時間屋
9. 後悔先に立たず (2/2)


 家に帰ったのは空が真っ暗になってからだった。あいにく星は見えない。うっすらと雲がかかっているようだった。
 駐車場に車を止め、シャッターを下ろす。両脇に椿の木が立つアプローチを通り、仄かに灯る玄関の照明の下で足を止めた。
 玄関のドアのモザイクガラスから、室内の明かりが見える。どうやら母はまだ起きているようだった。
 カチャリ、とドアを開ける。
「ただいま」
 玄関を開ければ考えずとも出るこの言葉は、両親から叩き込まれた習慣の一つだった。
 靴を脱ぐ。履き慣れたとは言えどパンプスは足に窮屈だった。
 フローリングの冷たさをストッキング越しに感じつつ、リビングのドアを開ける。途端にドッとテレビの音が聞こえてきた。思わず顔をしかめる。
「ちょっと」
「ああ、綾子。お帰り」
「また無駄に音量大きくして」
 づかづかとリビングの奥のテレビに歩み寄り、本体のボタンを押して音量を低くする。馬鹿げた笑い声が徐々に小さくなっていった。バラエティ番組特有の、騒々しい音。わたしはあまり好きではなかった。
 ソファに身を沈めていた母は、白い犬を自分の膝に抱えつつ、何も口を出してこなかった。いつものことだ。いつも、帰ってきたらこのやりとりをしている。お互い慣れたものだった。
「見てないくせに」
「そんなことはないわよ」
「そうでしょ。ココと遊んでる時は、いつもわたしの話さえ聞かないじゃない」
「そうだったかしら」
「そうよ。なのに、テレビつけて音量大きくして。まるで」
 そこで言葉を句切り、一度、深呼吸をする。
「……まるで、お父さんがいた時みたいじゃない」
「……そう、だったねえ」
 母もまた、一度深呼吸をして、そして小さな声で同意する。
 父はわたしが大学を卒業して会社に勤めだした、その四ヶ月に死んだ。夏の最中、突然倒れたのだ。いわゆる過労死だった。もう少しで還暦だったように思う。耳が少し遠くて、バラエティ番組が好きで、いつももめていた。
「もう八年も前だよ、お父さんが死んだの」
「……長かったねえ」
「長くなんかない。あっという間よ。わたしなんかあの会社をやめて、病院にずっと通って、お金が全然なくて、みんなが普通にしているような贅沢なんて全くできなくて……お母さんだって倒れるくらい働いて。お互い、お父さんの命日を忘れるくらい忙しくて、もう何もかも覚えてないよ」
 初めて勤めた会社は酷く窮屈だった。女だというただそれだけで白い目で見られ、評価も低かった。挙げ句セクハラに留まらずパワハラも始まり、既に限界に達していたわたしは会社を辞めた。精神科に通院しながらの就活は辛かった。
 辛すぎて何もかもを忘れた。「辛かった」という記憶しかない。まるで小学校のトイレ掃除が、何が原因かは知らないが、とにかく嫌だった、そういった記憶と同じく、「とにかく辛かった」という言葉でしか表せない日々だったという記憶しかない。
「……覚えてないよ」
 何も、覚えてない。
 思い出したくないこと、全て、忘れ去ってしまった。
 だから、思い出せなかったのだ。
「……ねえ、お母さん」
「何?」
「……覚えてる? お父さんが死ぬ何日か前に、お父さんがわたしに仕事中に電話してきたこと」
 母は犬を撫でる手を止めて、曖昧に唸っただけだった。別に覚えていることを期待していたわけでもない。わたしは一人、頷いた。
「そう……どこかに遊びに行こう、って。今度の休みはいつだって、お父さん電話してきたの」
 ――わたし、時間ないから。ごめん、諦めてよ。
「新人が休みを取れる会社じゃなかったから、そう言うしかなかった。……あんなに早く死んじゃうとは思わなくて」
 いつかね。
 そう言って、電話を強引に切った。
 その履歴は、携帯電話から、とうの昔にこの手で消してしまったけれど。
 その記憶は、わたしの脳内から、とうの昔に自ら消してしまっていたけれど。
「……ねえ、お母さん」
 今の会社は良い職場だった。稼ぎも悪くない。ただ、この頃の不況で売り上げを落ちていて、事実休日返上で働くのが普通という雰囲気だった。
 正直、仕事以外に裂く時間は、ない。
 だから。
 ――わたしに、もう後悔をしないための、もう忘れないための時間をください。
「……今度、どこかにでかけようか」
 ぽつりと言ったわたしの言葉に、母はそっと小さなため息をついた。
「お父さん、大人になった綾子と遊園地にでも行きたいって言ってたねえ」
 母が穏やかに微笑む。その笑みは、犬に向けるそれとは少し違って、昔の愛おしいものを懐かしんでいるようだった。


解説

2015年02月16日作成
 また会社員を知らないくせに会社員で書くやつ~。とはいえけっこう良い出来だと思います。後にしてよ、って言った矢先に相手がそれをできなくなって約束が宙ぶらりんになること、よくあるわけじゃないけど一度あったら心に強く残る気がします。そしてそれはなかなか解消できないですよね。後悔って心にごりっごりに残るので邪魔で嫌なんですよね、私は。後悔はしたくないものです。
 時間屋さんは相手の本心を見抜くのが得意です。彼は「地獄耳」とか言ってますけど。登場人物本人も、読んでいる読み手側も、書いている私も気付いていない本心を彼は見抜いて口にして、本当の願いを引き出します。それを不躾だと思う人もいるはずなんですけど、そもそも時間屋さんってかなり怪しいので警察に通報されてもおかしくないんですけど、そういう事態にならないのが時間屋さんパワーですね。ご都合主義? いえいえ、時間屋さんの秘められたスキルです。ええ。


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei