時間屋
8. 鳴かぬ蛍が身を焦がす (2/2)
都子のバイト先は居酒屋で、学生が多く集まる。絶えない客に、絶えない注文。授業終わりでへとへとになりつつも、いらっしゃいませからご注文をお伺いします、こちらが云々、あちらが云々、そしてありがとうございました、と声を上げて客をさばいていた都子に、交代の女性がぽんと肩を叩く。
「都子ちゃん、上がって良いよー」
「はい! じゃあお願いします!」
「おっけー。おつ!」
お疲れ、という意味の言葉を言って、交代の女性は客に注文を取りに行った。ほっと息をつき、急いで奥のスタッフルームへ行く。そこに荷物一式を置いていて、着替えはその奥の更衣室ですることができた。
喧噪から離れた場所にあるスタッフルームのドアのノブに手をかける。バイト中とは違って静かだった。キイ、とドアが開くかすかな音さえ耳に届く。あの喧噪が嘘みたいだと都子は思った。あそこでは、怒鳴るように声を上げないとスタッフ同士の会話がままならない。
そんなことを思いながらドアを開いた瞬間、都子はぴたりと固まった。
「え……」
驚く都子の視線を受け、スタッフルームにいた男性は都子に笑いかける。
「あ、都子ちゃん」
「え、え、今日シフト……」
「あ、仕事しに来たんじゃないんだ。ちょっと店長に用があって」
「そ、そうなんですか、お疲れさまです……!」
爽やかな笑顔を向けてくれた年上の男性に、都子はどもりながらも頭を下げる。彼が例の、近々バイトを辞めるという、都子の憧れの人だった。染めた髪は綺麗にセットされ、整った顔立ちはこの居酒屋のスタッフの中でもイケメンだと噂されている。細身にして陸上部というスペック、そしてなかなか頭がよいときたら、誰もが目をハートにしてしまうだろう。
「あ、あの」
「うん?」
「こないだ、誕生日だったんですよね? おめでとうございます!」
「ありがとー」
にっこりと笑うその人に、都子は次の言葉が出なくなる。
――瀬田、三十秒で終わらせてな。
ふと思い出したのは、沢田の言葉。
三十秒っていつからだろう。もうカウントダウンされてるのだろうか。
だとしたら、時間が本当に、ない。
「じゃあそろそろ帰るかな。用事済んだし」
そう言ってスタッフルームから出ようとしたその人に、都子は声を張り上げる。
「あ、あのっ!」
「ん?」
急いで自分のロッカーから袋を取り出した。いつその時が来ても良いように、と毎日肌身離さず持っていたが、まさかシフトが一緒の日以外の時に渡すことになるとは。
袋のしわをわたわたとのばし、都子はそれをずいっと差し出した。恥ずかしさに顔を俯かせる。
「あの、これ、誕生日プレゼントです!」
「え、良いの?」
「も、もし良ければ……!」
「本当? ありがと!」
すんなりと喜び、その人は都子の手から袋を取っていく。手に持っていたものがなくなった時、都子はほっとした。そして、緊迫していた。
「あ、あの!」
何も考えずに、声を出す。
「わ、たしっ!」
――ピピッ!
電子音が聞こえたのはその時だ。
その人はその音に反応して、スマホを取り出す。そして画面を確認し、ああ、と声を漏らした。
「亜紀か」
「え……」
「ったく、用事があるから遅れるって言ったのになあ。せっかちなんだから」
そう言うその人の顔は、どことなく嬉しげで。その表情に、都子は全てを知る。
ああ、そうか。
都子は心のどこかで思った。
こんなに素敵な人に、彼女がいないわけ、ないじゃないか。
***
「――で、何も言わんで店から出てきた、って?」
少し怒りぎみの沢田の声に、ブランコを揺らすのを止めて、都子は頷いた。
「……うん」
「あほやなあ」
ぐでん、とブランコの向かいのベンチに寄りかかり、沢田がぼやく。それを見つつ、都子はまた腰掛けているブランコを少しだけ漕いだ。
人のいない公園は、落葉した木の幹の色もあって、寒々としている。突如身を縮め、沢田はマフラーで鼻まで覆った。
「さむっ。……ったく、おれの三万が」
「だって、あれはどう考えても彼女だったし」
「でも訊いとらんのやろ?」
「……うん」
「じゃあわからんよ、本当に彼女だったかは」
「……訊けないよ」
都子は声を落として項垂れた。沢田がベンチから立ち上がり、都子の元へと歩いてくる。
「ま、頑張ったな、瀬田にしては」
ぽん、と頭に手のひらを置かれた。彼は時々こういうことをする。まるで自分の妹のように、優しく手を乗せるのだ。いつもは子供扱いされているようで、生意気だと文句を言った。今はただ、その手のぬくもりを受け入れる。
いつものように抗う気力はない。
――キーンコーンカーンコーン。
近くの公民館からチャイムが聞こえてきた。午後五時を知らせるそれは、何重にもなって響いていく。やかましいほどの、しかしなんだか懐かしい音だ。
最後の音が鳴って、静かな空気へと消えていく。その余韻が消えないうちに、沢田の声はかろうじて聞こえてきた。
「……なあ、瀬田」
「うん」
手のひらを離し、沢田はしゃがみこんだ。チャイムの余韻も消えて再び静かになった公園の中、ブランコに座った都子と目の高さを合わせる。
「おれ、瀬田のこと好きやで」
沢田は真っ直ぐに都子を見つめて、そう言った。
「……は?」
「好きやって。けど、言えんかった。瀬田が嬉しそうにバイト先の人の話してるから」
真面目な顔をして、彼は言う。
ああ、と都子は思った。
「瀬田には悪いけど、今安心してる。本当は、瀬田の思いが叶えばって思いたかったんけど、なかなかそうも上手くいかんのやな、ちょー妬んどった」
今の彼の表情は、あの時と同じ。いつもと同じ笑顔、声。けれど。
「もし瀬田の恋が叶ったら、諦めようって思ってた。けど、もうええよな」
何か大きな忘れ物をしたかのような不安に、都子の胸が揺れる。不安、ではなかったのだ。これは――予感だ。
何となく、わかっていた。沢田の思いを。けれど気付かなかった。気付こうとしなかったのかもしれない。沢田が隠しているものに、耐えているものに、気付いてはいけないと。
気付いてしまったら、今耐えている沢田に悪い気がして。だって、都子は。
「瀬田」
沢田が都子を呼ぶ。都子はその眼差しから目を逸らした。
「……ごめん」
その言葉に、沢田はへらりと笑う。
「まあ、そうやろうな」
「違くて、その、ね、考えてなくて、だから、今すぐには、答えは出せない、よ」
「おれを恋愛対象にしてなかったって?」
「そうだからあの人の話をいっぱいしたんじゃん」
「せやな」
いやにあっさりと、沢田は頷く。
彼は、どんな思いで時間屋に三万円を渡したんだろう。そう思い、都子は唇を噛んだ。好きな人に、好きな人がいる。それはとても苦しいことだろうに、でも彼は。
「三万、無駄じゃなかったな」
立ち上がり、沢田はからりと笑った。
「おかげでおれも話せたし」
「……ありがとう」
都子は小さく呟いた。風に紛れそうなその声は、しかし、沢田には届いたようで、うん、と小さい声が返ってきた。
「ありがとう」
三十秒。その時間のおかげで、わたしはプレゼントを渡せたから。そして、沢田と話せたから。
「ありがとっ……!」
「はいはい、もうええから。泣きな」
「泣かないしっ……!」
「はいはい。ティッシュ買ってきたろか」
「うるさいっ」
「はいはい」
ず、と鼻をすすれば、沢田が得意げな様子でからかってくる。それにいつものように言い返し、都子はまた鼻をすすった。
「寒いだけだし」
「そっか。そいや寒いなあ。まだ五時なんに」
沢田が公園の時計を見上げる。滑り台付きの大きな遊具についた時計は、五時からちょうど一分過ぎを指していた。
「……あれ?」
呟き、都子はふと思う。
チャイムが鳴り止むまで三十秒はかかる。沢田が思いを伝えてきたのは、チャイムが鳴り終わってから。ということは。
――一秒で変わる運命があるんです、三十秒もあれば、思いは伝えられますよ。
「……時間屋さん、もしかして……」
「どうしたん?」
沢田が不思議そうな顔をして都子に訊ねてくる。都子はすぐに首を横に振った。
「何でもない」
冷たい風が少しだけ吹いた。寒い、と沢田は呟き、はよ帰ろう、と都子に笑う。それに笑みを返し、都子はブランコから立ち上がった。
解説
2014年11月22日作成
珍しく恋愛ものにチャレンジした作品。そして珍しく時間屋さんのいたずら心というか、お節介が見えるお話。彼が与えた三十秒はバイト先の三十秒だったのか公園での三十秒だったのか両方だったのか…その辺はご想像にお任せします。
時間屋さんのタイトルって書き終えてから良いもの探すんですけど、毎度毎度大変なんですよね。第一話を「時は金なり」にしたは良いけど(その言葉から生まれた作品だったので)、二話目以降も慣用句にしようって決めたのが運の尽きだった。慣用句からお話を書けば良いんですけど、時間屋さんって「こういう場面設定の時に時間屋さんが登場したら、どんな風に未来が変わるか」を考えて作るので、なかなかそう上手く書き出せないのです。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei