時間屋
X. 四面楚歌 (1/1)


 斉藤寛は普通の日本人男性である。幼い頃に学校から飛び出した過去があり、先程会社も飛び出し道路に飛び出したくらいで、現在救急車で病院に運ばれている、いたって普通の日本人男性である。
 救急車の中というのは幼少の頃はとても憧れた場所だが、いざ乗ってみると乗り心地は良いものではない。機械だらけだし、同乗している救急隊員はなんだか怖い。仕事に真面目すぎるのはよくないなあ、と思ったがさすがに口にはしなかった。
 どうしてこんなことをしたの? 呆れを僅かも見せないで、慣れた手付きで手当をしながら救急隊員が訊いてきた。いやあ、何ででしょうねえ。はぐらかすとそれ以上は何も訊かれなかった。
 救急車が止まる。どうやら病院に着いたらしい。台車の上で寝転がったまま運ばれながら、僕は何も考えずに空を見上げる。晴天。雲一つない青い空。綺麗だ。
「良い空だ」
 声に出したところで誰も何も答えてくれなかった。誰もが忙しそうに機械をいじったり、カチャカチャと何かを準備したり、誰かと真面目に話したりしている。ああ、つまらない。もっとするべきことがあるはずだろうに。こんなに空が美しいのに、誰も見やしない。
 病院の中に入ると、当然だが空は見えなくなった。白い天井がずっと続く。やがて、手術室だろうか、やはり白い部屋に運び込まれた。病院というのは白に拘りがあるんだろうか。そんなことを考えていると、機械の音らしき低いうなり声がぶんぶん聞こえてくる。心地良いほどの低音。眠ってしまいそうだ。そんな中で、ピッピッという規則的な高い音だけは対照的に僕の心臓を高鳴らせた。
「ちょっと麻酔打ちますねー大丈夫ですよー」
 どこからか声が聞こえた。仕事のできる女性といった印象の声だ。きっと顔の偏差値は高くない。残念に思いながら、僕は腕に突然針を刺された痛みに顔を歪めた。

***

 目覚めたのは病室の中だった。病室、と判断できたのは、目覚めた瞬間に目に入った天井が、よく見知った自分の寝室のものではなかったからだ。清潔感を臭わせる白。何やら居心地の悪さを思わせる、無臭の空気。人の住んでいる痕跡の全くない、むしろ全ての生活感を意図的にそぎ落としたかのような部屋。こんなに人工的な「なにもない空間」なんて滅多にあるものじゃない。
 そうだ、病院だ。生者と死者を毎日排出している、人間を否応なしに生き延びさせる機関だ。
 むくりと起き上がってベッドから下りた。腕に点滴用らしい針がついていたが取れてしまう。刺してあった箇所が皮膚の裂ける痛みでぴりっとした。
 病室を飛び出して、廊下を走る。そうだ、そういえば、数時間前、僕はこうして会社を飛び出して道路に走ったのだ。
 階段を駆け上がる。すれちがった看護婦が何か言ってきたが聞こえなかった。一段飛びで最上階へ。この病院の内部構造はよくわからないけれど、迷うことはない。
 空は上にある。なら、とにかく上に向かって走っていけば良いのだ。
 走って、走って、駆け上がって、駆け上がって、上へ。息が切れる。腕の針の痕が痛い。麻酔が切れかけているのか体中が痛くなってくる。けれど、上へ、上へ、上へ。
 上へ。
 思った通り、人気のない最上階には外との境界と思われる不格好な扉があった。古い車庫の扉のような、ギチギチとさびついた金属がこすれ合う嫌な音を立てそうな、そんなドアノブ式の扉だ。はめ込まれたガラスは曇っていて外は見えない。ドアノブをひっつかんで体当たりをするように全体重をかけて押し開ける。予想通り、ギギギ、とドアがきしむ嫌な音。手のひらから伝わってくるかすかな震動。黒板を爪でひっかいた時のような、不快ものが二つ――震動と音。
 そんな不快な思いをしながら僕は扉を押し開けた。

***

 扉の向こうから風が吹いてきて、僕の頬を撫でていった。耳たぶに冷たい空気が触れていく。
 視界いっぱいに光があふれていた。太陽の光だ。蛍光灯ではない光。見上げればそこにある、大自然の熱源。電気ではない熱気の込められた暖かな光の下に、僕は足を踏み出す。一歩、一歩。全身に太陽を浴びる。一気に上がる体温。頭頂部に感じる熱。
 病院の屋上は狭かった。模様の一つもない床に、避雷針の立つ何かがあるくらい。給水塔というやつだろうか。僕にはわからなかった。いや、わからなくて構わないのだ。僕の目的はそれじゃない。
 僕は走り出した。そういえば裸足のままだ。熱を秘めた床が素足には熱い。跳ねるように駆けていく。足を床に着けないように。なるべく空中に留まっている時間が長くなるように。
 病院の天井の下から飛び出して、僕は天井の遠い青い空間の中へ駆けだしていく。迎えてくれる太陽の暖かさが僕の体を包み込む。走って、走って、僕は屋上の端に駆けていく。
 学校を飛び出して、会社を飛び出して、道路に飛び出して、病院から飛び出して、そして、あともう一回。
 ラスト、最後の一回――
――違うでしょう?」
 そんな落ち着いた声が聞こえたのはその時だった。突然のことに、僕は屋上の端の一段高くなった場所の手前で走る勢いを緩めてしまう。途端に、目の前の光景がはっきり見えた。
 たくさんの屋上が並んでいる。ビルというビルの屋上。その中にぼちぼちと見える屋根のとんがり。それらの間をかきわけるように道路が縦横無尽に張っていて、そこを車が行き来している。
 僕の足元から近くの屋上まで、屋根まで、そして道路まで――どのくらいの距離があるだろう。そう思った瞬間、僕は足から血の気が引いていったのがわかった。ホラー映画で化け物が突然画面いっぱいにアップされた時のように、筋肉すべてがきゅうっと縮んで、体からすうっとあたたかさがなくなって、感覚さえなくなって、エレベーターで降り始める瞬間のように、全く動けなくなる。
 ああ、もう。怖くなってしまった。この場所から飛び出すのが。
「……どうして」
 足が竦んだ自分が恥ずかしくて、僕は後ろを振り返った。この場所に他に誰かの姿は見ていない。さっきのは空耳かもしれなかった。けれど、確信していた。
 睨み付けた先で、予想通りの人影が僕を眺めていた。くすり、と歪む口元。黒い髪、黒い帽子、黒いスーツ。頭の上からつま先まで、想像と違わない姿の人が立っている。
「どうして止めるの」
「それがあなたの願いだからです」
 さっきと同じ答えをその人は言う。わけがわからない、と僕はまた首を振ってみせた。さっきもそうだ。会社の中で窓から上体を乗り出した僕に、この人は声をかけてきたのだ。
「願い? 僕本人が願っていないのに、何言ってるんですか」
「あなた本人が願っているから、そう言っているんです」
「意味がわからない」
「あなたがわかろうとしていないからですよ」
 無茶苦茶だ。そう吐き捨てて、僕はその男に向き直った。真っ正面から対峙する。
「僕はもう十分なんです。もう生きるのは十分なんです。いや、違う、生きたい。けどこんな自分としては生きていきたくない。どうして思ってもいないことを言ってご機嫌窺って、どうして笑っていなきゃいけないんですか。思った事を言ったら怒られて責められて仲間はずれにされて、笑っていないと笑わせようと赤ちゃんかおもちゃみたいに扱われて、しかたなしに笑ってみせれば、笑った、笑った、って。一挙一動を見せ物にされて不愉快なんですよ」
 いっそぶちまけようと思った。この人になら嫌われたって仲間はずれにされたって憎まれたって殺されかけたって何だって構わない。もう二度と会うことのない他人なのだから。
「会社勤めももう疲れました。どうしていつも怒られるために朝早く起きなきゃいけないんですか。どうして好きでもない食事を三回、こんな毎日を過ごすためにしなきゃいけないんですか。僕の食料になった生き物たちが不憫ですよ。彼らが生き延びた方が良かったに違いない。こんな、生きることが嫌になってて、今すぐにでも餓死したいと思っている人間に食べられるより。だからもう終わりにしようとしているんです。僕も誰も幸せじゃない、こんな無駄のある毎日を」
 言い切って僕はくるりと背を向けた。目の前に広がる、太陽の光に包まれ光っている屋上と屋根と道路。何メートルもの距離のあるそれらを見て、それを重力に従って降りていった時到着地点では自分はどんな痛みに見舞われるんだろう、なんて想像しかけてやめた。想像したところで痛みは和らがない。
「だから飛び出したのでしょう?」
 柔らかな声がそう言ってくる。その声には、僕を止めようとしている響きはない。ただ、確かめている。
「どういうこと?」
「嫌になって飛び出した。従順を絶対とする学校から、我慢を絶対とする会社から、生存を絶対とする病院から。あなたは、自分を押し込める場所から何度も飛び出してきた」
 けれど、と男は続ける。
「今回もまた、あなたは間違った方法で飛び出そうとしている」
「意味がわからない」
「あなたにはわかっているはずですよ」
 僕は一段高くなっている屋上の端に登った。見下ろせば、すぐ下に大きな道路がある。黒いアスファルトの上を、何台もの車がゆっくりと一直線上に走っていた。
「何を」
「あなたは空にいきたいのでしょう?」
 行きたい、なのか、逝きたい、なのか。どっちともとれる言い方で男は笑みを含ませる。
「『空は上にある。なら、とにかく上に向かって走っていけば良いのだ』」
 この屋上に向かっている最中に思っていた言葉を、奴はさも知っているかのように復唱する。そして、穏やかに笑うのだ。
「……なのにあなたは今下に向かおうとしている」
 なるほど逆だと言いたいらしい。今度は僕が笑う番だ。
「そうだね」
 空は上にある。なら、とにかく上に向かって走っていけば良いのだ。
 けれど。
「『あなたにはわかっているはずですよ』」
 僕もまた、誰かさんの言葉を復唱する。屋上の外を背後にして振り返ってみれば、黒ずくめの男は相変わらず微笑んだままそこに突っ立っていた。僕を止める気もないらしい。いや、こんな会話をしている時点で彼は僕を止めるのに必死なのだろう。結局誰もがそうなのだ。
 何も知らないくせに、僕の行動を押し止めて殺して、僕を自分の駒にしようとする。周りは敵ばかりだ。この男も、結局は僕を自分の利益のために使おうとしているだけだった。心地良く死ぬための時間を買ったのに、結局さっきは死ねなかったんだから。騙されたんだ。
 誰も、僕のために何かをしてくれるわけじゃない。みんな敵だ。僕は一人なんだ。
 なら、僕一人が何をしようが、他の誰にも関係はないだろう?
「少なくとも僕は知っている。――叶わない願いも、このひねくれた世界にはあるってことを」
 かかとに重心を移動させれば、体は素直に背中から倒れていく。やがて頭が重力に引っ張られて、僕の体は上下が逆になる。ぐるりと回転した視界に男の姿は掻き消えて、ただ青一色になった。ああ、綺麗な空だ。広くて、縛めの何もなくて、僕に何の要求もしない、血の気を失った人間の肌のように冷たい青。
 遠のいていく青に、僕は手を伸ばす。自然と口元が緩んだ。
 ――生きたかった。あの空の中で。

***

 屋上の静けさの中で、青年は佇んでいた。先程まで二人で占めていた空間は唐突な喪失によって、物足りなさを感じさせる広大な空間に変わる。
「四面楚歌というお言葉をご存じですか」
 一人きりになった屋上で、青年が誰にともなく呟く。
「有名な故事成語です。四方を囲む敵軍から聞こえてくる故郷の歌を聞いて、故郷が敵国に落ちたと思い嘆いたという。……けれど、私は思うんですよ。それは、故郷が落ちたことを示したのではなく、敵軍の中で未だ戦う同志へ、祖国の兵士が手向けたものだったのでは、と」
 敵の手に落ちた、せめてもの足掻きに。自分は諦めてしまった未来を、戦い続けている同志に預けんとして。
「世の中の全てが敵ではないんです、少なくとも……」
 風が青年の帽子のつばを持ち上げようとする。青年は掌を帽子に乗せた。帽子は飛ばず、短い髪が僅かにそよいだだけだった。
「……斉藤寛さん」
 今はもうこの場にいない人の名前を呼んで、青年は口端を持ち上げた。そして、帽子を片手で押さえたままくるりときびすを返す。ふわりとスーツの上着が風を含んで広がった。
――大好きな青い空で視界をいっぱいにするという、あなたの本当の願い……確かに、お渡ししましたから」


***


 孤独の中で戦い続けることを余儀なくされるあなたへ。
 せめてもの手助けに、私は時間をお渡ししましょう。
 四方を敵に囲まれても。
 周囲に味方がいなくとも。
 あなたを追い詰め責め立てる世界の中で、私はあなたに贈り物を差し上げましょう。



 あなたの先見えぬ未来に、小さくも確かな安らぎがありますように。





解説

2017年12月02日作成
 文庫本化した時の最後文。タイトルは中国の故事から。当時の死生観をぶち込んだ作品その2。冒頭は登場人物の子が足を踏み出したのは屋上の中か屋上の外かわからなくしてありましたが、このお話は外へ踏み出しました。地面ではなく空の中で生きたかった人の話、空に憧れた人間の話です。この場合空の中に彼を送るのが彼自身の幸福に繋がるので、時間屋さんはそれを選択しています。
 人の幸福は人それぞれです。身投げを肯定するではなく他にやるべきことがあったんじゃないのかって思った人はその気持ちを大切にしてください。この人が最期に空を見れて良かったなと思った方はその心の動きを忘れないでください。怒りでも良い、悲しみでも良い、国語辞典に載っていない何かの感情でも良い。それがあなたです。あなた自身です。
 他の誰があなた自身を否定したとしても、時間屋さんだけはあなた自身を守り助けてくれます。それが”時間屋”という人なのです。

 あなたの先見えぬ未来に、小さくも確かな安らぎがありますように。


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei