時間屋
9. 後悔先に立たず (1/2)


 将来の夢は何ですか。
 この問いを日本人にすると、必ず「どんな仕事につきたいか」が返ってくる。しかしそれは日本だけで、海外でこの問いをすると「どんな生活をしていきたいか」が返ってくるのだそうだ。
 そんな話を小耳に挟んだわたしはというと、そこらの日本人と大差ない人間で、いつだって夢は「お花屋さん」で、大人になった時は「社会の為に働けるスーパーウーマン」だったし、会社勤めを始めて何年かが経った今だって「ノルマ達成」なのだ。
 将来の夢、って一体何なんだろう。
『あたし、将来は家でゆったり過ごしたいわ』
 電話越しの母のかすれた声は、そう柔らかに告げてきた。
『あなたとココちゃんと一緒にね』
「そんな非現実的な」
 携帯電話を耳に、押し当て、私は軽く笑った。わたしの声は会社の廊下に硬質に響いていった。
「そうは言うけど、ココはもうおじいちゃんで、お母さんよりずっと年上なのよ? 将来、なんて言えるほど長く持たないわよ」
 ココは母が拾ってきた白い犬だった。拾った時には既にだいぶ年で、何かと体調が悪くなる。ココを心配する母に懇願され、会社を中退して動物病院に連れて行ったこともあった。その後上司に苦笑いされつつ口頭注意を受けたのだが。
「とにかく、今日は家から出ないでね。はっきり言うけど、お母さん、この頃物忘れ酷いんだから」
『ああ、とうとう、ねえ』
 他人事のように笑い、電話の向こうで母は小さなため息をつく。
『年を取るってのは嫌なものね』
「そうは言っても取るものは取るのよ。なくすものはなくすし、忘れるものは忘れるの」
『あなたはいつもそうね。きっぱりしてて、あたしの娘とは思えないわ』
「残念ながら、顔つきはお母さんに似てるらしいの、わたし。本当に残念だけど実の娘よ。――そんなことはどうでも良いの、用件は? ココのことだけ? もう電話切って良い?」
 苛々とした声がわんわんと廊下を伝っていく。すぐに済むと思っていたのが間違いだった。こんなに話すのだったら、会社の外に出ていたのに。廊下で親子喧嘩なんて晒しでしかない。
 今だって不思議そうにこちらを窺い見ながら後輩が通り過ぎていった。ああ、嫌なものだ。
『ああ、ごめんよ』
「本当よ。じゃ、今日は絶対に外に出ないでね」
『はいはい』
 何とも頼りない返事を聞いて、電話を切る。画面に表示された二十分の数字に舌打ちをしかけた。
「……ミーティングの前にプレゼンの確認したかったのに」
「あの、すみません」
 苛立った声でぶつぶつ文句を言っていると、声がどこからか聞こえてきた。聞き覚えのない、男性の若い声だ。そちらを見れば、慣れない様子で廊下を歩いてくる姿が見えた。
 どこか頼りなさげな男性だった。他の部署に来たインターンの学生だろうか。黒髪短髪、スーツから鞄から何まで全身に統一された黒。黒い帽子の下から微かに見えた顔には、その頼りなさとは反対に、初々しさが全く窺えない。
 学生にしては緊張感に欠けているし、会社員にしてはきっちりしすぎている。
「えっと……?」
「すみません、こちらに第二営業部があると伺って来たんですけど」
「ええ、ありますよ」
 第二営業部はわたしの部署だ。
 しかし何の用だろう。他会社と開発や協力を話し合う第一営業部や広報部とは違って、身内や下請け会社での開発、販売が主な対象であるこちらには、外部者があまり出入りしないのだが。
「どういう用件で?」
「とある方とお話をしたくて」
「呼んできましょうか。わたし、その部署の者なので」
 どうせ上司か同輩だろう、今大きな仕事を抱えているから。
 そう思ったわたしに、男性はにこりと笑いかけてきた。
「いえ」
 短く言い、帽子を外す。染めていない黒い髪が露わになった。
「ちょうどお会いできましたから」
「え?」
「内村綾子さん」
 突然名前を呼んできたその人は、人の良い笑みでわたしを見つめてくる。
――お呼びですね?」
「え……」
 胸に下がっている名札には名字しか書かれていない。この男とはもちろん初対面だ。気味が悪い。
 そう思ったのは、本当に一瞬だった。
「あなたは?」
 訊ねたわたしの声は落ち着いていて、それを発したわたしの胸の内も落ち着いていた。
「ああ、これは失礼」
 のんびりと笑い、彼は胸元から名刺入れを取り出す。
「私、時間屋という者です」
「じかんや?」
「『時間屋』あなたの時間買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
 無表情のままそう言い、彼はふつりと押し黙った。決まり文句だったらしい。それにしては、何を言いたいのかがわかりづらい文句だが。
「まあ簡単に言えば、時間を商品として扱っている者ですよ」
 照れている様子もふざけている様子もなく、名刺を差し出してくる。手のひらに収まるサイズのそれを受け取り、ざっと眺めた。白い紙に、時間屋、という三文字しか書かれていない。名前らしき字も、住所らしき羅列も、何も書かれていない。色鮮やかな柄も全くなかった。
 こんなにシンプルな名刺は初めてだ。
「……それで? うちに何の用ですか? 上の者を呼んだ方が良いですよね」
「ああ、いや。あなた個人にお話が」
「わたし?」
「ええ」
 にこりと笑い、時間屋は帽子を再び被る。
「あなたに時間をお売りしようかと思いまして」
「え?」
 また奇妙なことを言うものだ。
 しかしなぜか遊ばれているような雰囲気も、騙されているような感覚も、この時のわたしにはなかった。馬鹿らしいほどに、わたしはこの「時間屋」という人物を信じ切り、まともに相手をしていたのだ。
 後になって考えてみると、とても不注意だったと思う。この世の中、様々な詐欺師がいるというのに。
 時間を売る、などという不可思議なことをさらりと言い、時間屋は真っ直ぐな黒い目をわたしに向けてくる。
「お時間、足りないのでは?」
「そんなのいつもですよ。いつも期限に追われてて」
「お仕事のお話ではなくて」
「じゃあなんですか」
 少し苛立ったわたしの声に、彼は気を害した様子もなくにっこりと笑った。
「ご家族のお話です」
 時間屋の言った単語に、思わず眉をひそめる。
「……家族?」
「ご家族の方と、あまりお時間を過ごされていないようでしたので」
 何もかもを知っているような口ぶりで、彼は微笑む。家族となら先程のように電話を取っているし、同居しているせいもあって、そんなに時間には困っていない。
「……どういう意味ですか」
「そのままですよ。――時間がない、とおっしゃっていたではありませんか」
「だから、そんなのいつものことで」
「ちょうどこの会社に入社された時でしたか」
 少し楽しげに、時間屋が目を細める。廊下の窓辺から指してくる光が、その瞳に反射した。
「あの時はお伺いしてもお支払いの目処が立たないかと思ったので、今日、改めて参上した次第です」
「何を、言って……」
 口とは別に、脳裏には懐かしい記憶が引きずり出される。
 ああ、そうだ。
 大学を卒業後、会社に入社したばかりの、あの時。
 春らしく暖かい日差しの元、アスファルトが微かに熱を放っていたあの日。
 入社してしばらくした時、仕事中に初めて電話がかかってきたあの日だ。
 仕事中の電話に戸惑って、オフィス内で電話に出てしまい、当時の上司にこっぴどく怒られたのだった。
「あの時……」
 ――わたし、時間ないから。ごめん、諦めてよ。
「あの、時……」
 確か、あの時は。
「内村さん」
 スッと片腕を広げ、時間屋が微笑みを向けてくる。それはとても優しげで、嬉しげで。
 本当に、何もかもを知っているようだった。
「……時間屋さん」
 改めてそう呼ぶと、何だか奇妙な感じがした。時計屋ともお客さんとも違う響き。普段言ったことのない、初めて発した言葉だ。
 大人になってもまだ、知らない言葉があったなんて。
「……詳しく、お話をお願いできますか」
「もちろん」
 時間屋がにっこりと笑みを浮かべる。
――交渉成立、ですね」

***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei