時間屋
1. 時は金なり (3/5)


 リビングのテーブルの上に湯気の立つマグカップを置くと、ありがとうございます、と声が返ってきた。何か麦茶でも出そうかと慣れない手で冷蔵庫を漁っていた私に、彼はインスタントのブラックコーヒーを頼んできたのだ。こんな深夜に、しかも何も入れないインスタントコーヒーとは。好きなのだと笑っていたが、考えただけで胃袋が痙攣しそうだ。
「さて」
 私が向かいに座ったのと同時に、一口すすってマグカップをテーブルに戻し、時間屋はそっとこちらを見遣ってきた。
「早速なんですが、梶原俊哉さん、時間をご所望ということでよろしいですね」
 一瞬耳を疑った。時間を? 仕事をする時間ということか。いや、違う、と首を振る。仕事をする時間が欲しいとは言ったが、それはお金を稼ぐためだ。
 なら、時間屋だという彼に望むのは、時間ではない。
「お金を」
「え?」
 意外そうな顔をされた。そもそも時間が欲しいとは一言も言っていないのに、どうしてそう決めつけてくるのだ。苛立ちを込めて睨み返す。部下にもそういう輩が数人いて、よく注意しているのだが、決めつけで交渉を重ねてはいけない。相手を不快にするからだ。
 いや。そこまで考えて私は仕事脳になり始めた思考を停止させる。
 そもそも――そもそも、私は時間屋に名を告げただろうか。表札には私の名字しか載せていない。時間屋とは初対面だ。けれど、今さっき彼は。
「地獄耳なんですよ」
 睨み付けている先で楽しそうに時間屋は言った。
「お客様の声、思い、そういったものが私にはわかるんです。時間が欲しい、もしくはお金が欲しい、その言葉を私は聞き、お客様の元へ赴きます」
 そんなおとぎ話のようなことがあって良いものか。そう思ったが言わないことにした。今の関心はお金を手に入れられるのか、それだけだ。それに、どうやら口にせずとも時間屋は私の考えていることがわかっているらしく、口元を可笑しそうに歪めている。相手がわかっているならわざわざ指摘する必要はないだろう。
「というわけで、時間をご所望だと伺ってこちらに参上したのですが……お金の方をご所望でしたか、すみません」
「いや」
「意外だったもので」
「意外?」
「いえ、こちらの話です」
 思わせぶりに微笑みながらも、彼はそれ以上何も言わなかった。代わりに、では、と身じろぎする。
「時間の買い取りをご希望とのことですので。一秒千円となります」
「一秒千円……」
 復唱してみたものの、よく理解できなかった。時間など売ったこともないし買ったこともない。高いのか安いのか妥当なのかわからなかった。
「一分六万円、と言えばわかりやすいでしょうか。よく高いと言われますが、一秒の価値を思えば安い方ですよ」
「一秒の価値」
「ええ。一秒というととても短い無価値な時間のように感じられるでしょうけど、一秒あるだけで人生というのは大きく変えられるものです。例えば、一秒差で電車に乗り遅れてしまったり、一秒差でテストの最後の答案をマークできなかったり。一秒もあればその後の人生を大きく変えることができるんです。恋愛ドラマによくある、同じ商品に男女が同時に手を伸ばして触れ合ってしまう場面、あれもどちらかの時間が一秒ずれたらその後の展開が変わりますよね。一秒という時間には、本当は数値には表せない価値があるんです。一秒千円は実はとても安いんですよ」
 わかりやすいようなわかりにくいような、微妙な説明だった。はあ、とまた気の抜けた返事をすると、時間屋は慣れたようにくすりと微笑む。気分を害した様子はなかった。
「時間の買い取りの場合、あなたのこれからの人生から買い取り分を引かせていただきます」
「買い取り分を引く? 寿命が縮むってことか?」
「結果論はそうなりますが、ただ短くなるのではなく、それなりの価値がある時間が減るということです。一秒の価値の話をしましたけど、一秒乗り遅れて次の電車に乗ったら将来の伴侶と出会った、という場合と、一秒乗り遅れて次の電車に乗ったが特に人生を大きく変える展開はなかった、という場合とでは一秒の価値に差がありますからね。梶原さんの場合でしたら、どのくらいの時間をお売りになるかにもよりますけど、例えば会社の緊急会議が入ってしまって、本来見れるはずだった娘さんの運動会が見れなくなった、といったことになるかと」
 娘のために時間を売るのだから、その分娘と過ごす時間が少なくなるということか。
「なるほど」
 ろくにわからないまま頷いた。お金が手に入るのなら何だって良かった。
「で、どのくらい買い取ってくれるんだ」
「まあ一秒千円ですから、一時間でも十分な金額になりますけどね」
「いくらだ?」
「一時間は三千六百秒なので、三百六十万円ですね」
「そんなに!」
 一時間といったら、テレビを見ているだけで過ぎてしまうではないか。そんな時間に三百六十万円もの価値があるか。やはり詐欺なのだろうか。
 けれど、と心のどこかで別のことを考える私がいる。
 けれど、もし、本当にその金額が手に入るのなら――私は、娘を喜ばせることができるのではないだろうか。母を失った悲しみを忘れさせるほどに。確かに存在する欠損を気にしなくなるほどに。妻そっくりのあの明るい笑顔を、ずっと見せてくれるようになるのではないだろうか?
 なら、私は――
 何も言わない私に、時間屋は何かを理解したかのように、ふと笑みを深めた。
――交渉成立、ですね」

***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei