時間屋
13. 泥中の蓮 (1/2)


 価値を見出せないでいた、と言えば格好が付くだろうか。
 見慣れた歩道は高架橋となっていて、真下では車が何台も列になって走っている。歩道はというと人であふれかえっていた。どこを見渡しても何かしらがいて、たくさんの何かしらは個々の意志をもとにそれぞれの方向へ脇目も振らず突き進んでいく。
 ここが都会、これが人間社会。見渡せばコンクリート色の建物がぎっしりと背を伸ばして無機質に並んでいて、更に見渡せば無表情な人々が機械仕掛けの人形のように規則正しく両足を交互に動かしている。この素晴らしい技術発展の象徴たる景色がそのように見えてしまうのは、やはり僕が異質だからだろうか。
 いや、疲れているんだ。きっと。よく寝てよく食べれば、この世界はもっと輝かしくて素晴らしいものだと思える。子供の頃夢に見た、都会という街。それがこんなに色も味もないコンクリート街だなんてことはあるまい。
 そう思おうとした。けれどうまくいかなかった――理由はなんとなくわかっている。
 昨日、会社でヘマをした。こっぴどく怒られた。ただでさえ上司に嫌われているのに、ヘマなんていう軽い表現じゃあ間に合わないほどの失態だ。今日は運良く休日で、しかし昨日のヘマのおかげで僕にとってはただの出勤日と成り果てている。のだが、どうにも足が重くて、太陽はとうに上空に来ているというのに、僕はまだ家の最寄りの駅近くでとろとろと歩いている。それがさらに僕の気分を滅入らせた。ああ、やっぱり僕はダメな奴だな、なんて。そんなことを思ったところで現状が良くなるわけでもない。無駄だとわかっていはいるけれど、どうしても自分をダメ呼ばわりしたくなって、そんな自分に対しても「ダメだなあ」なんて。これじゃあ堂々巡り、いつまでたっても僕はダメでしかない。
「おや、すみません」
 突然声をかけられて、慌てて我に返る。と、ふらついている自分に気がついた。どうやら人混みの中で適当に歩いていたせいで、誰かとぶつかってしまったようだ。これは僕も謝らなきゃいけない。
「いえ、すみません」
 何も考えずにそう言って、改めて僕は相手の顔を見た。青年だ。若々しさのある、スーツ姿の。彼もサラリーマンだろうか。とすると彼も休日出勤というわけか。同情する立場ではないけれど、思わず憐れみの思いを抱いてしまう。
「お疲れですね」
 ふと声をかけられる。初めは気のせいだと思った。が、どうにもその声が自分に向けて発せられている気がして、僕はとりあえず顔を上げてみた。目の前にいたのは、先程ぶつかった青年だ。まだ僕の横にいたらしい。
「あ、いえ」
「その状態でこんな人混みを歩くのは危ないですよ。一旦端に寄りましょうか」
 そう言って彼は僕の腕を引いて、歩道の隅へと誘導してくれる。この歩道の端にはどこかの小学校か幼稚園かが植えたプランターのチューリップが並べてあって、けれど花自体はすでに散っていた。今はもう長くて太い茎をだらりと地面に垂れ下げているだけの、みずぼらしい草だ。そのプランターに触れるか触れないかのぎりぎりのところまで寄って、青年はようやく僕から手を離した。確かに、人混みの中よりは密度がなくて呼吸が幾分ましな気がする。
「座っても大丈夫ですよ」
「あ、いや、そこまでじゃ」
「でもとても顔色がよろしくない。まるで何か悪いことを思い出しているかのようです」
 言い得ていると思った。確かに僕は嫌なことを思い返して鬱屈としていた。そんなにわかりやすい顔をしていたのだろうか。赤の他人にそこまで言い当てられるなんて、やっぱり僕はダメな奴だ。
「これはかなり根深いですね。大変だ」
 この呟きも彼のものなのだろうか。意識が曖昧でよくわからない。
「ここで会ったのも何かの縁というものですし、たまには営業も良いでしょう」
 この呟きは独り言のようだった。僕にはさっぱり意味がわからなかったけれど。
 ぼんやりとしたまま立ちすくんでいる僕に、彼は顔を覗き込むように目を合わせてきた。視界に割り込んでくる黒い瞳。虹彩もが黒く、そしてよく見れば彼は髪色も、スーツに合わせたかのように真っ黒なのだった。これから暑くなる季節だというのに、とんでもない格好だな、とぼんやり思う。
「一つ、試してみませんか」
「……何?」
「試しです、小林勇人さん」
 名を呼ばれて、ようやく僕は目の前の人物へと明瞭な意識を向けた。教えてもいないのに、どうして知っているんだろう。その疑問に答えるかのように、彼はゆったりと微笑んでみせた。温厚さの見える笑みだ。こちらの警戒心をほどき、昔からの親しさを錯覚させるような。
「人生を変えてみませんか。あなたの時間をお金に変えて」
 その夢物語のようなセリフを信じさせるかのような。
「は……?」
「ああ、自己紹介が遅れました」
 そう言って彼は懐から名刺入れを取り出す。癖で自分も名刺を渡さなければと思い、しかし胸ポケットを触って初めて名刺入れを忘れてきたことに気がついた。ああもう、本当に僕はダメになっている。
「私、『時間屋』と申します」
 彼の差し出してきた名刺は、名刺というより厚紙だった。三文字の明朝体が縦に並んでいるだけの、連絡先の一つも書いていない紙。
 しかも時間屋って。
「時間、屋……?」
「『時間屋』あなたの時間買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
 言い切ってふつりと押し黙る。売り文句というやつだろうか。にしてもわかりづらくて簡単な感想すら言いづらい。何ともいえない沈黙が僕と彼の間に漂う。
「要はあなたの時間を買い取って、人生を変えるための資金を差し上げましょうという話です」
 こういった何とも言えない微妙な空気に慣れているのか、さらりと言葉を続けて沈黙をあっさり壊してくれる。有難いと言っていいものかどうか。
「はあ……」
「今回はお客様からの声を聞き届けたわけではなく、完全に私からの営業ですから、少々お得にしましょう」
「はあ……」
「いわゆる『大きなお世話』というやつですね」
 それを自分で言ってしまうあたり、この人は本当は良い人なんだと思った。商売なんだろうし、いろいろ大変なんだろう。どう見ても怪しまれる格好と職業名だし。
 などと思っている僕はこの時、彼のことを微塵も疑おうとしていなかった。見るからに怪しさ全開なのに、彼の人柄故か、それとも僕の頭が相当にいかれていたのか、ともかく僕は、彼の言葉に、提案に聞き入っていた。
「えっと、つまり……?」
「あなたの時間――わかりやすく言えば寿命みたいなものでしょうか、それをいただきます。で、その価値分のお金をあなたにお渡しする。抽象的でわかりづらいでしょうが、まあそんなところです」
「寿命を?」
「寿命と言い切ると誤解がありそうなので補足しますが、あなたにとって価値のある時間のことです。例えば大切な人の誕生日を祝ったり、友人と一緒にお酒を飲んで騒いだり。そういった時間は、ただぼんやりと過ごすような時間よりも価値がある。それを買い取ります」
「はあ……」
「今回はこちらからのお願いみたいなものですから、かなり高く買い取らせていただきますよ」
 そういう彼の表情は、うさんくさい笑顔などではなく、世間話をする同僚のような気さくさを感じさせた。断ることもできそうなくらい、ゆったりとした雰囲気だ。けれど、なぜか興味がわいた。時間を買う。面白い言葉だ。
「実際に僕が売るとしたら、どんな時間が買い取られるんですか?」
 もし、とても大切な時間を売れ、なんて言われたらどうしよう、と思いながらおそるおそる訊ねてみる。相手を見上げるような、腰の低い体勢になってしまったのは、会社勤務の末に手に入れた癖だ、どうしようもない。
 みっともない格好で顔色を窺った僕に嫌な顔も嘲笑う様子も見せず、時間屋は「そうですね」と答えた。
「今日の午後の仕事時間を少々いただきたいと思うのですが、いかがでしょう?」
「……え?」
 思いも寄らない提案だった。
「それは……」
 それは、つまり。
 ただでさえ詰まっている仕事時間を、さらに減らせということだろうか。
 口を閉じることも何かを発することもできないまま黙り込む僕に、彼は優しく――それこそ、僕の心中を全て知っているかのような笑みで、続けた。
「ご安心ください。この買い取りによってあなたに不利益が生じることはありません」
「けど」
「いただくといっても数秒ですよ」
「数秒って……それだけ? それだけで何ができるんです?」
「それはあなた次第ですよ。お金も時間も、あなたのものなんですから」
 そう言って彼は「どうでしょう?」と軽く首を傾けた。
 
 ***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei