時間屋
1. 時は金なり (1/5)
長らく仕事で使っているはずの黒いスーツは、肩周りが窮屈だった。縮みでもしたのだろうか。そんなことを思いながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
目の前に人がいる。入れ替わり立ち替わり、何人もの人が、私の目の前で同じ動作をしている。皆黒い服を着ていた。大半が数珠を擦り合わせて頭を下げるかのように祈っている。祈っているというと語弊があるだろうか。――願っていた。神に己の幸福を、ではなく、他者に他者自身の幸福を。
彼らが頭を下げる対象は、私の横でうずくまっている大きな箱だ。白い木製の、人一人が横たわって入るほどのサイズの。私は出来損ないの機械人形のようにぎこちなく、そちらへ首をひねる。箱の後ろのひな壇に飾られた黒縁の写真と目が合った。
優しげに微笑む一人の女性。家族写真の一部であるかのような朗らかなそれは、笑顔のないこの場所の中では極めて異質だった。すすり泣く声さえ聞こえる静かなセレモニーホールの一室で、写真の中の彼女だけが楽しげに笑っている。空気を読めない性格ではなかったはずなのに。むしろ気配りのできる細やかさを持っていたはずなのに。しかしここにいる誰もが、伴侶たる私でさえも、彼女に怒鳴ることすら許されていないのだった。
彼女は、妻はもういない。
突然のことだった。会社にいた私は、一つの電話を受けた直後に仕事を全て部下に押しつけてきた。
今まで任された仕事を放棄したことなど一度もなかった。小さな会社ではないが、職場内で一番会社に尽くしてきた自信はある。そんな私だったのに、電話一つで全て投げ出したのだ。腸が断たれる感覚というのはこういうものなのだろうか、そう朦朧と考えてしまうほどの腹痛に似た痛みと罪悪感から来る吐き気に耐えながら。
その結果が、これだ。いや、「それでも結果は変わらなかった」というべきか。
「ご愁傷様でした」
妻へ捧げる祈りを終えた女性の一人がこちらへと頭を下げる。妻の友人だろうか。妻と言いながらも、私は彼女の何を知っているわけではなかった。
「とても良いお母さんでしたのに……何度か保護者参観でお会いしたんですが、まさかこんな急に」
ああ、違うのか。友人ではなく、娘の幼稚園の関係者らしい。先生だろうか、他の子供の親だろうか。全くわからないまま、他の人にしたように、私はただ頭を下げるだけだった。
「お一人で大変でしょうが、どうか」
頑張ってください、と続けたのだろうが、同時に頭を下げられたせいで聞こえなかった。私はまた、何もわからないまま頭を下げる。
お一人で、何を頑張ってくださいと言ったのだろう。
仕事だろうか。私が、妻の喪失によって仕事を怠るのではと? まさかそんなはずはあるまい。私一人で家庭を支えてきたことは誰もが知っているはずだ。そう思われるようにと頑張ってきたというのもある。だから、そんなことを言われたと考えるのは違う気がした。では、何を頑張れと言ってきたのだろう。
ふと、隣に誰かが駆け寄ってきた。小さな影だ。大人とは思えない、上半身をも足の動きに合わせて大仰に揺らす、小さな。
「おとうさん」
そう言って、その小さな背丈の人影は私のスーツの裾を引っ張った。
見下ろして初めて、その正体に気付く。私の娘だ。妻の忘れ形見、妻の愛した命。黒い洋服を着た娘は、妻そっくりの大きな目をさらに大きくして私を見上げてくる。
葬式の間は妻の姉に世話を任せていたはずだ、どうしてここにいる? 今子供の相手ができる余裕はなかった。おばさんの所へ戻りなさい、そう言おうとして言葉に詰まった。
娘にはもう父たる私しかいない。最も親しかった母は、もういないのだから。
なら、私はこの子に母同然の愛情を注がなければいけないのではないだろうか。父として、亡き妻の夫として。
「……どうした」
囁くように言った。その声が思ったより低く出て、娘は唇を一瞬震わせた。怖がらせてしまったらしい。慌てて言い直した。
「どうしたんだ?」
「……おしっこ」
「おばさんに行ってもらいなさい、おとうさんは忙しいから」
「おしっこ」
なぜだ? なぜ、言うことを聞いてくれない? さっきまで大人しく部屋の隅にいてくれていたのに。
すがりつくように、しかし遠慮がちにスーツを掴む小さな手を一瞥した後、私は部屋を見回した。すぐに妻そっくりの風貌をした義姉を見つける。きょろきょろと周囲を見回していた。すぐに目が合う。手招きすると、慌ててこちらに来た。どうやら娘は、義姉が目を離した隙に私の所に来たらしい。
「ごめんなさいね」
そう囁いてきた義姉に向かって、私は娘の背中を押した。
「トイレに行きたいそうだから、連れて行ってやってください」
「え? ああ、そう、でもさっき行ったばかりなのに……」
子供だから尿意の調節ができないんじゃないのか? そう思ったが口にはせず、私は来訪者への頭下げに再び没頭する。義姉を責めたところで何の問題の解決にもならないし、娘の排尿に関しては正直どうでもよかった。とにかく娘を引きはがしたかっただけだった。
義姉に暫く説得され、娘はようやくスーツから手を離したらしい、服の荷重が軽くなった。横目で、去っていく義姉と彼女に手を引かれていく娘の背中を確認する。
「大変ですね」
この度はどうも、と頭を下げてきた男性が弱く微笑む。愛しいものを見る目つきで、私を眺めていた。何がでしょうか、そう問うのも馬鹿らしくて、私はただ「いえ」と頭を下げる。
「娘さんのお世話、頑張ってください」
そう言って男性はもう一度深く頭を下げてきた。私も下げ返した。だが、頭の中は突如として現れた答えでいっぱいだった。
――娘さんのお世話、頑張ってください。
ああ、そうか。やっとわかった。
先程の女性の「頑張ってください」は、これだったのだ。
私はちらりと部屋の隅を見た。娘がつまらなそうに義姉の隣の椅子に座っている。母の葬儀だというのに、どうしてそんな顔ができるのだろう。わからなかった。
そう、わからないのだ。娘の世話は全て妻に託していた。押しつけていたと言ってもいい。だから、今の娘の幼稚園の担任の顔も、娘の友達も、娘の生活習慣も、何一つわからなかった。
娘は時折、義姉に抱きつく仕草をしている。妻へもああやっていたのだろうか。
母を失った娘。まだ母に甘えたい年頃だろう少女。
そんな子供に何をすれば良いのだろう。おむつはもう外れているだろうが、先程のやりとりを思うと油断はできない気がする。食事は? 料理など大学生の時の一人暮らしで仕方なく卵を焼いたくらいだ。離乳はしている、おかゆは食べられるはずだ。ご飯は? そもそも歯は生えそろっているのだろうか。すでに生えそろっているのだっけ。何歳くらいにそろうものなのかさえ知らない。そういえば娘は何歳だ? 好きな食べ物は? 嫌いな食べ物は? 好きな色は? 嫌いな動物は? 好きな番組は?
掃除は? 洗濯は? 風呂は? 妻はどうしていたのだろう。
わからなかった。
「梶原さん」
唐突に名前を呼ばれてハッと前を向く。知らない誰かが申し訳なさそうな顔をして立っていた。どうやら来訪者に気付かなかったらしい。とんでもない失態だ。私はこれまでの人にした以上の回数、その人に頭を下げた。
こんなに頭を下げたのは入社した年以来かもしれない、そう思いながら。
***
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei