時間屋
10. 無常の風は時を選ばず (1/2)


 とても平凡な日々を送ってきたと自負していた。
 両親と共に笑い合い、友人と共に勉学に励み、仲間と共に会社を支え、妻と共に家庭を築く。
 子供の頃に夢見た「特殊な事情」というものは現実世界では苦痛でしかなく、最も自分を幸せにしてくれるものはこうした「よくある日常」だということを、私はもう知っている。
 そう、特別な事情なんていらなかったのだ。
 なのに。
「まただ……」
 時計のアラームが鳴るよりも一時間以上前、布団から跳ね起きた私は、今日もまた、激しく鼓動する心臓を感じながら頭を抱える。
「……どうして」
 目を閉じなくても先程の夢は鮮明に思い出せた。それもそう、その光景は何度も夢に見てきたし、第一、目の前で実際に起きたできごとだったのだから。
「瑞希……」
「……また、あの夢を見たんですか?」
 隣の布団がもぞりと動き、眠そうな顔の妻がこちらを心配そうに見てくる。その優しげな顔に、頷いた。
「……また、瑞希が死んだ」
「あなた……」
「また、車に轢かれて……」
 妻が上体を起こして、私の背をさすってくれる。
「……あなたのせいじゃないですよ」
「けど……目の前で、俺は……あの子を……」
「そんなに思いつめたら、瑞希が悲しみます」
 ふと手を止め、彼女は暗がりの中目を伏せる。
「……あなたに似た、優しい子だったから」
 瑞希は私達夫婦の一人娘だった。なかなか子供に恵まれない中得た、大切な命だった。
 それを、私は目の前で失ったのだ。
 早朝、朝食の後私は外に出る。出勤だ。独特の薄ら寒い空気の中、せわしなく行き来するスーツ姿の人々の間を私はぼんやりと歩いていた。私もスーツを着ているというのに、私は彼らと同じ速度で歩けなかった。次々と追い越されていく。時にぶつかられ、苛立ったように舌打ちをされる。そんなことも気にならないくらい、私の頭はぼんやりとしていた。
 ふと見た先に、赤信号を眺める人だかりができていた。この時間の交差点は人も車も問わず非常に混む。時々信号無視をして赤信号の横断歩道を渡る人もいた。
 そういう時には、事故はなぜか起きないもので。
「……どうして」
 歩行者用の信号が青になる。信号の下、黄色いラッパが鳥のさえずりのような音をうるさく鳴らす中、人が一斉に黒く舗装された車道へ歩き出していく。何人もの人の革靴が白くペイントされた縞模様を踏んでいく。
 どうしてこういう時に車は突っ込んでこないのだろう。
 どうして瑞希が一人白いペイントを踏んだあの時にだけ、車はやってきたのだろう。
 まるで、あの子が意図して狙われたかのように、世界は滑稽なほどきっちりと規律を守って動いている。
 どうして。
 何度目かのその問いに、私は頭を振った。
「駄目だ」
 今は瑞希の事を考えちゃいけない。仕事に向かうのだ、仕事に集中できなければ、成績が落ちる。給料が下がる。それは、私だけでなく、同じく娘を失った妻にも多大なショックを加えてしまう事態だった。
「……落ち着こう」
 自分に言い聞かせ、横断歩道を渡り始めた。仕事に夢中になっていれば、この悲しみは忘れられるはずだ。今は仕事をつきつめて、仕事のことだけを考えていたい。
 ――そんなに思いつめたら、瑞希が悲しみます。
 今朝の妻の言葉を思い出す。寂しそうな、辛そうな顔で、彼女は私の背をさすっていた。私のことを心配する余裕など、彼女にはないだろうに。
 彼女は私がいない昼間、仏壇の前で一人悲しみに暮れている。それは帰宅した時の彼女の笑顔を見ればわかった。そして、どんなに時が経っても終わりのない悲しみに、彼女が精神的にも身体的にも参っていることも知っている。一度夫婦で悲しみを共有した方が良い、とカウンセラーの先生に言われていたのを思い出した。
 彼女を救うが必要だ。妻には、本当の笑顔でいてもらいたい。その結論に至ると同時に、私の足が車道と歩道の境を踏み越える。
「吉原祐二さん」
 その声は横断歩道を渡りきった瞬間、聞こえた。
「え……?」
 横断歩道の先で突然止まった私の横を、迷惑そうな足取りでスーツの人々が越していく。皆、黒や灰の色味だった。まるで有名人の葬式の参列者のような人混みの中、私は声のした方へ顔を向ける。
 せわしなく歩いていく人の流れの中、一点だけ、動かない人がいた。周囲になじむような黒いスーツ。そして黒い帽子に、鞄。
 その人が私を呼び止めたのだと確信したのは、彼がその黒い目で私に微笑んだからだ。
――お呼びですね」
 新入社員を思わせる若い声で、その人は言う。知らない男だった。取引相手にも記憶がない。
「あなたは……?」
「ああ、これは失礼」
 横断歩道がまた赤に変わったのだろう、彼と私の間を通る人がいなくなる。ここでようやく彼の全貌を見ることができた。
 スーツも帽子も鞄も黒い。靴も黒かった。装飾が何一つないその姿は、彼の年にしては珍しいように思えた。
「初めまして」
 そう言って彼は帽子をとる。若者にしては珍しい、染めていない黒い髪が露わになった。
「時間屋です」
「時間屋……?」
「『時間屋』あなたの時間買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
 無表情で言い切り、ふつりと押し黙る。決まり文句らしかったが、何を言っているのかよくわからなかった。
 戸惑う私に、彼はにこりと微笑む。
「要はあなたに時間をお売りしますよということです」
「時間を……売る?」
「欲しいのでしょう? 時間が」
「え?」
「私、地獄耳なもので。お客様の声、思い……そういったものが聞こえてしまうんです」
 真面目な顔でそう言う彼に、私は、はあ、と気の抜けた声を出す。奇妙な男に出会ってしまったようだった。時間というものはそうやって扱えるものだったろうか。
 そう思いつつも、私はとある可能性に気付いていた。彼へと一歩歩み寄る。
「まさか……」
「あなたの手助けにはなると思いますよ」
 何もかもを知っているかのように時間屋が言う。
 傍から見れば下手な詐欺師だろう。時間を売るなんて言っている奴にまともに取り合うなんて、それこそ馬鹿というものだ。
 しかしその時の私は、彼を微塵にも疑わなかったのだ。なぜかはわからない。わからないが、なぜか、彼を信じることに違和感はなかった。
「妻を、助けてあげられるんですね……!」
 私は時間屋の腕を掴んだ。若々しい、細い腕だった。
「どうか、お願いします……!」
 すがる私に、時間屋はそっと微笑む。嘲りも恐ろしさもない、親が子に向けるような優しい笑みだった。
――交渉成立、ですね」

***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei