時間屋
1. 時は金なり (5/5)
一瞬耳が塞がったのかと思った。喧噪が遠のく。店内の音楽が止む。ぼんやりとした雑音がぼやぼやと聞こえるだけで、言語は聞き取れなかった。耳に水が入った時のような、不鮮明な騒音。その中で、しかし私は確かに娘の言葉を聞き取っていて、そして覚えていた。けれど空耳だったのではと思う自分もいた。それほど信じがたい一言だった。
「じ、かん……?」
カタリ。そばから明瞭な物音が聞こえてくる。目の前のテーブルに、いくつもの蛍光灯の光を受けてできた何重もの影が差す。予感があった。正しく言うと、直感した。
彼が来る、と。
「――お呼びですね?」
私はゆっくりとそちらへ首をひねった。ぎこちない動きはまるで、出来損ないの機械人形のようだった。いっそ笑い出したい。ギャグのような自分の動きの悪さに、滑稽なおとぎ話に、周囲の目も気にせず哄笑を上げたい。
けれど、私はただ、息を吐き出すことしかできなかった。娘の背後に立った、黒いスーツの青年の姿を見上げながら。
「梶原紗奈さん」
この場では私と娘しか知り得ない固有名詞を言って、彼が――時間屋がにっこりと微笑んでいた。
「時間屋……なんで、ここに……」
「言いましたよね。わたし、地獄耳なんですよ」
悪意も嘲笑もない純粋な笑みを浮かべて時間屋はそう言う。声に表れる弾むような調子。私を馬鹿にしているわけでもなく、見下しているわけでもなく、ただ、娘を可愛く思う私のように、目の前の私達に無意の喜びを向けている。まるで一度見たドラマをもう一度見ながら、これから先にある明るい展開を心待ちにしている人のように。
「いかがしますか? 梶原さん。今回は娘さんが私を呼んだわけですが」
「呼んだ……?」
娘は微動だにせずにテーブルの上の一点を見つめている。娘が呼んだ? 時間屋を? 確かにそうだ。私も聞いた。信じられなかったが、地獄耳であるという彼が現れた以上は確かなことなのだ。けれど、なぜ。
――じかん、ほしい。
なぜ娘は、よりによってお金ではなく時間を求めたんだ? 私が娘のために売ったものを。私が娘のためにお金に変えたものを。私が娘の笑顔のために失ったものを。なぜ?
「本来は紗奈さんから代金をいただくんですが、前回梶原さんは紗奈さんのために時間をお売りになったということなので、紗奈さんのために梶浦さんが代金を支払うということでよろしいですか?」
「なんで」
口からあふれた言葉は、頭の中でスーパーボールのように弾んで跳び回って、しかし答えが出なかった疑問だった。
「なんでなんだ。なんで……私が娘のためにわざわざ手放したものを欲しがるんだ。理解ができない。意味がわからない。どうしてなんだ」
わからなかった。大金がある。好きなものを買ってもらえる。それ以上に娘は何を望んでいるんだ? あんなに嬉しそうにハンバーグを食べていたのに、それでも足りなかったのか? どうしたら満足してくれるんだ。どうしたら、どうしたら。
どうしたら、プロポーズした時の妻のように、結婚式の時の妻のように、初めて娘を抱いた妻のように、「これ以上の幸せはないよ」と言ってくれるんだ。
どうしたら、あの華やかな笑顔を向けてくれるんだ――?
「……だもん」
ふと幼い声が聞こえてきた。ハッと顔を向ける。
娘が、子供特有のぽってりとした唇をわななかせていた。途端、しまった、という言葉が頭の中に浮き出てくる。
しまった、悲しませてしまった。
娘が泣き出すのではないか。何とかそれだけは回避したかった。外食先で泣かれたら私はどうすればいい? 店員を呼ぶ? とにかく店を出る? 周囲の人にどんな顔をしたらいい?
パニックに陥りかける私を前に、娘は泣き出すわけでもなく、単調な声で続きを言った。
「えほんよんでほしかったのに」
絵本。
「絵本……?」
絵本を読むとは何だ。絵本は絵を眺めるためのものではないのか。絵本を読む? 時間という名詞と買い取りという動詞のように全く結びつかない。絵本を読む? 突然何を言い出すんだ。娘の言葉に、私は呆然とするしかなかった。そして、気付いた。
ああ、そうか。
――妻がそうしていたのだ。
そうだ、そうだったんだ。私が家に帰れば妻がいた。手作りの夕飯があった。台所の水場には娘用のお椀があった。リビングには絵本の詰まった本棚があった。子供用のぬいぐるみが積み重なっていた。
何を買い与えるでもない。何を食べさせるでもない。どこに連れて行くでもない。
ただ、家の中で、娘に手作りの料理を食べさせていたのだ。そこにある物だけを使って娘と遊んでいたのだ。毎晩、私の分の夕食も含めて食事を作り、絵本やぬいぐるみをぼろぼろになるまで使って。
――紗奈がね、人形遊びしている時にパパって言ってたのよ。
いつだったか遠い昔、妻がそう言っていた。聞かせてあげたかった、と。
それはどこに遊びに行ったとか、何を買ったとか、そういう話ではなかった。
けれど、確かに。
妻は、笑っていたのだ。
「これ以上幸せなことはないね」と言って。
私の大好きな、華やかな、朗らかな、明るい笑顔で。
「……わからない」
私は頭を抱えた。周囲の人目など気にならない。今は自分のことで精一杯だった。
「どうすればいいんだ? 私はずっと、仕事しかしてこなかったんだ。妻のしていたことは何一つわからない。子供に対してどういう風に接すればいいのかもわからない。ようやく、娘を喜ばせる方法がわかったと思って、時間を売ってお金を手に入れて、それで娘は喜んでくれて……なのに、違う? どうして! あんなに喜んでいたじゃないか、あんなに幸せそうに、笑って、なのに、娘が求めていたのはそうじゃなくて……もうわけがわからない!」
叫んで、床にうずくまる。わからない。わからない。その単語ばかりが脳内を駆け巡る。わからない。わからない。何がわからないのかさえわからなくなっていた。
私はどうすれば良いんだ? 娘は私に何を望んでいるんだ?
「梶原さん」
静かな低音がふと私の耳に聞こえてきた。顔を上げると、黒い目と視線が合う。初めて会った時と同じ、恐怖も何もない、どうということのない眼差しだ。
ああ、そうか。
何もないのではない。何も見えなかったのだ。暗闇の中だったから。
今、いくつもの蛍光灯の光の下で、時間屋は微笑んでいる。その黒い眼差しは、道端で偶然出会った野良猫のものとは違う。
「名前を呼んで上げてください」
「……え?」
時間屋の言葉は予想を大きく外れていて、私は間抜けな声を出してしまう。名前? 何の。時間屋の名前なんて知らない。そう思って、それが馬鹿げた思考だと気付いた。違う、そうか、そうだ、私は。
「名前です。ずっと、紗奈さんの名前呼んで上げてないですよね。家族なのに」
「家族……」
呟き、私は娘を見た。
パズルのピースがすぽりとはまったような、目の前の霧がサアッと晴れるような、そんな快感に似た感覚だった。そうだ、私は、最も妻がしていたことをしていなかった。親として――家族として一番しなくてはいけないことをしていなかった。
そう、家族。私は目の前の幼い娘を見つめる。すでに眠気に負けてうたた寝を漕いでいる、可愛い妻の面影。――無意識にそう思っていた。
妻の娘だと、妻の血を引き妻によく似た少女だと。ただそれだけだったのだ。父と自覚しおとうさんと呼ばれながらも、私は、この子を私自身の子としては認識していなかった。妻だけを家族と思っていたのだ。私達の子ではなく、妻の子として、妻の似姿を持つ人形として、この子を愛していたのだ。
だから必死に物を買い与えた。それしか思いつかなかった。家族として、同じ食卓に座り同じ時間を過ごし同じ番組を見る、そういった家族でないとできない日常を、私は妻とすることは叶わないと嘆きながら、娘とするという選択は思いつくことすらできなかったのだ。
家族。それなら、と私は自分の唇が動くのを感じていた。無意識のうちに浮かべる微笑。娘に向けていたものと同じ、何の覆いもない、偽りも取り繕いもない、本心からの微笑み。
「時間屋さん」
立ち上がり、視線をそろえる。時間屋もまた、視線を合わせてくる。黒い目の奥を覗き込むようにして、私は彼を見つめた。一度目を合わせると逸らせなくなった。射竦められる。目を、視神経を、脳を、脊髄を、内臓を、私の全てを見透かすかのように、真っ直ぐに、鋭く。けれど恐怖はやはりなかった。あるのは安らぎ、安堵だ。
黒い目に秘められていた穏やかな暖かい光に、気付いたから。
「時間を買います。あなたから受け取ったお金の余り全てを使って」
手を伸ばして娘の体を抱き上げる。柔らかい暖かさが腕から体へと染みこんでくる。思えば腕に抱いたのは妻が亡くなってから初めてだ。こんなにも暖かいのか、この子は。
戸惑いながらも娘を抱えた私に、時間屋はそっと微笑んでくれた。
「初めはそうなのかと思ったんですよ。娘さんとの時間が欲しくて、私を呼んだのかと。そういうお客様の方が多かったので。ですから意外だったと言ったんです」
「いかに私が常識外れかがわかる話だな」
自嘲すると、時間屋はなぜかゆったりと首を横に振った。
「今まではそうだったでしょう。けれど、これからは違う。あなたは自分の間違いに気付けたんですから。だから、こう言うべきですよ。――いかに私が常識外れかがわかる話だったな、と」
「面白い」
私は笑った。そして、腕の中の眠る娘へと目を移した。妻に似た、そして、私にも似た、愛しい私達の子。
「帰ろう、紗奈。一緒に」
ふと娘の頬が緩んだ気がした。幸せそうな、まどろみの中で浮かんだ小さな微笑み。妻の朗らかなそれとはまるで違う類の。けれど、私は知らずのうちに微笑んでいた。
これ以上幸せなことはないな。そう呟いて。
解説
2011年08月29日作成
記念すべき時間屋さんのお話第一話。とはいえ2015年にサイトへ再掲載した際に大幅に書き直しているが。時間屋という話を考え付いたのは高校一年生の時でしたね。若い。若すぎて文章ど下手でした。読み返せない。その分この再掲版は自信作です。皆様からも好評で私はとても嬉しい。
高校の部活の友人が「部活の練習の時間が足りない! 時は金なりって言うし、時間が買えれば良いのに!」と笑いながら冗談を言っていたので「じゃあ時間を買えるようにしようか。ついでに買い取りもしよう」と書き上げたのが時間屋さん。時間を遡るだとか過去改変をするだとか、代償がでかいだとか、そういうよくあるパターンは絶対になしにしようと今も思っています。時間屋さんができるのは、時間を余分にあげたりお金を余分にあげたりするだけ。その与えられた時間やお金によって人生の分岐点が”現れる”――という風に書いています。つまり選択するのは時間屋さんからお金や時間を受け取ったその人本人だけ。その人が望むのなら破滅を選ぶことも可能です。まあ、時間屋さんが優しすぎるのでそういう”分岐点”になるような取引はしませんが。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei