時間屋
11. 光陰矢の如し (1/1)


「おじいちゃんが死んだ」
 耳に当てた受話器から、やけにあっさりとした父の声が聞こえた。そう、と返した僕の声もどことなく感情が薄い。雨だね。そうだね。そんな掛け合いに似た、お互いさして大したことと思っていないような会話だった。
 そうか、と僕は電話越しの声が葬儀の日程について話しているのを聞いていた。どうやらこれが、”彼”の望んでいたことらしい。
 あれはいつのことだったか、祖父が突然気を失って救急車で運ばれた時があった。その時僕は会社にいて、クーラーの効いたオフィスで黙々と作業していた。祖父が倒れたことはだいぶ後から聞いた。それを伝えてきた父は、そろそろだろう、と電話の向こうで言っていた。何がそろそろなのかは言われなくてもわかった。
 それでも祖父の様子を見に行こうとは思わなかった。祖父や親から離れた地で一人暮らしをしていたし、会社のこともあったし、もうすぐお盆だったから、お盆休みになってから見舞いに行けば良いだろうと思っていたのだ。それに、僕は祖父とさほど仲が良いというわけでもなかった。核家族で育って、親の実家には夏休みに数日寄るくらい。祖母は優しい人だったからよくなついていたが、祖父は訛りが強いこともあって、幼いころから近寄りがたく感じていた。
 だから、すぐでなくとも、お盆になってから行けば良いかと思っていたのだ。
 そんな僕に、会社帰りの交差点で彼は笑った。
「本当に良いのですか」
 嘲笑いではなく、少し寂しそうに彼はそう言った。人が次々とすり抜けていくモノクロの横断歩道の上、暑そうな黒いスーツを涼しげに着こなして、夕日に照らされた黒い瞳を陰らせて、彼はすれ違い様に訊ねてきた。
「後悔は、しませんか」
 わからない、と僕は振り返って答えた。僕はもともと帰省を好まない性格で、会社勤めのために一人暮らしを始めてから、親ともまともに顔を合わせていない。滅多に帰らないということが何を意味しているのかはわかっているつもりだ。
 いつ親が倒れても、死んでも、死に目に会えなくてもしょうがないということ。
 僕はそれをわかっていて、そして帰省を拒み続けてきた。親が嫌いなわけではない。一人が好きだったのだ。
 家族がいつの間にか死ぬ。覚悟はしていた。けれど僕の心を試すかのように、疎遠だった祖父が死んだ時、果たして僕は後悔しないだろうか。
 わからなかった。だから、彼にわからないと答えた。
「時間を差し上げましょう」
 黒いスーツに黒い鞄を提げた彼はそう言った。
「あなたが、後悔しないように」
 周囲のぼんやりとしたざわめきを貫くような、はっきりとした、しかし穏やかなテノールボイスだったのは覚えている。そして、この先に起こりうる悲しみを回避できたことを安堵するような、少し嬉しそうな声だったことも。
 その日の夜、僕は帰宅早々荷物をまとめた。上司に連絡を入れて、そして深夜バスに乗った。盆前でしかも休日だというのに、幸運にも一席だけ空いていたのは、彼のおかげだったのかもしれない。
 朝方祖父の家に着いた。突然の僕の訪れに祖母も父も驚いていた。そして病院へと僕を連れていってくれた。
 病院のベッドの上で嬉しそうに笑った祖父を見て、こんなにも痩せていただろうか、こんなにも皺があったろうか、と思った。もっと顔の丸い人じゃなかったろうか。腰を曲げながらも力強く元気に台車を押す人じゃなかったろうか。
 祖父は鮮魚店の二代目か三代目だった。つい最近まで店頭に立って魚を捌いていた気がするが、聞けば数年前から父の兄へ代替わりして、祖父自身はもう店に立っていないらしい。
 僕の記憶はどうやら、だいぶ昔から時間が止まっていたらしかった。
「来て良かったな」
 隣で、記憶より少し老いていた父が薄く笑った。
「お前も、おじいちゃんも」
 うん、と僕は答えた。雨が降りそうだったから洗濯物を仕舞ったよ。わかった。そんな会話に似た、少し安心のため息の混じった掛け合いだった。
 祖父に会ったのはそれが最後だった。このあと僕は自分の家に帰って明日からの仕事のために早く布団に入った。
 そして二日後の早朝、父から祖父の死を単調に告げる電話を受け取ったのだ。
 電話が切れてから、僕は外に出た。夏の朝日は早くも地平線から離れきっていて、白い日差しは少し暑かった。
 盆休みまでにはまだ一日残っている。しかし今日はかなり暑くなりそうだ。僕は高い位置にある朝日を見上げて目を細めた。
 心の底から、祖父が向こう側へ行くことを受け入れられる自分がいた。祖父は確かに生きていた。僕は確かに祖父と同じ時間を過ごしていた。疎遠ではあったけれど、近寄りがたく感じていたけれど、確かに僕は昔の祖父も死に際の祖父も知っている。僕は祖父の孫なのだ。昔も、今も、これからも。
 それがわかっているだけで十分だ。
 晴天を思わせる深い青が朝から頭上を覆っている。その空へと両手を差し伸ばして、大きく手を振るかのように、僕は一つ大きな伸びをした。


解説

2015年08月15日作成
 大学三年生の夏は一ヶ月泊まり込みで山の調査をするんですが、その最中に父方の祖父が亡くなりました。数日前に「おじいちゃんが倒れた、病院に運ばれた」と実家の両親から聞いていて、来れるなら来た方が良いという話にはなっていたんですが、調査の日程も詰まっていたし、他の人と協力しながらやる調査だったので「お盆休みに行けたら行く」みたいな話にしていたと思います。そして祖父は会いに行く前に亡くなりました。急いで調査地から帰って(初めてディーゼル電車?に乗った)、お盆は寺も忙しいからお盆明けに葬式をするということになって、お盆休みは父の実家にいました。突然の死で、祖母は夫の死を悲しむ間もなく病院やら葬式の準備やら近所の人とのやり取りやらで疲れてしまい、体調を崩して葬式に出れなくなり、やがて軽度の認知症を発症。棺の中の祖父は丸い顔ではなくなっていて、死んでいるからということもあってか別人と見間違いました。「これおじいちゃんじゃない」って本気で思いました。いろいろと慌ただしく衝撃的だったのでかなり引きずった気がします。
 この話は祖父への追悼…だと良かったんですが、私の気休めです。もし会いに行っていたら、を代わりに叶えてもらいました。この話を書き上げた数日後に父方の実家に遊びに行く夢を見て、幼い頃から変わらない優しくてしっかりとした祖母と、やはり幼い頃から変わらない――けれど頬の随分と痩せた――棺の中に横たわっていたままの祖父が私に笑いかけてくれたのを覚えています。ただの夢だったけど、祖父に許された気がしました。


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei