時間屋
2. 病は気から (2/3)
電気ポットの電源を切り、取っ手を持ち上げる。台所で、桜はマグカップにお湯を注いだ。コーヒーの香りが湯気になってふわりと上がってくる。インスタントコーヒーというとコーヒーマニアには馬鹿にされるが、コーヒーにこだわりのない桜にとっては、手軽で香りの良い飲み物でしかない。
カップをテーブルに置くと、時間屋は軽く頭を下げた。
「いただきます」
マグカップの取っ手をつまんだその手を眺める。綺麗な手だった。がさついていないとか、そういう綺麗さではなく、造形の綺麗さだ。女性に似て細く、しかし男性らしい太い節のある指。
「どうかしましたか」
一口飲み、桜にそう問うてきた。かぶりを振り、今度は時間屋の顔を眺める。
帽子に隠れて見えなかった顔は、なかなか整っていた。特に美人というわけではないし、芸能事務所にスカウトされるほどではないけれど、思わず眺めてしまうほどではあった。俺はイケメンだぜ、とか何とか言いふらす茶髪でど派手な男よりは断然かっこいい。
桜の同僚には、髪を染めている男が多かった。当然、髪をいじってくだけた服を着た男の方がおしゃれっ気がありそうで、かっこいいとも思っていた。しかし、と桜は視線を僅かに上に動かす。
美容室に縁のなさそうな、というかおしゃれに縁のなさそうな髪型。しかも、混じりけのない黒髪。一見すればただのイケてないサラリーマンだ。しかし、それをこの顔と合わせて見れば。
「……なかなかいけるかも」
清楚な男性、といったところか。
「桜さん?」
「べ、別に何でもないし」
不思議そうに桜を眺め、コーヒーをまた一口すする。女性の部屋にいるというのに、堂々とインスタントコーヒーをすすっているこの男の心情が掴めない。
まあ、なぜか見ず知らずの男性を部屋に招き入れてしまった自分の心情も、よくわかっていないのだが。なぜか大丈夫だと底抜けに信じてしまったのだ。女の直感というやつだろうか。
「……あの、さ」
「はい?」
「……さっきは悪かったよ。変態とか言って。突然名前呼んできたものだから、ストーカーか何かかと思って」
「ああいや、大したことではないですから」
にこにこと手のひらを振る時間屋の様子を見ると、どうやらそうとう慣れているらしい。罵倒に慣れているってどういうことだ。
どうにも嫌な予感がして、訊くのを躊躇った。人の性癖には立ち入らない方が良い気がする。
そんなことより、と桜はふと時間屋の言葉を思い出す。時間屋だと名乗った後に、優しい声音で彼が言った言葉だ。
――差し上げますよ。
あなたに、あなたが望む時間を。あなたのその苦しみを消し去るための時間を。
「……ねえ」
「はい」
「ちゃんと説明してよ」
「そうでしたね。――わたしはお客様の声、思い、そういったものがわかります。時間が欲しい、もしくはお金が欲しい、その言葉を私は聞き、お客様の元へ現れます。今回、あなたは時間が欲しいとお思いになった。ですから今回もこうしてあなたの元を尋ねさせていただいたんです」
「いや、そういうのは正直どうでも良いんだけど。そんなことより何、差し上げるって。どういうこと?」
コーヒーを飲み干し、時間屋は一息ついた。そうですね、と呟く。
「差し上げる、というと誤解を招きますね。私は時間屋であって、時間の売り買いを商売にしています。桜さんが時間をお望みなら、相応のお金をくださらないと」
「なんだ、やっぱ詐欺か」
目に見えない物に金を出させようとするなんて、オカルト系の詐欺の手口そのものじゃないか。神社の賽銭箱に一万円札を放り込むのともよく似ている。例え本当に願いが叶ったとしても、その一万円のおかげで叶ったのかというのは確認できない。
本人に直接言うには失礼すぎるその一言を桜はさらりと言った。そして、慌てて時間屋の顔色を見る。怒るかと思ったのだ。けれど不快そうな様子はなかった。むしろのほんとしている。
「そう思って頂いても構いません」
「え」
さらっと言った時間屋に、桜は思わず目をむく。
「……いいの?」
「はい。時間は目に見えませんからね、納得できない方に説得しようにも限界があります。どうしてもお嫌なら後払いでも可能ですよ」
これも一種の詐欺だろうか。
「ふーん。で? いくら?」
「一秒千円です」
「高っ!」
「そうでしょうか」
マグカップをそっとテーブルに置き、時間屋は組んだ指をテーブルに乗せた。
「一秒の価値は人それぞれですが、一秒で運命が変わる方もいらっしゃいます。一秒の差で電車に乗り遅れて、そのおかげで将来妻になる人に巡り会えた、なんてこともあります。逆に、一秒の差で事故に巻き込まれた、という方もいらっしゃるでしょうが。一秒は確かに短いです。しかし、その一秒が誰かの人生を大きく変えてしまうことだってある。一秒が誰かの命を救うことだってあります。一秒の価値はお金の単位では収まりきれないほどなんです。そう思えば、一秒千円なんて安いんですよ」
一秒の価値。
「そうだろうけど……やっぱり高くない? 一秒千円だと、あたし……」
言いよどむ桜に、時間屋は特に不快そうな様子を見せなかった。ほっと胸をなで下ろす。そして気付いた。いつから、自分はこんなにも他人の顔色を窺って言葉を選ぼうとするようになったのだっけ。前はもっと、直接的に言葉を言っていた気がする。それこそ、誰かに嫌な顔をされるくらいに――誰に?
誰に嫌な顔をされたんだっけ。思い出せない。
「厳しいですか?」
優しい声が訊ねてくる。怒ってはいないようだ。安堵しながら、えっと、と桜は酔った頭をフル回転させる。
貯金はいくらだったろうか。最低限のお金は取っておかなくてはいけないから、貯金全額とまではできない。このとき、桜は真剣に金額を考えていた。時間屋を心の底から信じ切っていた。後で思うが、なぜ時間屋などという訳のわからない仕事を疑わなかったのか、わからない。
「せいぜい百万……ううん、そんなに出せない」
「稼いでいらっしゃるんですね」
「あたし、こう見えてもかなりのやり手だからね? だからって百万もホイホイとは出ないけど」
「これは頼もしい」
茶化している様子はないが、時間屋の楽しそうな声が起因しているのか、桜には含み笑いのように聞こえた。何よ、と言うと、いえ、とまた笑みを含んだ声が返ってくる。何だかいけ好かない。そう思いながらも、桜は心が浮き立っている自分に気付いていた。
いつぶりだろう。こんなにもしっかりと会話をしてくれる人と話をするのは。
そんな桜の心の内など気付いていないのだろう、時間屋は、では、と次の額を提示してきた。
「九十万はどうですか?」
「九十……出せなくもないけど……」
貯金に余裕がなくなるなあと思った。余裕といっても、生活が苦しくなるほどではない。新入社員時代からきっちり働いてきてよかった、と桜は過去の自分に感謝した。明日から合コンに参加する代わりに、残業に徹しなければいけないかもしれないけれど、今はそんなのどうだっていい。
「九十万円なら、十五分ですね」
「十五分! そんなんで何ができるの?」
「桜さん」
時間屋が笑う。優しいその微笑みに、彼がかなり若いことに気付かされる。
「一秒が人生を変えることがある。なら、十五分は人生を変えるには十分すぎますよ」
***
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei