短編集
01. しののめを見ゆ (2/3)


 一度斜面を登り始めれば不思議と後ろを振り返る気は起きなくなった。両親の布団への恋しさがすうっと消えて、ただひたすらに山の中へと気持ちが吸い込まれていく。ああ、やっぱりおいらはこの山に来るべきだったんだ、と気持ちが落ち着いていく。
 真っ黒だと思っていた暗闇は意外にも真っ黒ではなく、木々の輪郭や地面の色を見分けられるほどには明るかった。目が暗さに慣れたのかもしれないし、空にある月が思ったより明るいのかもしれない。元々夜目が効く体質だったのかもしれないな、と思い至って、平太は少し嬉しくなった。
 おいらは今、山に入っている。見上げ続けた山に入っている。龍神様の山に、おいらの故郷に。
 故郷。
 家の中よりも、畑よりも、友達の家よりも、どこよりも心地良くて嬉しくなる場所。それに徐々に、確実に、近付いているという確信。あれほど怖かった山が、木々が、どれもこれも平太を歓迎してくれている気がする。
 嬉しかった。
 帰ってきたのだと、歓声を上げたくなった。
 けれどその気持ちは突然消え失せた。ザ、と平太の近くから草が音を立てたのだ。何かが草を掻き分け踏み潰しこちらに近付いている音だった。
 熊か。
 ぞ、と平太は立ちすくんだ。
 一応、腰に小さな鉈を提げてきた。けれどそんなもので熊に立ち向かえるわけもない。熊は大人しいが凶悪だ、敵とみなされれば人間なんてあっという間に殺してしまう。
 殺されてしまう。
「……お」
 お父、と平太は言いかけた。お母、と心の中で叫んだ。怖い、怖いよ。おいらを追ってきておくれ。おいらを家に連れ帰っておくれ。熊からおいらを守っておくれ。おいら、死にたくない。
 死にたくないよ。
 それは先程とは真逆の、頼りない思いだった。
 ああ、おいらはやっぱり死にたくない。龍神様に食われたくない。熊に殺されたくない。
 おいらは皆が怖がるこの山が好きだけれど、あの家での怖くない日々も好きだったんだ。例えおいらが二人の子供じゃないとしても、おいらが二人に抱きつけないとしても、やっぱりおいらはあの家の子供でいたいんだ。
 今更家を出たことを後悔した。あの家に帰りたいと生まれて初めて思った。山の中へと吸い込まれるように向いていた好意はなくなって、今はただ背中側へと一目散に駆け下りたい気持ちしかない。前屈みになって一歩を踏み出していたその体勢のまま、目を瞑る。目の前の暗闇が怖かった。今までこの暗闇の中を「明るい」と思いながら歩いてきたことが気のせいだったようにしか思えなかった。
 お父、お母。
 会いたい。助けて。
「……だあれ」
 それは両親の声ではなかった。
 目を開ける。変わらない暗闇の中で、そっと首を回す。
 足音のした方へと、顔を向ける。
「だあれ?」
 こてん、と首を傾げていたのは。
「……へ、び?」
 蛇だった。蛇だ。手足のない、細長い胴体だけの生き物。暗闇の中でもその輪郭は浮かび上がっている。白か、それに近い明るい色の蛇なのだろう。
 けれどおかしい。
「だあれ?」
 切り上がった口をぱくぱくと開けてそれは言った。――そうだ、喋っているのだ、この蛇は。
 今度は平太が口をぱくぱくさせる側だった。
「……え、あ、え」
「えあえ? ふふ、面白い鳴き声なんだねえ。あれ、でもおかしいな。今、ぼく、人間の鳴き声を真似してるはずなんだけど。もしかして、きみ、人間じゃないの? えあえ、って喋る生き物なんてこの近くにいたかなあ。もし良かったら言葉を教えてよ。頑張って喋れるようになるからさ」
「……あ、あ、え、あ」
「ふふふ、凄いでしょ。ぼく達は何でも聞こえるし何でもわかるんだ。きみ達はきっと猪のお喋りを聞けないんでしょう? もったいないよねえ」
「……しゃ、しゃべ、しゃ」
「あ、鳴き声が変わった。もしかして人間の言葉を喋ろうとしているの? 合わせてくれてありがとうねえ。人間の言葉はいろんなことを言い表せるから便利で、もし誰かと喋べるなら人間の言葉で喋りたいなあってずっと思ってたから」
 蛇は間延びした言い方でのんびりと言い、そして顎を外すほどに大口を開けて頭を左右に揺らした。どうやら笑っているらしかった。
 蛇が、喋って、笑っているだなんて。
 驚きすぎて自分の振る舞いを恥じらう気も起きず、呼吸を一つしてから平太はじっと蛇を見つめた。至って普通の蛇だ。鱗で覆われた全身は青白く、目は黄土色だ。胴は手で掴めるほどの太さで、長さは平太の身長より少しばかり短いくらいか。蛇には詳しくないが珍しい種ではないような気がする。とはいえ、喋れる蛇というだけで十分珍しいのだけれど。
 ――喋る、蛇。
 珍しいどころかいるはずもない。けれど平太はこれを夢だとは思わなかった。思えば、喋る蛇なんて何ら不思議なことではない。この山には親から伝え聞いてきた超常的な存在がいるではないか。
「……もしかして」
 そっと、問う。
「……龍神様……?」
 龍神様について、平太も両親も村人も詳しくはない。ならばこの蛇のようなものが龍神様である可能性は十分にあるし、もしくはその子供――話し方の幼さからその可能性も否定できない。
 もしかして、自分は龍神様を目の前にしているんじゃないだろうか。
 一気に気持ちが明るくなる。熊に怯えたことなどすぐに忘れ去る。
「リュウジンサマ? って何?」
 けれど蛇はあっさりと質問を返してきた。そうだよ、でもなく、違うよ、でもなく、龍神様というものについて訊ねてきた。
 龍神様を、知らないのか。
「……っ」
 息を吐く。吸う。そうしている間、ずっと蛇から目が離せなかった。雨にぬめった地面で転んで腰を打ち付けた時のように、平太は動けなくなっていた。今日の平太の気分は上がったり下がったりと忙しい。
「……この山にいる神様だよ。曇りの日や雨の日に大声で吠え立ててる……」
 あんなに大きな声なのに、同じ山にいて知らないなんてことがあるのか。まさかそんなことがあるわけもない。ないはずだ。この蛇が物知らずなだけだ。
「ふーん。稲妻のことじゃなくて?」
 蛇はくたりと首を大きく傾げた。わからない、と言いたげだ。けれど今は平太が首を傾げたい気分だった。
「いなずま?」
とも言うんだけど」
神鳴り……」
「うん、雷。ごおおって凄い音を立てる、空からの光。体感、天気が悪い時に鳴るんだよね。遠くで鳴っても聞こえてくるくらい大きな音なんだよ。近くだとピカッてしてすぐにドーンって鳴るからびっくりしちゃう。見たことないの? 空がピカッって光るんだけど」
 平太は首を横に振った。龍神様が吠える時は家に籠って山の方角へと頭を伏せて祈り続けるのだ、その時外がどうなっているかなんてさっぱりわからない。けれど、「神鳴り」というそれの特徴は平太の知る龍神様と似ている気がした。なら、きっとその「いなずま」というものが龍神様なのだろう。
「たぶん、そう」
 言い、そして平太は大きく頷いた。
「絶対そう。それが龍神様」
「でも、そのリュウジンサマってこの山に住んでるんでしょう? 稲妻はずーっと遠くで光ることもあるよ? ここ、山だからさ、遠くがよく見えるんだ」
「でも、あのお声は龍神様のものなんだ。お父もお母も村の人もみんなそう言ってる。この山には龍神様がいるって」
「そのリュウジンサマってどんな姿なの?」
「……知らない。誰も見たことないし、見れやしないし」
「じゃあこの山にいるってことを調べてあるわけじゃないんだね」
「そう、かも、だけど、でも」
 言いながら平太は両手を強く握り締めていた。爪が手のひらに食い込んでいる。痛みが手のひらから全身へと伝わってくる。豆の潰れた手で鍬を握った時のような痛みだった。けれどそれよりも重要な、感じ続けていなければいけない気がする痛みだった。
 龍神様は、いる。この山に、いる。だって自分は龍神様に食われ損ねた子供なのだ。龍神様が求めた子供なのだ。山を見上げるたびに龍神様と目が合っていたのだ。この山に、龍神様に、自分は親しみを感じてきたのだ。だから今、山に来た。
 龍神様に会いに来た。
 龍神様はいる。いるのだ。
 稲妻というものが何なのかは知らない。なぜこの蛇が龍神様を知らないのかわからない。それでも。
 ――気付きたくない。
「そっかあ」
 その場に立ち尽くしたまま黙り込む平太を横に、蛇は口をパクパクと動かした。
「きみ達にとってあの光と音は神様なんだねえ」
 よくわからない言葉だった。



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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei