時間屋
1. 時は金なり (4/5)


 賑やかなファミリーレストランの中は、向かい合った相手の話し声さえも聞き取りづらい。
「おとうさん、おいしいね!」
 けれど娘の明るい甲高い声はよく通った。私が頷けば、娘は口周りを特性ソースで汚しながらハンバーグにかぶりつく。自然と緩む私の頬は一体何を思ってなのだろう、どうして知らないうちに微笑んでしまうのだろう。慣れない子育てをしていく中で何度もそう思ってきた。最近ようやくわかった。
 愛おしいのだ。妻にそっくりな娘の笑顔が。感情そのものを素直に向けてくれる、その上での本当に嬉しそうな娘が。何も考えずに無意に感情を向けてくる幼子に、向かい合う私までもが無意に感情を向けるようになる。子供の周りには笑顔が絶えないものなのだと職場の誰かが言っていたが、なるほどこういうことなのだと気がついた。
「そうか、そうか、どんどん食べていいからな」
 娘と二人、にこにこと笑い合う。周囲には仲の良い親子だと見えているだろうか。笑みに違和感はないだろうか。うまく笑えているだろうか。不安になりながらも頬に手を触れれば、そこには確かに笑みによるしわができている。大丈夫だ、きっと。私は今、娘の父親が理想的にできているはずだ。娘のために全てを捧げる、素晴らしく良い父親が。
 娘の肘でスープをこぼさないように、と娘からカップを離しながら、娘の顔を覗き込む。今まで子供の食事風景を汚いとしか思ってこなかったが、娘を前にすると全くそうは思えない。むしろ娘の無邪気さに相応しい汚さじゃないか。周囲を気にせず、自分の思うままに食べて、笑って。大人になったらできない自己中心的な行動。子供だから許される光景。なら、それが目の前にあるというのは愛おしいものなのではないか? この子は確かに子供で、周囲を気遣えない裸の感情の塊で、それでいて私に笑いかけてくれているのだ。確かに娘は喜んでいるのだ。私が喜ばせているのだ。なんて幸せなんだろう!
 娘はハンバーグソースで口周りを汚しながらも、すっかりお子様プレートを食べ尽くした。椅子から立ち上がって娘のそばに膝立ちになり、口周りを拭ってやる。優しく、けれどしっかりと汚れが落ちる強さで。この力加減さえ難しくて、妻が死んだ直後はなかなか汚れが取れなかった。今では娘に痛いと叫ばれることなく拭いきることができる。
「まだ食べるか?」
「ううん」
 眠くなったのか、とろとろと目を泳がせながら娘は首を振った。今日の寝付きも悪くないだろう。なかなか眠ってくれない時はどうしたら良いのかとおろおろし、挙げ句義姉に深夜に電話して助言を請うてしまったが、夕ご飯を外でお腹いっぱいに食べるようになってからはあまり手がかからなくなった。
「じゃあ帰るか。帰りにどこか寄るか? 何か欲しいものは?」
「ううん」
「そうか、じゃあ今日はもう帰ろうか」
「おとうさんは?」
「うん?」
 とろりとした、しかし何か感情の見える目が私を見た。
「おとうさんは、きょうはねんねするの?」
 その質問の意味を理解するのに時間がかかった。暫く考え込んで、もしかして今夜は一緒に寝てくれるのか、という問いだろうかと思い至る。最近は娘に夕飯を食べさせて眠らせてから会社に戻って仕事の続きをしたり、そうでなくても居間で持ち帰ってきた仕事を深夜までやっていたり、という生活をしていた。娘には心配されてか、よく「いっしょにおねんねしよ?」と言われる。が、これは娘の幸せのためなのだ、と先に寝かせ続けてきた。睡眠時間を優先させるわけにはいかなかった。
「いや、今日は会社に行くよ。会社でしかできない作業を残したままなんだ。お前は心配しなくていいから、先に寝ていなさい」
 そう言うと、娘は僅かに目を逸らした。テーブルの上の空になった皿を眺めている。少し唇を尖らせたように見えるのは錯覚だろうか。いや、もしかしてまだ食べ足りないのだろうか。アイスとか、パフェとか、何か食べたいのがあるのだろうか。いや、もしかしたら子供向けのおもちゃが欲しいのかもしれない。確かこのレストランに来る途中で、よく買い物をするおもちゃ屋を車の中からじっと眺めていた。もしかしたら欲しいおもちゃを広告かテレビで見つけたのだろうか。
「どうしたんだ?」
「……おとうさん」
 たどたどしい子供の口調で、娘が私を呼ぶ。おとうさん、という言葉に歓喜しながら、私は娘に顔を近付けた。
「ん? 何だ? どうした? 何が欲しいんだ?」
「あのね」
 近くのテーブルで、大学生だろうか、大きな笑い声が起こった。娘の声を聞き逃すまいと私は負けじと耳をそばたてる。笑い声の中から漏れ出るように、娘のか細い声が聞こえてきた。
――じかん、ほしい」

***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei