時間屋
2. 病は気から (3/3)
次の日から、桜は飲み会を全部断った。不思議そうな、というより変人を見る目つきで、同僚が桜を眺め回してきた。誰かが、フラれたからじゃないの、と言っていたが、何も言わないでおいた。奇妙な買い物をすることになったから、なんて言ったらますます変人扱いされてしまう。
同僚と距離が離れていくのを感じながら、桜は黙々と作業に徹する毎日を送った。こんなに働いたのはいつぶりだろう。もともとこの会社の業務自体は嫌いじゃなかったから、苦ではない。むしろ没頭できるということが桜の心を救っていた。
「じゃあ、桜、お先」
五時を過ぎ、いつものように同僚が職場を出て行く。オフィスに残ったのは桜だけ。上司までもが交流会とやらの飲み会で帰ってしまった。この会社全体が飲み会好きらしい。
「普通女性一人おいて帰るかなあ。上司くらい残業に付き合えよな」
自分でも無茶苦茶だと思う愚痴を呟き、パソコンに向かい続ける。パソコンの画面を長く見ているのは疲れる。目が辛いが、作業に集中してしまえば疲れも寂しさも気にならない。
「ああもう、なんで今日の分の仕事が半分も残ってるんだろう! 昨日の分の仕事が今日に長引いたせいだけど! でもだって一日くらいあたしだってお酒飲みたかったもん! 許してよ家で一人ちびちび飲んだだけなんだから!」
叫んだって誰も聞いていない。なら思う存分叫んでやる。椅子の背もたれに思いきり背中を預けた。ギシ、と椅子が歪な音を立てるが気にしない。
「ああもう馬鹿馬鹿! みーんな馬鹿! 一人くらいあたしに付き合いなさいよ!」
「あの」
遠慮がちな声が聞こえたのは、思いっきり叫んだ後。
椅子にふんぞり返っていた桜が硬直したのを見て、更に気まずくなったのだろう、オフィスのドアを半ば開けながら、男性が一人頭を何度か下げている。他の部署だろう、見かけない顔だ。
「あの、なんか、すみません」
「あ、えと、いや、こちらこそごめんなさい」
立ち上がり頭を下げる。
「あの、まだ残っていきますか?」
「え、ええ、まあ」
「では帰る時は全ての電気が消えているか確認してください」
事務的な事を言われた。ああ、と気分が一気に落ち込む。その落胆の度合いで、激励とか、同情とか、そういう言葉を待っていた自分を知る。他人にどれだけ期待すれば気が済むんだ自分は。
「はい、わかりました」
「では、おつかれさまでした」
でしたって、あたしはまだ現在進行中なんだけど、と呟く。男性がドアを閉めると、再びオフィスは静まった。桜の上の蛍光灯と桜の机の上のパソコンだけがジジジと音を立てている。桜は椅子に座り直してパソコンのキーボードに手を置いた。
オフィスのドアがまた開いたのは、しばらくした後だった。
ふと顔を上げた桜に、男性が頭を下げてくる。先程電気がうんぬんと言って帰った人だ。
「あの、よろしければ、どうぞ」
わざわざ桜の机の元まで来て差し出されたのは、自販機で売っている普通の缶コーヒー。
「え、ああ、ありがとうございます」
受け取ると、冷え切った手にじんわりとあたたかさが広がっていった。手が冷えていたことに初めて気付く。夢中になっていてわからなかったが、そういえば指の動きが悪くなっていたような。
「お一人なんですか」
缶コーヒーを両手で包み込む桜に男性が問う。どうやらイエスやノー以外の答えを言っても良さそうな雰囲気を出している。なら、と桜は頷いた。どうせ他に人はいないんだ、たまたま話しかけてくれたよその部署の人にちょっとした愚痴を言っても良いだろう。
「そう。みんな、合コン。毎日なんて、よく飽きないよね」
「毎日ですか」
「そう。しかも、現在進行形カップルの戯れ言祭り」
「戯れ言、ですか」
「だって、彼のココがむかつく、とかあいつのアレが嫌なんだよね、とか言って、最後は、こないだデートしたの、とか、キス何回しちゃった、とか、そんなのの繰り返し。やってられないよ。こっちは失恋したばっかりなんだから」
「そうなんですか」
「フラれたの。あたしみたいなおしゃべり、うざいって」
ふと桜は言葉を切った。頭の中で閃いたことを整理する。
そうだ、彼があたしをフッた理由。それは。
――お前、うざいんだよ。
「……そうか」
「はい?」
「あたし、だからおしゃべりできなくなったんだ」
彼氏に否定されたおしゃべり。いつの間にかトラウマになって、話したくても話せない苦痛を作り出していたのではないか。人の顔色を窺って、言葉を選んで、相手が喜びそうな反応をしてあげて。
怖かったのだ。期待しない答えが返ってくることも、期待しない反応をされて相手が機嫌を損ねて桜から遠ざかっていくのも。
「何気に堪えてたんだ、あいつの言葉。全然わからなかった。だからあんなに話すのが嫌だったんだ……そんなにまじな恋じゃなかったのに……」
「本気じゃなかったんですか」
「そう、だってあいつちゃらかったし。遊びだよ、遊び」
「そんなことないと思いますよ」
突然の言葉に桜は顔を上げた。今までただ相づちを打っていた男性が、宙をじっと睨み付けて真面目な顔をしている。
「え?」
「本気で付き合っていなかったなんて、嘘です。本気でその人が好きだったから、フラれて、傷ついたんです。本気じゃなかったら傷つきませんよ。だって、今僕に同じ事言われたら、そんなに傷つかないでしょう」
言い終わった瞬間、我に返ったかのように男性の顔がみるみる赤くなっていった。あわわ、と桜から遠ざかるように一歩後ずさる。
「あの、す、すみません、知ったようなことを」
「ううん、良いです。確かに、他の人に言われたら傷つくどころか掴みかかってますもん」
くすくす笑った桜に、男性の顔もほころぶ。
「そっか、あたし、あいつに恋してたんだ。じゃあ、フラれて良かったんだ」
「え?」
「だって、あんな奴にまじだったなんて、馬鹿らしいもん。確かにいい人だったけどさ。でも、結婚とか考えるタイプじゃなかったし。そんな奴にあたしの純情を費やされてたまるかってね」
少し強引だ。フラれて良かったなんて、本気で思っているわけじゃない。少し未練も残っている。しかし、そう思いたい。そう思えば、しばらくして、楽しい思い出として誰かに笑いながら話せると思うから。
「あいつね、見た目ど派手で、ピアスとか何個もつけて、服もイマドキで、まあニートだったんだけど、見た目によらず優しくてさ」
話のついでとばかりに桜の口は止めどなく言葉を垂れ流していく。男性は早く帰りたいだろうに、そんな様子は全く見せず、真摯に桜の話に相づちを打ってくれていた。
時間を忘れて話し込んでいると、突然桜の鞄の中でケータイが鳴った。純愛ドラマの主題歌が二人きりのオフィスに響く。慌てて鞄の中に手を突っ込み、ケータイを引っ張り出した。
「マナーモードにしてなかったっけ……あ、真理子からだ」
メールだった。開いてみて、大きく息を吐き出した。
酒でテンションが上がっているのだろう。店内で両手両足を振り回す同僚の姿を撮った写真が添付されていた。
「くだらない……」
しかし、桜は口元を緩めた。久しぶりに笑った。頬の筋肉が痛かった。
「どうしました?」
男性の問いに、写真を見せて答える。
「こういう奴なんだけどさ、酔うとほんっとに酷いの。裸になるし。まじ止めて欲しいよね」
ああ、と男性の顔が引きつる。あまりこういうのが得意でないのだろう。見た目からしても飲み会で騒ぐタイプではない。言ってしまえば、今まで付き合ってきたどの男ともタイプが違う。
ケータイを鞄にしまい、桜は男性に向き直った。
「……ありがと」
「え?」
「なんかすっきりした。ウツだったんだけど、いっぱい話したら治ったみたい」
「そうですか。よかったです」
「ごめんね、長く引き留めて」
「いえ、そんなに長くないですよ」
自分の腕時計を見、男性が明るい声で言う。
「たった十五分でしたし」
桜はオフィスの壁時計を見た。五時十五分。確かに十五分だった。
***
あの日から桜は元気に働いている。元気に、とはかなり抽象的だが、具体的に言うと、昇進した。飲み会には時折しか参加しなくなったし、その分睡眠時間がしっかりとれて仕事に集中できるようになったのだ。飲み会に行かなくなった理由には、ある人物が関わっていた。
「桜さん」
会社に向かう桜を呼ぶ声に振り向き、桜は笑顔を見せた。
「譲くん」
あの夜、桜に十五分間付き合ってくれた男性は、今、桜の良き友人になっている。まだ完全には心の傷が癒えていない桜に、飲み会を控えるよう言ってくれたのが彼だった。
「あたし、人生変わったんだ」
隣を歩く譲に、桜は独り言のように呟く。
「あの十五分がなかったら、あたしはたぶん、本当にウツになってた。仕事に集中できなくなってクビになってたかも。元彼に未練たらたらだったし、次の恋も一生できなかった」
ありがとう。
その一言を、一音一音、大切に口にして。
桜は隣の譲に向かって、笑顔を向けた。
解説
2013年04月21日作成
ファイルの最終更新日が2013年だったんですけど本当はいつ書き上げたのか覚えていません。2014年にサイトを作った時にはもう作ってあったと思うからあながち間違ってはいないのか…当時ただの高校生だったし両親は公務員とバイトだったので会社員というものがさっぱりわからず、加えて社会人の年収なんて知る由もなかったので(当時ググるなんていう文化はなかったのだ)金額設定はかなり頭を悩ませた気がする。一秒千円も高いのか安いのかわからなくてだな…今になって思うに一秒千円はやっぱり高いのか安いのかわからない金額なので過去の私グッジョブだと思う。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei