時間屋
1. 時は金なり (2/5)


 家に帰ったのは暗くなってからだった。
 ただいま。そんなことを言うような気力もなかった。黙って玄関に入って靴を脱ぐ。足が拘束から解放されたかのように軽くなった。仕事で慣れているはずの革靴なのに、どうにも履き心地が悪かった。
「ただいまあっ!」
 元気な声で娘が家に入ってくる。娘の背中を押すように義姉も入ってきた。
「じゃあ俊哉くん、私も今日は泊まるね」
「はい、助かります」
 心からそう言うと、義姉は小さく微笑んだ。こういうところは妻と違う。妻は、いつだって明るくて朗らかだった。黒縁の写真の中の彼女のように、今の娘のように。
 娘を連れて義姉が家の奥へと入っていく。娘は疲れているだろうから、すぐに眠ってくれるだろう。義姉もいてくれるし、何も心配しなくて良いようだった。
 私は玄関の鍵を閉めようとサンダルを履いて扉に手を伸ばして――躊躇った。
 振り返って玄関に並んだ靴を見る。高いヒールの義姉の靴。小さな娘の靴。私の大きな男性用の靴。
 一つ、足りない。
 小さめのスポーツシューズが、ない。
 まだ帰ってきていないのだ。なのに、鍵をかけてしまっていいのだろうか。
 違う、と心の中で声が上がる。わかっていた。けれどそう思わずにはいられなかった。
 靴が足りない。買い物に出かけた妻の靴が、出かけ先で倒れた妻の靴が。
 それは、とても大きな欠損のように思えてならなかった。
 けれど。
 ――この欠損は永遠に続くものなのだと。
 玄関に佇みながら、そう自分に言い聞かせるかのように、指の先から鳴るカチャリという音にじっくりと聞き入った。
 その後のことはよく覚えていない。気がつけば娘の風呂場で騒ぐ声も義姉の楽しそうな声も聞こえなくなっていた。二人とも眠ったらしい。私は一人リビングにいた。晩酌をする気力もないまま椅子にただ座り込む。四人がけの四角いテーブルには、花柄のテーブルクロスがかかっている。向かいの壁にはテレビ台があって、大きなブラウン管テレビが居座っていた。テレビの前には背の低いソファがある。よく帰宅後はそこに座って妻と共に深夜番組を見ていたが、それはもう叶わないことだ。
 ただ呆然と宙を眺める。
 何時だろう。唐突にそう思った。時計はどこにあっただろう。部屋を見渡して、テレビのそばに目覚まし時計があることに気がつく。そうだ、確か妻が壁に掛けていた時計が壊れたと言っていた。あれは妻の目覚まし時計だ。新しいのを買うまでの代わりに置いてあるのだろう。
 かつては妻を起こしていた目覚まし時計。
 ――今でも、彼女を起こしてくれるのではないだろうか。
 そんな妄想も笑えなかった。疲れているのだ。きっと眠ればいつもの切れの良い頭が戻っている。寝よう。眠気のない頭でそう思った。
 明日起きて、仕事場に行って、ああその前に娘を幼稚園に送って、上司や同輩や部下に仕事を放棄したことを詫びて、そしていつも通りに仕事をしよう。いや、いつも通りではない、それ以上に。
 娘は母を失った。今は義姉がいるが、ずっとというわけにはいかない。義姉には義姉の生活があるのだから。彼女がいなくなったら寂しくなるだろう。母がいない寂しさを紛らわしてやらなくては。
 そのためにお金が必要なのだ。好きなものをたくさん買ってやりたい。そうすればきっと娘は喜んでくれる。それが、葬式の間に出した結論だった。
 娘を悲しませないようにしよう。父として。
 だから、働くのだ。時間を惜しまず、今まで以上に懸命に。ああ、がもっとあれば良いのに。そうしたらもっとお金を稼げる。もっと娘を喜ばせてやれる。妻がいた今までよりも幸せにしてやれる!
 ――ピンポーン。
 軽快な電子音がリビングに響いたのはその時だった。慌てて立ち上がると椅子がガタリと鳴った。家に帰るのはいつも深夜で、自分がいる時間帯に人が訪れてくることなど滅多になかったのだ。怪しい勧誘だろうか。こんな深夜にご苦労なことだ。妻の目覚まし時計の二本の針が上を向いているのを確認しながら、私は玄関へと向かった。
 玄関の鍵を開け、警戒心を露わにしながら扉を開ける。
 扉の向こうは――真っ暗だった。一瞬誰もいないかと思った。相手が見えなかったのだ。
「こんばんは」
 深夜の暗闇に溶けそうな黒い服を着た彼は、扉を開けた私を見てそう言った。聞き心地の悪くないテノール。彼とは言ったがそれに確信を得たのは後のことだ。
 深夜の訪問者は黒い格好をしていた。黒い帽子に、黒いスーツ、黒い革靴、黒い鞄。まるで会社員を思わせるきっちりとした格好だった。青年と呼べるだろうその佇まいは、仕事に慣れ始めた新入社員に似ている。会社の関係者だろうか。
 訝しむ私に気付いてか、彼はくすりと笑った。口元がゆるい弧を描く、静かな微笑みだ。しかし馬鹿にされたような気はしない。敵意のなさを示す、表向きの笑みのようだった。
「お呼びですね?」
「……は?」
 お呼び? 誰が。私が? まさかそんなはずがない。会社には休むという連絡しかしていないし、誰かが家に来るという連絡も受けていない。義姉だろうか。いや、呼んだ相手がいるなら先に寝たりはしないだろう。せめて私に一言言うはずだ。
 では、彼は誰だ?
 混乱する頭で何も言えずにいると、目の前のその人は帽子を取った。短い黒い髪が露わになる。思ったより若かった。若者っぽい端正な顔立ちのせいか、染めていない髪が珍しく思える。
 帽子を取った彼は、私を真っ直ぐ見つめてきた。黒い目に射竦められる。とはいっても恐怖のようなものはない。道端で偶然野良猫と目が合ってしまった時のような、少し息を呑んでしまうくらいのどうということのない眼差しだ。
 彼は私を映している黒い目を細めて、笑みを深めた。そして、胸元から名刺入れを取り出して、慣れた手付きで一枚を私に差し出してくる。
 三文字の明朝体の漢字が縦に並んでいるだけの簡素すぎる名刺だった。
 『時間屋』
「突然お邪魔します。わたし、時間屋と申しまして」
「時間屋……?」
「『時間屋』あなたの時間、買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 手続き簡単簡潔、お手を煩わせません! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
 無表情で言い切り、ぶつりと押し黙る。決まり文句らしい。それにしても長いし語呂が悪いが。
 しかしどういうことだろう。時間を買い取る? つまり時間をお金に変えることができるということだろうか。想像ができない。時間という名詞と買い取るという動詞がうまく結びつかなかった。けれど本当なら、私は望むものを手に入れられるのでは? だが本当に可能なのだろうか。相手の意表を突いてくる新手の詐欺なのでは?
 何と答えたら良いものか。奇妙な沈黙の中、とりあえず、はあ、と気の抜けた返事をすると彼はくすくす笑った。よく笑う人だ。そのせいだろうか、玄関を開けた際の警戒心はなくなっている。代わりに別の感情がわき上がっていた。
 面白い、と。部下の思いがけない企画書を見た時のような、詳しく話を聞いてみたいという衝動だった。詐欺だとしても興味深い。
「どうぞ」
 気付けば私は彼に家の中に上がるよう言っていた。ニュースはよく見ているから、深夜の見知らぬ来訪者の危険性はよくわかっている。なのに、なぜだろう。
 彼は、彼なら、彼だから、招き入れたいと思ったのだ。
 
 ***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei