時間屋
10. 無常の風は時を選ばず (2/2)


 立ち話も何ですから、と彼と共に喫茶店に入った。会社に遅刻する旨を伝えると、物わかりの良い人で、亡くしてからまだそんなに時間が経っていないだろう、休んでも良いのだよ、と上司が言ってくれた。休むのは申し訳がないので断った。
「一秒千円になります」
 ブラックコーヒーを一口飲み、彼はそう切り出してきた。
「一秒、千円……」
 あまりピンとこない。時間の相場を知らないため、それが高いのかどうかわからなかった。
「わかりやすく言うと、一時間三百六十万円です」
「そんなに……!」
 カラオケ一時間分の何分の一だろう。そう考えた私の脳裏に浮かんだのは、楽しそうにマイクを握る幼い日の娘の姿だった。
「これでも安い方なんですよ」
 カップを置き、時間屋はそっと笑む。
「一秒は運命を変えるには十分な時間です。一秒の差で電車が出発してしまうこと、ありますよね? それをきっかけに将来の奥さんと出会うことだってある。……逆のパターンは吉原さん自身がよくご存じだと思いますが」
 逆のパターン。
「……瑞希」
「ええ、そうです」
 あの子は青信号を渡ろうとしていた。私を置いて、あの子は楽しそうに駆けていって、私の先を行っていて。
「もし、瑞希さんが横断歩道に立ち入るのが一秒遅かったなら、事故は起こらなかったかもしれない……そう、お思いになったことがおありでは?」
 ああ、そうだ。
 もし、あの子が一瞬だけでも横断歩道に入るのが遅かったなら。
 何度、そう思ったことだろう。
「一秒で人の運命は変わります。それほど、一秒の価値は大きいんです。それこそお金の単位では収まりきれないほどに」
 一秒の価値。
 考えたこともなかった。
「……でも、私はしがない会社員で、そんなお金はすぐには」
「三十万円でどうでしょう」
「……え?」
 突然提示された金額に、私はぽかんと口を開けた。
「三十万、って……」
「五分です」
「五分? たったの?」
「まさか」
 時間屋がくすりと笑う。
「充分過ぎるじゃありませんか」
「けど、そんな短い時間で何を」
「できますよ」
 嬉しそうに、しかし優しい目で、時間屋は私を見つめてくる。
「たった一秒で変わってしまう運命があるんです、五分というのは、酷く長いものですよ」

***

 夜、残業を終えてようやく帰った家で、妻はやはり疲れ切った笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様」
「ああ」
 いつもの言葉が発せられる。
「お風呂、できています」
「わかった、ありがとう」
「今日の夕飯はお魚を焼いてみたんです」
 妻が嬉しそうに言う。
「昨日はお肉だったから」
「魚は何だい?」
「あじです。塩焼きにしてみました」
「美味しそうだ」
「もちろん」
 くすくすと妻が笑う。傍から見れば仲の良い幸せな夫婦なのだろう。
 しかし、私と妻には、耐え難い違和感がある。
 家の中に入り、スーツを脱ぐ私に、妻は洗濯したてのパジャマを手渡してきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 ふわりと香った匂いは、今までとは違うもので。
「あ、そうそう、明日のお弁当のご飯、混ぜ込みにしようと思っていたんです。どうですか?」
「良いねえ、わかめかい?」
「梅にしようかと」
「それも良い」
 献立にカレーが出てくることはなくて。
「今日のお風呂はラベンダーの香りなんですよ」
「ああ、だから君の匂いがいつもより良いのか」
「いつもは臭いみたいな言い方ですね」
「いや、そんなつもりは」
 近くの銭湯とは疎遠になってしまった。
 どれもこれもが、変わっていく。
 まるで、痕跡を消していくかのように。
「そうそう、ボディソープの香り、変えてみたんです。いつものは、ちょっとお値段が」
 くるりと向こうを向いた妻の背中に、私は手を伸ばした。
「今度のお休み、開いていますか? 模様替えをしたく……」
 抱きしめた腕の中で、妻は言葉を切る。そっと力を込めた。
「……ママ」
 久し振りに呼んだ単語に、妻は体を震わせた。そっと囁く。
「我慢、しなくて良いよ」
「……お風呂、冷めてしまいますよ」
「無理して忘れなくて良い」
「ご飯、温め直さなきゃ」
「俺の前で泣いても良いから」
「……洗濯物、たまってるんでした」
「瑞希のこと、本当に申し訳なく思ってる」
「もう言わないでください!」
 突然怒鳴り、妻は体を震わせた。
「もう……思い出させないでください……」
「……瑞希は良い子だったね」
「やめて」
「いつも笑ってて」
「お願いしますから」
「……俺の不注意で死なせてしまった」
「もうやめて!」
「やめるのは君の方だ!」
 私の大きな声に、妻がひくりと息を呑む。その体をそっと抱きしめた。
「……俺は、やっぱり運転手を恨んでいるよ。瑞希が悲しむだとか、望んでいないだとか、確かに瑞希のことを考えると恨むのをやめようと思うし、今まで通り生きていこうとも思うけど、無理なんだ」
「……パパ」
「自分を恨めしくも思う。自分が代わりに死ねば良かったのにとかも思ってしまう。どんなに瑞希が悲しむから思い詰めるのをやめようとしても、できないんだ。悔しくて、辛くて」
 ああ、言葉が足りない。
 この胸の内を吐き出し切れるような語彙力が欲しかった。
 何度辛いと叫んだところで、この感情は収まらない。
 何と言えば良いんだろう、この気持ちは。
 そう思って、ふと思い浮かんだのは、酷く単純な言葉だった。
――瑞希に、会いたい」
 会いたい。
 あの笑顔に。あの子を見る時の心地よさに。
 また、会いたい。
「会いたいよ……瑞希に」
「ああ……!」
 妻が嗚咽を漏らした。抱きしめる腕に温かい雫が落ちてくる。
「瑞希……瑞希……!」
 妻が膝から床に座り込む。その震える体を抱きしめながら、私は彼女の髪に顔を埋めた。
 瑞希に似た、彼女の匂い。シャンプーを変えたとしても消せない、優しい匂い。
 ああ、またあの小さな体を抱きしめたい。
「瑞希……!」
 声を出して妻が泣く。その声に自分の嗚咽が重なる。ごめん、と何度も言った。瑞希、と何度も呼んだ。会いたい、と何度も言った。
 叶わないなんてわかっている。私達が泣けば瑞希が悲しむこともわかっている。
 それでも、収まらない感情は日々胸を圧迫して。
 会いたい。また、あの日々に戻りたい。守りたかった。守りきれなかった。そのどうしようもない叫びを、妻も私も、どうしようもないとわかっていたから、必死に胸に閉じ込めていた。互いを思いやり、目の前の仕事に熱中し、瑞希との思い出のものを消していくことで、自分の心の叫びを無視しようとしていた。
 でも、もう堪えきれない。
 ――帰宅してから五分後、瑞希を失って初めて、妻と私は共に声を上げて泣いた。


解説

2015年03月01日作成
 向き合うとどうしようもない感情が爆発しそうになる、だから口にも顔にも出さないまま胸の奥に閉じ込めて、いつかそれが消えてくれるのをひたすらに待っている…そういうお話です。ぶつける相手のいない感情って処理が大変ですよね。私はこうして小説に落とし込みますが、それができない人はどうやって解消しているんだろうと不思議でなりません。
 私はよく殺意を抱く人間でしたが、殺意をこれでもかと小説に書き込むことで解消していました。作中でたくさんの人が大変な状態になってました。幼稚園児のお絵かきのように、ペンを紙にぐりぐりと殴るように押し付けるのもよくやりました。暴言を紙に書き殴るのもやりました。大抵途中で飽きます。で、書いたものを千切って丸めて捨てます。はいすっきり! もはや自分がさっきまで何をしていたかすら覚えていません。こういう自分用の対処法を持っていると、幾分か呼吸が楽になる気がします。肺呼吸ではなく、生きるという意味の呼吸が。


←前|[小説一覧に戻る]|次話

Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei