時間屋
13. 泥中の蓮 (2/2)
太陽が完全に昇りきった頃、僕はまたコンクリートの街を歩いていた。昼休憩の時間を迎えたサラリーマン達が飲食店を探しながら僕とすれ違っていく。僕はというと、自宅のアパートに向かっていた。居間に手帳を忘れていたのだ。そこに書いていたメモが必要で、しかたなく街を歩いている。バス停が遠いと感じるのは、僕の足が遅いからだろうか。
ただひたすらに歩いていた。周囲の人なんて見えもしなかった。視界には入っていたかもしれないけれど、足元のグレーの路面を見つめているので精一杯だった。
けれど、ふと。
目が横を向いた。そこにあったのは露店だった。植木鉢に植えられた草に花が咲いていて、それがいくつも並んでいたのだった。喫茶か何かだろうかと思いながら視線を上げて、店内に花しかないことを知る。
花屋だ。
企業の事務所ばかりが立ち並ぶ場所にこんな店があるだなんて知らなかった。いつも通っている道だというのに滑稽なことだ。
花。
植物には詳しくない。薔薇とカーネーションは知っているけれど、その程度だ。それ以上を知ろうとも思えなかった。正直どうでも良かった。けれどどうしてか僕は店の前で立ち止まっていた。
色があった。花の色だ。白や赤やピンクだけじゃなくて、それに白や赤やピンクにもいろいろあって、花びらの大きさもいろいろあって。
そして――どこにも灰色はなかった。
白、赤、ピンク、緑、白、黄、茶、オレンジ、紫。もっとたくさんの色がそこにある。花びらがラッパ型のものもあって、小さい花びらが寄り集まったものもあって、花そのものも大きいのが一つ二つついているのや、小さいのが細々とついているのや。
たくさんの花がそこにあった。
ライトアップだ、と僕は思った。
子供の頃夢見た、都会の華々しさ。きらきらしていて、ビルのガラスが太陽光をぴしゃりと反射していて、きちんとスーツを着こなした大人が背筋を伸ばしてキリッとした顔で歩いていて。夜になると車のライトや街灯やビルの明かりで暗い地上が星空に変わる。
これだ。
これが、僕の憧れた景色だ。
カサリと僕のポケットの中で紙がこすれる音が鳴った。それが何かは知っている。さっき、時間屋という男からもらった三千円だ。コーヒーを買う気にもならなくて、適当にポケットに突っ込んでいたのだった。
三千円。
これで、この色達が、あの景色が、どれほど手に入るだろうか。
「すみません」
店内に声をかける。中から小柄な女性が出てきた。突然スーツ姿の若い男が声をかけてきたせいか、驚いた顔をしている。それでも「いらっしゃいませ」と言ってくれたその人へ、僕は紙幣三枚を押し付けるように差し出した。
「これで、花束をください」
「え、っと、どのような感じにしましょう?」
「どのような……?」
「贈り物でしょうか」
店員の言葉に、僕はしまったなと思った。花束を買うだなんて、贈り物以外に理由がないじゃないか。どうしよう、彼女がいるわけでもないし家族とは別居中、どう言い訳をしよう?
「……えっと、ご自分用ですか?」
店員が困った様子で再度訊いてきた。僕にとっては渡りに船だった。花束を自分用に買うだなんてできるのか。そう思ってから、そういえば巷では高級バレンタインチョコを自分用に買う女性が急増しているらしかったなと思い出す。
「そ、そうです、けど……おかしいですかね」
「いえ、全然! お花を家に置くのは良いですよ、空気も華やかになって気分も良くなるし、それにお花は悪い気を吸ってくれるんです」
店員さんは突然饒舌に話し出した。楽しそうだった。へえ、と僕は相槌を打つ。正直、花が好きなわけでもないのに花屋にいるのが恥ずかしくて仕方がなかった。
「そうなんですか」
「気分が落ち込んでいる時はお花が早くしおれたりするんです。綺麗な色を私達に見せて、そして私達の沈んだ気持ちを吸ってくれるんですね。お花を置くだけで違いますよ。――じゃあ明るい色を中心にしましょうか。お花は小ぶりなものにして、小さめにまとめましょう。お好きな色はありますか?」
突然とんとんと話が進み始める。何が何だかわからないまま「黄色です」と答えた。
「じゃああれとこれと……あ、もしお時間あるようでしたら店内でお待ちください。もしお時間がないようでしたら出来上がった頃にお電話しますけど」
「どのくらいでできますか?」
「今空いているので、五分もいただければできますよ」
「じゃあ待ちます」
衝動買いだったから、手帳を取りに行きがてら家に置いて来ようと思った。会社に置き場所なんてないし、話をするのが面倒だ。五分程度なら問題ない。昼食を摂る時間がさらに減るだけだ。
少々お待ちください、と言って店員が奥へと入っていく。その後を追うように、僕はそっと花屋の中に足を踏み入れた。小さな店内をさらに狭くするかのように花が置かれている。植木鉢のもの以外にも切り花があるようだった。ゆっくりと見渡して、その色を見て、大きさを見て、形を見て――それしかすることがなかった。携帯端末を触る気も起きなかった。けれど、不思議と暇ではなくて、値札に書かれた花の名前と花を見比べたりするのは案外つまらなくはなかった。
「お客様ー」
店の奥から店員が出てくる。早いな、と思ったけれど、そういえば店内の花すべての値札を眺め終わっていたのだから、相当な時間が経っていたはずだ。
「できました! こういった感じでいかがですか?」
そう言って店員は手に持っていた花々を僕へと向けてきた。白い小さな花がたくさん散っている。それを背後に黄色い花が数種類、ピンクと白の花もいくつか。紫や赤はないようだった。全体的に薄くて軽い色合いだ。
店員が花を指差して一つ一つの種類を説明してくれたけれど、カスミソウしか覚えられなかった。戸惑っていると「紙に書いてお渡ししますよ」と申し出てくれた。丁寧で親切な店員だ。相当、花が好きなのだろう。
白の包み紙と透明のシートでクレープのように包んだそれを黄色のリボンで結んで止めて、店員は名刺二枚程度の大きさのカードと共に渡してくれた。初めて赤ん坊を抱えるかのような頼りない仕草でそれを受け取った。じわりと湿るような感覚が花束の下の方にあって、濡らしたティッシュか何かで茎の切り口を包んでいるのだと気が付く。「早めに水に活けてあげてください」と言われたけれど、このまま空のペットボトルにでも突っ込めば良いのだろうか。疑問をそのまま口に出せば、これまた店員は丁寧に教えてくれた。僕の無知さを嘲笑う様子もなかったのが意外だった。
手の中の花を見る。灰色が一つもない、様々な色がそこにはあった。
夢見た都会と同じ目映さが、手の中にあった。
――嬉しかった。
「ありがとうございましたー!」
店員の決まり文句を背に、店を出る。顔を上げた先には無論、見慣れた街がある。
しかし。
目を瞬かせる。吸い込んだ空気が肺へと入ってくる。風がすうっと体を撫でていき、太陽の眩しさが目を焼いてくる。
黒い道路、白い横断歩道、赤と青と黄の信号、白い光に照らされた店内に並ぶ青や緑のパッケージの商品。
ああ、と気付く。
ここにも、色はあったのだ。
憧れ続けた色は、ずっとここにあったのだ。
僕は手の中の花束を両手で持ちながら歩き出した。花束はどう持つものなのかわからなかったから、花嫁のブーケみたいだなと一人笑った。
歩行者用信号が直立した赤い人形から手足を広げた青の人形へと変わる。車の往来が止まった黒と白の路面へ、人々が歩み出す。その中の一人になって、僕も歩き出す。
少し家でのんびりしようと思った。会社にぎりぎり着くバスで戻ってくれば良い、数秒くらい仕事時間が削れたって構いやしない。
歩き出す僕の目には青い空が映り込んでいた。
解説
2020年09月07日作成
初めの半分(時間屋さんが交渉成立ですねって言うところまで)書いてあったまま数年放置していたのを、この度書き上げました。展開は考えてあったんだけどどうにもまとまらなくて。会社勤めてから小説を書かなくなり、やがて書けなくなり、鬱状態になり、そこからリハビリをツイッターのツイートから始めて二次小説で練習し、最近ようやくオリジナル作品を書けるようになりました。長かった。ツイッターすらできなかったのは笑いたくても笑えませんでしたね。呟くコメントすら思いつかなかったあの時期…地獄とはこのことかと思いました。まだまだ感覚は取り戻しきってませんので、もう少し練習していきます。
この作品だけはタイトルから話を考えています。というかそういう風に書いていこうと思っていたんです実は。だって話の内容に合う慣用句探すの大変なんだもん! 時間屋さんは時間の買い取りもしてるんですがそっちの話は少なかったので、今回は買い取りのお話にしてみました。人生、少しくらい怠けても良いんやで。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei