短編集
3. クモ ノ イト (2/2)


 学校に着いて、生徒玄関で靴を履き替えて、教室へ向かう。その過程すらも決まりきっていて、つまり僕はわざわざ用のない他の教室に顔を出そうだとか、用のない職員室に行こうだとか、そんなことは一切考えもしないし実行しようとも思わないのだった。
 その日の授業の内容は覚えていない。けれどやることはいつもと同じだ。黒板と向き合う角度で格子状に並べられた席の一つに座り、机の天板の上に教科書とノートを開いて並べ、黒板に書かれていく文字を書き写していく。僕達は書き写すことを求められている。たまに「自分で考えてノートを作れ」だなんて言ってくる教師もいるけれど、僕にはその意味がよくわからない。板書をしようとメモを取ろうと結局それはペンを持って紙に字を書く行為でしかない。そうして脳に知識を蓄積して、テストに備える。今日が何曜日であろうとその行為自体はなくならない。
 ペンを持つ。狭い机の上に大きな教科書とノートを重ねながら広げる。
 毎日毎日繰り返して、そうして僕達は自分の都合に合う教科書とノートの置き方を見つけて、その適切な場所へ無意識に教科書とノートを置けるようになって、それが何の意味を持つのかも考えることなくノートへと文字を書き込んでいく。
 今日が何曜日であろうと、今が何時間目であろうと、僕達は教科書とノートと教師が違うだけの同じ時間を何度も繰り返している。
「なあ」
 石井が話しかけてきたのは昼休みだった。自分の席ではない隣の机に座って、僕の手元を見ながら石井はコンビニのパンをかじった。
「お前、いつも弁当なのな」
「母さんが作るから」
「良いねえ、羨ましい」
「そうかな」
 僕は弁当箱を見下ろした。毎日同じ入れ物に毎日同じ味のご飯が毎日同じ冷たさで詰め込まれている。おかずは毎日同じ卵焼きとウインナー。
「毎日同じだよ。飽きるんじゃないかな」
「弁当を作ってくれる親ってだけで羨ましいもんだって。まあ確かに、コンビニなら好きなものをその時の気分で選べるけど」
 石井はフレンチトーストの最後の一欠片を口に放り込んだ。昨日は確か、メンチカツバーガーだった気がする。その前はツナマヨおにぎり、その前はカツサンド。
 ――石井の昼食は、毎日違う。
「そうそう、そういやさ」
 石井が言う。
「今日の放課後、空いてる?」
「何で」
「帰りにハンバーガー食っていこうかと思って」
 石井の指が宙にMの一文字を描く。無論それは住宅街のどこにもない。通学路付近にはないジャンクフード店だ。そこに行くには通学路ではない道を歩く必要がある。
 通学路ではない道を。
 決まりきった、目を伏せていても歩ける一本道、それとは全く異なる右も左もわからない見知らぬ道を。
 放課後、用がないのなら真っ先に家に帰らなければいけない時間帯に、歩かなければならない。
「どうよ、たまには」
 僕は弁当箱を見つめた。詰め込まれていた定番の食材達は既に姿を消している。食べ終わっていたらしい。気付けば空腹ではなくなった腹の具合を確かめながら、僕は弁当箱を見つめ続けた。
 弁当箱のない昼食。行ったことのない道。それらを思う。想像する。ランチバックの代わりに持つ買い物袋の重さを、箸を使わずに食べられる食料というものを、指で裂くことのできる柔らかいビニル包装を。見慣れ切った家ではなく見慣れないジャンクフード店へと向かう放課後を。
 そこにはどんな光景があるのだろう。
 わからなかった。
 わからないと気付いた瞬間、弁当箱の四隅が直角であることにも気付いた。弁当箱は四角い。直方体だ。何度こうして家の外に持ち出しても、手が滑って落としたとしても、コンビニのパンやハンバーガーのように潰れることも中身が零れることもない。
 決まりきった形。崩れようも歪みようもない、長さの決まった平面で形作られた――今日がどんな日であろうと何も変わらない、僕の毎日。
 この弁当箱を壊せたら、僕は。
 石井の昼食のように。
「……僕は」
 僕は口を開いて、そして、

***

 三日程、テトはお母さんと妹のティーナと共に家の奥で過ごしました。三回おやすみなさいを言って、そうしてようやく外から金属のぶつかり合う音が聞こえてこなくなったのです。
 三日目の朝、お母さんと一緒に玄関前の木材と板をどかして玄関口に布を下げました。心地よい風が吹き込んできて、すき間だらけの木の壁を通ってはヒョウヒョウと陽気な口笛を鳴らしていきます。天気もとても良く、差し込んでくる日差しは明るくて、居間にまで太陽を持ち込んだかのようでした。家の中で洗濯物が干せそうです。
 減った食料と水を足すためにお母さんは妹を連れて街の広場へと出かけていきました。以前は隣街まで行っていたのでテトもついていきましたが、今は広場に来ているお役人様から水と食料を少しわけてもらうだけです。坂道も少しだけですし、小さな荷車一つあれば十分なのでした。
 お母さんとティーナを見送った後、一人になったテトは一人ぶらぶらと街を散歩することにしました。本当は駄目だと言われているのですが、最近何もかもを「駄目だ」と言われているのでつまらないのです。学校も駄目、お父さんやおじさんに会いに行くのも駄目、大声を出すのも駄目、おいかけっこも駄目。挙句友達と遊ぶことすら駄目だと言われてしまっては、「なら一人のお散歩なら良いじゃない」と思ってしまうのも無理はありません。なのでテトはお散歩をすることにしたのです。お母さんに怒られないよう、すぐに家に戻らなくてはいけませんが、この街のことをテトはよく知っています。ティーナを連れて荷車を押すお母さんがどのくらいの時間で家に帰ってくるのか、テトにはわかっていました。
 テトの家の周囲には、テトの家と同じように木の板を立てて部屋を作った家がたくさん並んでいます。隣街の建物は石でできた箱を重ねたようなものばかりで、とても頑丈そうなのですが、テトの街は皆こうして近くの森の木を使って作られた木の板を使っているのでした。たまに強い風で壁が吹き飛んでしまいますが、その時は近所の人の家にお世話になれば良いですし、火事になったとしても困らないように水や食料は石の壁の奥に保管してあります。テト達にはこれで十分なのです。
「テト!」
 石畳みの道を歩いていたら名前を呼ばれました。くるりと振り返れば、同じ年頃の男の子が走ってきています。
「ミュハ」
「久し振りだな! やっぱ奥に隠れてたわけ?」
「うん。そうしなさいってお母さんが」
「そうだよなあ。俺もそうしてた。今回は三日で済んで良かったぜ。前回は五日もの間ずっと王様の家来が歩いてたもんな」
 ミュハはそう言って大きな声で笑いました。晴れた青い空にミュハの笑い声が吸い込まれていきます。それを見ようとするかのように、テトはじっとミュハと空の間を見つめていました。大きな声は久し振りに聞いた気がします。うるさいなあと思っていた妹の泣き声すらも聞かなくなった今、ミュハの声は胸の中に冷たくて気持ち良い水をぱしゃっとかけてもらったかのようでした。
「ティーナは?」
「お母さんと一緒に水と食べ物をもらいに。最近、お母さんが近くにいないと泣きだしちゃうようになっちゃって。もう一緒に遊ぶのはできないかも」
 ミュハの太い眉ががっくりと下がります。ミュハはテトの妹をとても可愛がってくれていたのです。
「そうか……小さいけど、わかるものなんだな」
「何が?」
「この街のことさ。怖いものがうろついてるけど、本当に怖いのはそれじゃない」
 ミュハは何のことを言っているのでしょう。テトは首を傾げて、わからないという素振りをしました。するとミュハは腰をかがめて顔を寄せ、口元に手のひらを立てて囁いてきます。
「探してるんだよ、あいつらは」
「あいつら?」
「家来達だよ! 知らないのか? 噂。王様はこの街に隠れた悪い奴を探しているんだ。それでこうして、人の出入りをなくして、食料や水も配給制にして、あぶり出そうとしてる」
 悪い奴、とはどういう人のことなのでしょう。けれど王様が探しているのなら、それはきっと王様の命令を守らなかった人のことなのです。そんな悪い人がこの街のどこかにいる――なんて恐ろしいことでしょう。
「それ、本当?」
 テトも小さな声で聞き返します。ミュハは頷きました。頷いて、そして――ふと、顔から力を抜きました。笑顔もない、悲しみもない、残念そうな様子も困ったような様子も何もない顔がそこにあります。明るくて豪快なミュハらしくありません。怖くなって、テトは少しだけ体を後ろに引きました。
「ミュハ……?」
「テト」
 ミュハの声は低くて濁っていました。
――一緒に街の外に出ないか」
 それはどういう意味でしょう。いいえ、それよりもその言葉は、何よりも口にしてはいけないもののはずです。誰かが聞いていたら、今に王様の家来達を呼んで来てミュハを懲らしめてしまうはずなのです。
「外に行きたいんだ」
 ミュハは言いました。
「……好きな奴が、隣街にいる」
「そうなの?」
「まだ返事をもらってない。俺はそれを聞きに行かなきゃならない。いいや、それよりも俺は見張られてるっていうこの状況がむず痒くて我慢できない」
 むず痒い、という言葉にテトは思わず両腕を爪で掻きました。
 痒い。そう、痒いのです。あれも駄目、これも駄目。ずっと部屋に籠りきり。それが安全だとわかっています。そうしなければいけないのもわかっています。けれど痒いのです。爪で掻いて皮膚を破いてしまうくらい、腕が、足が、喉が、舌が、ありとあらゆる箇所が痒くて痒くてたまりません。ばたばたと両手両足を無茶苦茶に暴れさせて、もういっそ胴体から切り離して好き勝手な場所に飛ばしてしまいたいほどに、痒いのです。
 僕はもっと目一杯、好きなように遊びたい。
 行きたい場所へ行きたい。
 けれど、なぜ駄目なのかもよくわからないまま、金属が擦れ合う音に怯えて暗闇の中に引き籠らなくてはいけないのです。
 テトはミュハをじっと見つめました。ミュハの頭の上から後ろにかけて広がる青い空を見つめました。広い広い、綺麗な晴天です。きっと洗濯物も乾くでしょう。声を殺して泣いてばかりのティーナもきゃっきゃっと笑ってくれるでしょう。お母さんも嬉しそうな顔をしてくれるでしょう。お父さんも――目元を細めて、テトを手招きしてくれることでしょう。
 もう一度、あの日々に戻りたい。
「どうする」
 ミュハが尋ねてきます。
「……僕は」
 テトは、口を開いて、そして、

***

「やめておくよ」
 自分の声が賑やかな教室の中から聞こえてくる。

「やっぱり良いや」
 自分の声が晴れ渡った青空から聞こえてきます。

***

 石井は僕の顔をじっと見つめていた。顔にご飯粒でもついているのだろうか――そんな的外れな心配をする。そのくらい的外れなことを考えないと余計なことを言ってしまいそうだった。
「……ふーん、あっそ」
 石井はあっさりとそう言った。僕を引き留めることなく、再度誘ってくることなく。
「んじゃ仕方ないわな。他の奴誘うわ」
 そう言って、残っていたもう一つのパンのビニル袋を開けた。

***

 ミュハの顔は変わりませんでした。笑顔も悔し顔も、何もないその顔のまま、ミュハは一つ頷きました。
「そうか」
 それ以上誘ってくるでもなく、理由を聞いてくるでもなく。
「わかった。悪いな、変な話して」
 くるりと背を向けて、歩き出します。
「じゃあ一人で頑張るよ。できれば、誰にも秘密にしておいて欲しいんだけど」
「……それは、もちろん」
「そっか。それは嬉しいね」
 背を向けていたミュハはそこでようやく笑ったようでした。けれど、テトにはその顔は一切見えないままで。
 じゃあな、と片手を上げて去っていったミュハの背中を、見送ることしかできませんでした。

***

 ――本当は。
 一緒に寄り道してみたかった。

 ――本当は。
 一緒にこの場所を出てみたかった。

 けれどできないのだ。いままでずっとこうしてきた。これが一番良いことだと思ってきた。親の言うことを聞いて、親が渡してくるものを文句なく受け取って、教師の言うことを素直に聞いて、実践して、それらだけで毎日を充実させようと努めて。見慣れ切って吐き気すらある弁当箱を毎日持ち運んで、その中に詰め込まれた食べ飽きた食品を気付かぬうちに食べ切って、学校が終わったらすぐに家へと帰って机に向かって、その繰り返しをし続けることしか知らなかった。
 知らなかったのだ。寄り道だなんで、通学路ではない道を歩くだなんて、放課後にハンバーガーだなんて。僕の昼食は常に弁当箱で、常に角の直角な直方体なのだ。

 そう、できないのです。もうこのつまらない日々に耐え切れるようになってしまいました。お父さんには会いたいけれど、お母さんとティーナを置いていくわけにはいきません。それに今の生活は安全なのです。外へ行こうとしたら、王様に叱られて懲らしめられてしまいます。何人かそういう人がいたけれど、誰も帰ってきていないのです。あの大きな大きな、大天使様が杖を落としたかのような大きな音――テトはあの音が鉄砲の音だと気付いているのです。
 気付いてしまったのです。王様の家来達は王様の命令に逆らう人を殺しているのだと。ファーマのお父さんも死んでしまったのだと。そしていつか、きっと、ミュハも殺されてしまうのだと。ミュハも知っているのでしょう。だから、いつものように「またな」と言わなかったのでしょう。テトののんびりとした穏やかで狭苦しい日々は、ミュハにはもう訪れないのです。それをわかっていて、それでもテトはミュハを止めることも「二人で行こう」と言うこともできなかったのです。

 放課後、僕は一人きりの通学路を歩いていた。
 ミュハと別れた後、テトは一人きりで街を歩いていました。

 顔を上向けて、そうしてようやく
 空がめらめらと燃える炎の色になっていることに気付いて、
 僕は、
 テトは、
 蜘蛛の糸が失われた空を見上げて、
 綺麗な青を忘れてしまった空を見上げて、

 そし

   て、


――ぁぁ、……、ぁ……――


 声にならない声で、
 どちらからともなく、
 

  叫

     






解説

2021年02月22日作成

 pixiv公式コンテストに出したもの。『「決壊SALVATION」小説コンテスト』。世界観が先にあると書きやすい性分なので参加してみました。
 楽曲から物語を書くやつだったんですけど、楽曲のテーマが「二人の少年」「逃げられない」「助けてと叫ぶ」みたいな感じだったのでこうしてみました。二つのお話を同時進行で書いて、最後は同じ文面になる、という手法は以前仲良くさせていただいたフォロワーさんが使っていた手法でいつか真似してみたかったので楽しかったですね。なおpixivの小説機能にはフォントを変えるとかフォント色を変えるとかの機能がなかったのでちょっとわかりにくい作品になってしまった。やっぱりpixiv小説機能嫌いです(直球)。
 こうしてフォント変更というビジュアルを表現に利用する作品を書いてみるのも面白いですね。他の手法を思いついたらやってみたいです。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei