時間屋
3. 父の恩は山より高し (1/4)


 あゆはとぼとぼと通学路を歩いていた。赤いランドセルの肩が何度もずれ落ちる。中身が重いわけではない。ランドセルがぶかぶかなわけでもない。 ただでさえ撫で肩なのに、今のあゆはがっくりと肩を落としていた。
「どうしよう……」
 何度目か、軽くジャンプしてランドセルを背負い直す。
「やだなあ、作文……」
 通学路は住宅街の細い道で、すれ違う人はいない。誰かの玄関先に植えられた背の高いコスモスだけがあゆの横で、どうしたのと言わんばかりに揺れる。
 学校で出された宿題。それが、作文だった。お題は「家族」。
「家族なんて……お父さんはタンシシュニンだし、お母さんはお仕事で大変そうだし、兄弟いないし、おじいちゃんとおばあちゃんは遠いし」
 タンシシュニンとは、幼いあゆが単身赴任を上手く言えなかったため生まれた言葉だ。未だにその響きが面白いので呟く程度に使っている。もちろん友達の前では言わないが。
「いったい何書けばいいの……」
「あーゆちゃん!」
 声と共に、ランドセルにガッと体重をかけられる。ランドセルが見事に両肘のところまで落ちてきた。
「うわっ」
「あ、ごめーん」
 急いでランドセルを持ち上げてくれた、友達の加波がえへへ、と笑う。
「やりすぎちゃった」
「ほんとだよ、もう!」
 加波の手を借りてランドセルを背負い直す。ごめんね、という加波の声に、大丈夫と返した。
「かなちゃん、部活あるんじゃないの?」
「今日は部休。先生いないから」
 それより、と加波があゆの顔を覗きこんできた。
「どうかした? すっごく落ち込んでるじゃん」
「わかる?」
「かなり」
「……作文の宿題がね、どうしようって思って。お父さん今いないし、お母さんは仕事ばっかりだし」
「そっか。あたしは、お父さんのことを書くつもりだよ」
「かなちゃんのお父さん、高校の先生だっけ」
 少し嬉しそうに、加波が頷く。ポニーテールが揺れた。
「いつもは口うるさいし、お酒くさいし、むかつくけど、小さいときは楽しかったなあ、みたいな」
「そんなこと書いちゃうの?」
「ある程度誤魔化してね。まさか本当に、くさい、なんて書かないって」
「だよねえ」
 少し声を上げて笑った。いつの間にかランドセルがずれなくなっている。加波と話すのは楽しかった。
「あゆちゃんもそんな風に書いたら? 昔を振り返る感じで。あたし、今お父さんと話してないもん」
「そうなの?」
「うん。めんどくさいし。お母さんを書くのは恥ずかしいしさ」
 二人はある交差点で立ち止まった。十字路で、左に行くとあゆの家が、真っ直ぐ行くと加波の家がある。
「じゃあね」
「うん、またね」
 左に曲がり、数歩歩いたところで、思い切って振り返ってみる。しかし、加波はすでに十字路からいなくなっていた。ため息をつき、またとぼとぼと歩き出す。
 加波にもっと相談したかった。心の中に気持ち悪い重さの、ねとりとしたものが沈んでいる。
「あーあ……」
 ため息さえ誰にも聞いてもらえない。
「昔、か……思い出せないよ……」
 物心ついたときから、お母さんと二人きりだった。お父さんとはもう何年も会っていない。一番新しい記憶でも、お父さんとはなんだかよそよそしくて、あまり楽しいとは言えなかった。
「あーあ、もっと話しておけば良かった。そうしたらかなちゃんみたいに適当に書けたのに」
 今更こんなことを言ったってしかたがない。あゆはまたランドセルを背負い直した。
「しょうがないや。お母さんが仕事で忙しいってことを書こうかな」
 とは言ってみたものの、お母さんとも話す機会があまりなくて、小学校中学年になった今でも、何の仕事をしているのか、はっきりとは知らない。夜出かけて朝に帰ってくることがほとんどだ。それが普通でないことは、あゆが小学校に入ってしばらくしてから初めて知った。
「もう、どうしよう……適当に書いたら先生に怒られるかなあ」
 せめて、両親どちらかとでも話す時間があったなら。
「はあ……」
 ぴょんと跳んでランドセルを背負い直す。
 ずっと下を向いて歩いていたせいで、前から近づいてくる人に気付かなかった。寸前のところで気づき、慌てて体を道の脇に寄せる。しかし急すぎて足がもつれてしまう。転びかけたあゆに手が差し伸べられ、あゆはかろうじて膝を地面に付けずに済んだ。
「あ……ありがとうございます」
 両足をしっかりと地面に付け、それでもまだ支えてくれている手に、あゆは頭を下げた。相手はそんなあゆに優しく微笑んで、ゆっくり手を離す。見上げると、意外と若い、お兄さんだった。友達の美枝ちゃんのお兄さんみたいだ。もうすぐ大学を卒業して仕事をするのだと、美枝ちゃんが言っていた。
 黒いスーツだから、仕事をしている人かもしれない。鞄も黒いし、靴も黒い。まっくろくろすけだ。おじさんがするような、真ん中のくぼんだ帽子をしていて、それも黒かった。
「おじさん、ダイガクセイ?」
 訊いてみると、お兄さんは不思議な笑い方をした。笑っているのに、なんだか楽しくなさそうだ。
「大学生ではないです。大学は卒業して、今はお仕事をしていますから」
「お仕事? まだ若いのに?」
 今度は怒ったような泣いているような、そんな顔をした。台所でフレンチトーストを作ろうとしたお母さんが、卵がないことに気がついてどうしようって思っている顔に似ている。
「若いのに、か。でもちゃんとお仕事してるんです」
「嘘つき。だって、おじさんと同い年のみえちゃんのお兄ちゃんは、ダイガクセイだもん」
「同い年って言っても、本当に同じかどうか……困ったなあ。嘘じゃないんですが。本当に」
「じゃあ証拠を見せてよ」
 今度の顔は、あゆがおもちゃをせがんだ時のお母さんの顔だ。この顔の時は、結局買ってくれる。駄目な時は、あゆが飛び跳ねようが泣き喚こうが、「駄目」って言う。駄目じゃない時は、このお兄さんのように少し口を閉じて、それから「しょうがないか」って言う。
「しょうがないですねえ」
 お兄さんもそう言って、スーツの内側の胸のところから紙を出した。
「どうぞ」
 見せてくれたのは、名刺という紙だった。図工の時間に作ったことがあるから知っている。自分の名前と、好きな物とか、好きなテレビとかを書くやつだ。たくさん作って友達と交換しあうやつだ。
 見せてくれた名刺を見てみると、紙の真ん中に三つ、見たことのある漢字がならんでいた。漢字の苦手なあゆでも読めそうだ。目を凝らして読んでみる。
「んー……とけい?」
「時計じゃないです」
 お兄さんは笑って、その三文字を順に指さして教えてくれた。
「じ、かん、や」
「じかんや?」
「そう。時間屋っていうお仕事をしているんです」
 じかんや。聞いたことがない仕事だ。
「どういうお仕事なの?」
「時間を売ったり買ったりするお仕事です」
「時間って、時計がちくたく動く、あれ?」
 ちょっと違う気もしますが、とじかんやさんは笑った。よく笑う人だ。
「ふーん」
「あなたに会いに来たんですよ」
 じかんやさんが言った。
「え?」
「水野あゆさん。――お呼びですね?」
 じかんやさんはそう言って、帽子に片手をぽんと乗せた。
 
 ***


前話|[小説一覧に戻る]|次→

Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei