時間屋
12. 頂門の一針 (2/2)
市立美術館を出ると、夕日色に変わり始めた太陽が斜め上方で輝いていた。歩いて帰る気にはならない。バスでも良いか、とバス停に向かった。
綾乃の家は市立美術館から歩いて四十分ほどだ。バスなら二十分。大した差はないが、今は早く帰ってスケッチブックに思いついた構図を下書きしたかった。
綾乃が乗るバス停は歩いて五分もしないところにある。のんびりと歩いていた。
が。
「すみません」
ふと声をかけられる。困った顔をした女性だった。
「空港に行きたいんですけど、どのバスに乗れば良いんでしょう?」
この近くは交通が発達していて、線によってバス停が違うことがある。どうやら女性は、綾乃の家とは違う方向に行くバスに乗りたいようだった。なら、乗り場はここではない。
「このバス停で合ってます?」
「いえ、空港なら、向こう側のバス停ですね。あれです、あのバス停で、確か流通センター行きのバスが来るはずなので、それに乗れば」
「あ、そうなの。間違ってたみたい。ありがとうございます」
女性が嬉しそうにバス停へと走っていく。それを見送り、綾乃は前を向いて――目を見開いた。
「あ」
短い声が口から漏れ出る。そんな綾乃の横をバスが走り抜けていった。綾乃が乗る線のバスだ。見ればすぐ目の前に目的のバス停があった。女性に声をかけられずに走っていれば間に合ったかもしれない。
どうやらナイスタイミングで乗り過ごしたらしい。女性に取られた五秒ほどが憎い。とはいっても十分後には次のバスが来る。しかたなく、綾乃は次のバスを待つことにした。
早く帰りたかったけれど、と思いながらバス停のベンチを覗き込む。すると、不意にそこに座っていた人と目が合った。
「あ」
「あ」
お互いに声を出す。
「谷口先輩」
「……奥山」
ベンチに座っていたのは例の奥山だった。綾乃に驚いたようで、逸らされがちな目がさらに大きく逸らされる。開きかけの本がその膝に乗っていた。
あいにくベンチは一つしかない。疲れ切っていた綾乃は、彼から一人分の距離をおいてベンチに座った。パタン、と奥山が本を閉じる音が聞こえてきて舌打ちしそうになる。本を読んでいてくれれば、話さなくても良い状況になれたのに。
「お疲れ様です」
「……ああ、そうか、奥山は駅前行きのバスか」
「先輩は?」
「愛宕行き」
「へえ」
奥山の応答は短く素っ気ない。いつものことなのだが、今の綾乃は彼を正視できなかった。
――奥山の作品の前にできた、人だかり。その中で堂々と立っていた、奥山。
あれを思い出した綾乃の胸に、また泥がへばり付いてくる。
「奥山。今日さ、人、凄かったね」
「そうですね」
「今までの中で一番多かった気がする」
「はい」
「……良かったじゃん」
「はい?」
不思議そうにこちらを見てくる彼に、綾乃は唇を噛む。
何で。
「……あんなにさ、人がいっぱいいて。見たよ。奥山の絵、みんなが褒めてた」
良かったよ。そんな心にもない感想を笑って言った。
「さすが新鋭は違うなあ。先輩、もう自信ないよ」
「自信?」
「奥山みたいに凄い絵を描く自信、ないや」
心にもないはずなのに、笑いながら自分が言った言葉に、綾乃は傷付く。
自信がない。奥山に勝てる自信がない。
「……この頃、上手く描けないんだよねー。何でだろ、昔は、もっと華やかに描けてさ、みんなからも褒められて。でも、今は……」
正しくは、奥山が入部してからは。
「……誰も褒めてくれないんだ。なんか、褒められなくなると、自分の作品に自信がなくなるんだよね。これで合ってるのかなとか、こんなので良い成績が取れるのかなとか。……奥山は良いよね。いっつも褒められて。時間もあって、好きなように描けて」
妬みが褒め言葉に換わって、笑みとともにあふれてくる。
ああ、嫌だ。
なんて汚いんだろう。
泥をこすりつけているかのように、胸にはねばねばとしたものがひっついてくる。
ごみ箱の中のような、自分。
「自信あるって良いよね、ああ、うらやましい」
「自信ないんですか、先輩」
「ないない。もうとっくの昔に捨ててきちゃった」
「なのに、描くんですか」
脈絡のない返答だと思った。
「え?」
「先輩」
改まるでもなく、本を片手にしながら、奥山はバス停の時刻表を眺める。
「自信って、自分を信じるって書くんですよ」
「……そうだね」
「創作活動において、自信っていうのは自分の作品を信じることを自信っていうんだそうです」
突然何を言い出すのだろう。
「自信なんてないですよ、ぼくも」
「けど」
「先輩が言うような自信は、ですけど」
妙な話になってきた。だが、今まで挨拶以外に話をしたことがあまりなかったことに綾乃は気がつく。
黙った綾乃に、奥山は目を向けないままに淡々と続けた。
「自信って、世界が全てぼくの敵になったとしても抱いたままでいられるものだと思うんです。どんなに貶されても馬鹿にされても、揺るがない思いだと思うんです」
「まあ、そこまで大袈裟かはわからないけど」
「先輩、間違ってますよ」
突然そう言った彼の顔には単調な真顔しかない。
「は?」
「創作活動での自信って、自分の作品を素晴らしいだとか傑作だとかって思うことじゃないんです。自分の才能を褒めることじゃない。先輩は、自信がないんじゃない。自信がないなら何も描けなくなるはずなんです」
先輩は、と奥山が少し言いづらそうにする。しかし彼は、一呼吸をおいて、口を開いた。
「――他人から肯定的な言葉が欲しいだけでしょう? 良いねとか、そう言って欲しいだけでしょう」
「なっ……!」
「ぼくにもそういった自信ならありません。いつも不安です。テーマに合ってるだろうか、みんなから絶望されないだろうかって。でも、自信はあります。どんな作品だろうが、テーマから外れていようが、それはぼくの作品だって胸を張って言えます。……それが自信なんじゃないですか? 自分が作ったものに対して、これでも自分が作ったんだって言い張れることを自信って呼べるんじゃないですか?」
綾乃は口を開けて何かを言おうとして、できなかった。
何も言えない。わからなかった。理解はできた。けど。
「自信ってそんな大それたものじゃないですよ。この作品は自分が描きましたって言えるだけで十分なんです。そう気付いてから、少し楽になりました」
「……楽になった?」
「プレッシャーが凄くて。ずっと小さな賞を取ってたから、注目はされてたんです。でも、怖かった。もし自分が次に描いたものが、この人達の求めていたものじゃなかったらって思うと、怖くて。部屋にこもって、展示会とか関係なしに好き勝手描いてました。……ぼくも、その時は先輩みたいに、自信ないなあって思ってました。でも、教えてもらったんです。自信っていうのは、自分を、自分の作品を信じるって書くんだよって」
自分の作品を信じる。自分の才能ではなく、作品の正確さでもなく。
「自分の作品は絶対自分のものなんだと信じるようにしたら、楽になりました。妬みもなくなった。だって、無駄なんですもん。ぼくは自分の作品を描いていくだけ。それだけなのに、他の人の作品を妬んで、それで? 変に意識して自分の作品がその人みたいなものに変わる方が嫌ですよ」
車のエンジン音が聞こえた。バスが来たようだった。顔を上げれば、バスの側面に駅前行きの字が光っている。
「ぼく、行きますね」
奥山が立ち上がる。背筋の伸びた、堂々とした姿だった。
「じゃ、お疲れ様でした、先輩」
奥山がバスへ乗り込んでいく。そのバスがやがて走り去っていくのを、綾乃は見送った。
自信。
自分の作品を、信じること。
自分の作品を自分のものだと言い張れること。
「そのくらいなら、私にだって……」
できるだろうか。
ふと、思い出す。
私は、時間屋という人に、はじめ何と思っていたっけ。
あんなに人気のない作品が自分のだなんて恥ずかしいから、気付かないで欲しい。そう思っていなかったか。
「……奥山にはやっぱり敵わない気がするなあ」
ぽつりと敗北を呟き、綾乃は両手の拳を握りしめた。
解説
2015年09月04日作成
作品への気持ちの持ちようのお話。絵画の話にしたのは間違いなく当時の会社のCG部署に来た日本画家の作品展を見たせいです。本人も言ってたけどとても海の青を綺麗に描いてくれる人なんです。こうやって書くと身バレするからその画家の名前出せないんですけど! そもそも建築業の会社にCG部署がある時点でわけわかめですよね(これこそ身バレ発言なのでは)
私は作品に対して恥ずかしいと思うことはないです。…と言いたかった。あります、恥ずかしいと思うこと。うまく書けてないやつとか、ご都合主義がものすごいやつとか。難しいですね、何があっても作品を愛するというのは。人気がないとしょげるし、人気があるとおすすめに出したりしてしまいます。人気で作品の価値を計ってしまう。私は私の作品という私の子を全て愛していきたいです。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei