったわ母上よ。時間屋さんを書いていたのも「母が好きそうだから」だったこともちょぴっとあるのでめちゃくちゃ喜んでくれて報われた気分になりました。「時間屋さんの本に似合うと思ったから是非つけて!」って黒猫の布地ブックカバーまでくれたので、今机の隅にそのカバーつけて置いてあります。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei