時間屋
12. 頂門の一針 (1/2)
綾乃は絵を描くのが好きだった。幼い頃から、自由帳を片手に公園に遊びに行き、友達がブランコで遊ぶ横で絵を描いていた。
「あやのちゃんって、え、じょうずだよね」
よく言われた。大きな目をきらきらさせた、首の細い、可愛い女の子ばかり描いていた。
小学校に上がると漫画を描くようになった。中学校では美術部に入って絵筆を持つようになった。高校の美術部は廃れていたが、キャンバスに絵の具を乗せる感覚は、どんなに薄暗い教室で描いていたとしても、華やかで、甘美だった。
白い紙にほわりと浮かぶ現実味のない光景。それに淡く色を重ねていく。境界の曖昧な色味は、絵を、綾乃を曖昧な世界へ連れて行く。
夢の中のような、ひどく曖昧でふわふわとした、心地の良い世界。
そんな世界を感じなくなったのはいつからだっただろう。
綾乃は歩道橋の最後の段を下りた。アスファルトに靴の底がつく。黒いアスファルトは、綾乃の白い靴を際だたせた。あ、綺麗なコントラストだ、と不意に思う。しかし、それは一瞬のこと。すぐに綾乃は自分の靴が薄汚れた茶色に近い色であることに気付き、落胆する。
綺麗じゃない。ちっとも、綺麗じゃない。
目的地は近い。何度も通っている大きな建物は、道路の向こうの民家の屋根の上に、上空へ伸びた避雷針の端を見せ始めている。
市立美術館。地元の高校の美術部や書道部の作品が、この休日の間だけ展示されている。年に一度の、美術館が主催の展示会だ。いくつかの高校が作品を出すこの展示会は、綾乃達部員にとって主要なイベントである。
綾乃は今年もその展示会に作品を出していた。妙な気持ちを抱えながら、今日は美術館に向かっている。
それは歪な感情だった。よく国語の時間に読まされる、人間の醜悪な感情だ。例えば、芥川龍之介の「羅城門」のような。あの作品は綾乃の好みとは正反対だった。あんな薄暗い、光の一筋さえもない、絵の具で描くには黒色がもったいなくなるような作品は、イメージするだけでも滅入る。さらに嫌なのはそこに描かれていた感情だった。どぶのような男とどぶのような老婆が繰り広げる、ごみ箱の中のような、自分本位の汚い欲望の応酬。
なんて汚いんだろう。
思わず眉をひそめた綾乃の視界に、横長の建物が姿を現す。その外観に、綾乃は立ち止まって首を動かして見上げ、ため息をついた。
市立美術館は大きな建物だ。近年建て替えられ、近代的なビルのようなガラス張りの正面玄関は、透き通る水を思わせる。中に一度入ってしまえば、そこはもう美しい世界だった。天井は遠く、音は聖堂の中のように響き、受付は静かに客対応をしている。町の混沌から突然放り出されたかのような唐突な静けさが、綾乃は好きだった。白い壁に蜘蛛の巣一つないのも綾乃の気に入っているところだ。
展示会は無料だ。受付を通り過ぎ、綾乃は一目散とばかりに展示会場へと向かう。二階に続く階段を駆け上り、案内板の通りに進む。すぐに人のざわめきが聞こえてきた。
<市内高校作品展示会場>
簡潔な言葉が書かれた紙が案内板に貼られている。その横を通って部屋に入った。
思ったより人が多い。綾乃と同年代の子の他、老年の人も、会社員を思わせる男性もいる。子連れの着飾った中年女性もいた。様々な年代の人が、壁に向かって一様に首を伸ばし、そこにある作品に見入っている。
綾乃はすぐに自分の作品を探した。どれだけの人が見てくれているだろう。どれだけ注目されているだろう。
そう思った綾乃の目に映ったのは、人だかりだった。胸が一瞬高まる。しかしそれは綾乃の作品とは無関係だった。人だかりを見つけたと同時に、綾乃はそこから離れた所に飾られた自分の作品を見つけたのだ。
嫌な予感がした。何となく、わかった。
「良いねえ」
誰かが人だかりの中で言う。
「さすが奥山くんだ」
綾乃と同じ、美術部の子の作品がそこにある。見なくてもわかった。今更見たくもなかった。あの子が葛飾北斎の見返り美人図のように背中をこちらに向ける女性の裸体を、その曲線も色も艶やかさも色っぽさも、すべて自分と同じ画材で表現していることなんて、部活の時間に見ている。
それでも、ちらりと目を向けてしまった。
――奥山本人が、いた。絵の前で、人だかりに笑みを向けられながらそこに立っていた。室内の部活にいがちな細い体に弱そうな白い肌。人付き合いが得意そうには見えない弱気な顔をしながらも、しかし彼は腰を引かずにしゃんと立って人々の賛辞に答えている。
見ていられなくなって、目を逸らす。
心のどこかでわかっていた。あの子の作品は、いつだって、自分よりも上を行っている。
知っていた。
知りたくもなかった。
――どうせ。
「……だってテスト勉強で忙しかったし」
一人呟いてみる。
「だって奥山は一つ下だから、あいつの方が作品に取りかかる時間がたくさんあったんだし」
言ってしまえば楽になる。それが苦しい言い訳だとわかっていても。
「時間が足りなかったの。そう、だからまた……奥山が注目されてる、だけ」
事実そうだ。奥山は綾乃の後輩だ。部活ではいつも誰よりも早く作業を始めていた。暇だからこそああやって褒めそやされる作品が作れたのだ。
思えば思うほど、言い聞かせれば言い聞かせるほど、心の奥の泥はべったりと綾乃の内側を這いずっていく。
薄暗い、光の一筋さえもない、絵の具で描くには黒色がもったいなくなるような泥色の感情。ごみ箱の中のような汚い感情――「羅城門」で描かれていた灰色が、綾乃の心の中にもある。嫌で嫌でしょうがない、確かな事実。目を逸らせない。消し去ることもできない。苦しさだけが綾乃の胸をぬめぬめと覆っていく。
なんて、嫌な感情だろう。
「こんにちは」
一人ぼんやりと立っていた綾乃にそう声がかかったのは、しばらく経ってからだった。
「はい……?」
我に返って振り返れば、にこりと微笑んだ男の人がそこに立っている。綾乃よりは年上だ。黒いスーツの着こなしがサラリーマンを思わせる。静かな美術館に似合う単調な黒い帽子、黒い鞄。黒い靴は綺麗に磨き上げられていた。
「谷口綾乃さん、ですね」
「はい」
見知らぬ人だ。どうしてわかったのだろう。作品のプレートには確かに綾乃の名前が示されているが、今の綾乃は、迷子になった子供のように一人でぼうっとしていた、ただの少女だ。この展示に作品を出しているかも判断できないはず。
それに。
ちらりと自分の作品の方を見る。誰も見ていなかった。立ち止まる人はいない。誰も見てくれない。
あんなに人気のない作品が自分のだなんて恥ずかしいから、気付かないで欲しい。
「あの、何か?」
用件を聞こうとした綾乃に、その人は優しい笑みを浮かべた。
「はじめまして」
帽子の下から黒髪が表れる。その若さで染めてもいないのか。軽く驚いた綾乃は、この後さらに目を丸くする。親しみのあるその笑みから発せられた言葉は、綾乃の想像を遥かに凌いでいた。
「時間屋です」
じかんや。
「……はい?」
「ああ、怪しい勧誘ではないんです」
随分と慣れたようにそう言い、時間屋はスーツの胸元から黒い名刺入れを取り出した。そこから小さな厚紙を取り出し、綾乃に両手で渡してくる。
「『時間屋』あなたの時間買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
「はあ……」
時間屋、の三文字しか入っていない名刺に何の意味があるのだろう。連絡先の一つもないその紙を、綾乃は手のひらに隠すようにして持った。
「それで……?」
「時間を必要としているとお見受けしたもので」
よくわからないことを言って、くすりと楽しそうに笑ってくる。何がそんなに楽しいのだろう。
「あの……私、そんな、そういうのはちょっと」
相手に粗悪な印象がない分、断りづらい。有名どころからのスカウトなら真っ先に引き受けるが、見たところ普通のサラリーマンがふざけているようにしか思えない。さてどうしようか。
そう思案する綾乃に、時間屋はふと声を柔らかくした。
「何とかしたいとお思いでしょう?」
「え?」
「その汚い感情を何とかしたい、そうお思いですよね」
その言葉に、耳を疑った。目を丸くして見上げてみれば、時間屋はただ笑みを浮かべているだけだ。
思った事を口にしていただろうか。いや、していなかった。美術館で私語は迷惑行為だ。何度もここに来ている綾乃が、いくらぼんやりしていたとはいえ、そんな失態をするわけがない。
「地獄耳なんですよ」
何も驚くことはない、と言わんばかりに時間屋は言う。黒い目が優しく弧を描く。
「私には時間を必要としている人の声が聞こえるんです。あなたもそうでしょう? 時間を欲している。現状を何とかしたいと思っている」
まるでたちの悪い占い師のようだった。関わらない方が良い。警備員に助けを求めた方が良い。
「私は」
けれど。
「……時間を欲しいとは、思ってないんですけど」
話をしてみても良いと思った。この人なら、言える気がした。
全く知らない人だけれど、何かが、彼に話をする気分にさせていた。
「気付いていらっしゃらないのでしょうね」
こちらがほっとするような笑顔で時間屋が言う。
「私には聞こえたんですが」
「はあ……」
「ちなみに一秒千円です」
「……それ、高いんですか?」
時間の相場なんてわからない。時間に値段があるという時点で奇妙なものだが、綾乃はなぜか疑問を持たなかった。
こんなのも良いと思ったのだ。目の前に広がる想像に、綾乃は酔いしれていた。
黒い人が、様々な時計とあふれんばかりの金貨を手に微笑んでいる。彼の背中にある壁にも色々な形をした時計が飾られていて、人々がそこに金貨を持って殺到している。人々は足元には花が咲き乱れているのだ。まるで夢のひとときのように。空は夕焼けと朝焼けを混ぜ込んでいて、星も見えていて。
様々な時間が混在した夢の世界。見る人を異世界へ誘う曖昧な色合いのキャンバス。
素敵な絵だ。悪くない。
「高い、と思う方が多いようですね。ですが一秒は運命を変えるには十分な時間です。一秒の差で電車が出発してしまうことがありますよね? それをきっかけに大切な人と出会うことだってある。今のあなたのように、一秒の妄想が作品の構図を思いつくきっかけになることも」
どうやらこの人は人の顔色を窺うのが得意らしい。彼を見て一瞬絵のことを考えていた綾乃は、気まずくなって目を逸らした。
「そうですね」
半ば話を聞かないままそう返すと、時間屋は満足そうに笑んだ。どうやら理解してもらえたのが嬉しいらしい。聡明なんだか単純なんだか。呆れ半分で、綾乃はちらりと時間屋を見る。
「それで、私はどうすれば?」
「あなたには五秒で十分かと思いますけどね」
「……五秒……?」
「五千円です」
「五秒?」
「五秒です」
「え?」
「はい」
一体何の数字かと思った。
「五秒? って? え?」
五秒って何だ。五千円も払うほどのものなのか。放っておいても手に入れられる時間じゃないか。絵一つを見るのでも五秒はあっという間に流れる。なるほど、一秒千円を高いと思う人が多いという先程の時間屋の言葉は間違いではなさそうだ。
五千円もあったら何が買える? いろんな画材を一度に思い出し、綾乃は顔をしかめた。
やはりぼったくりか。警備員に話した方が良いだろうかと思い始めた綾乃に、時間屋は危機感もなくただ笑っているだけだ。何だかむかついてきたなあと思いながらその顔を見上げると、彼は心底楽しそうに人差し指を立てた。
「一秒で思いつく構図があるんです、五秒ではどんなに素敵な世界を創造できると思いますか?」
***
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei