あらすじ
公立中学に通う「僕」は同じことを繰り返す日々を送っていた。それはまるで、毎日渡される中身の同じ弁当箱のよう。けれど友人から放課後の寄り道を提案される。――異なる世界、テトは母と妹と共に国王の兵士に怯えながら過ごしていた。街は閉鎖され、外に出ることは許されない。そんな時友人から一緒に街を出ようと誘いを受ける。揺れる二つの心、けれど行き着く答えは同じだった。「今すぐに連れ出して」と願いながらも踏み出せないまま、二人は今後も同じ毎日を繰り返す。
地獄には、稀に蜘蛛の糸が垂れ下がってくるのだという。
僕はカーテンを開けて窓の外を見上げた。けれどそこにあるのはいつも通りの変わり映えしない青空で、蜘蛛の糸などどこにもない。きらきらと輝く救いの糸などどこにもありはしない。
朝を知らせる母の声が階段下から聞こえてくる。適当に声を上げて僕はカーテンを閉めた。部屋の中が再び暗くなる。けれど朝日の輝きを防ぎきれない布地がうっすらと透け、狭い一部屋の中に明暗を浮かび上がらせていた。掛け布団の畳まれたベッド、辞書の並んだ勉強机、日に焼けた幼児向け絵画コンクールの入賞絵。そばに置かれた鞄の中には見慣れ切った教科書とノートが詰め込まれている。
嘔吐物のように鞄から落ちかけていた単語帳を詰め込み直す。石を手に提げているかのような感覚のまま鞄を持ち、部屋を出て階段を下りた。
「おはよう」
いつも通りの挨拶、いつも通りの声音。母が「おはよう」と返してくる。父が「おはよう」と返してくる。今日が何年何月何日だったかもわからなくなるほど平凡に繰り返されるやり取り。朝食はいつだって白ご飯と味噌汁、そして目玉焼きとベーコン。
「ごちそうさま」
いただきます、をいつ言ったかも覚えていないけれど、テーブルに座った僕の前には空になった皿が並んでいる。それらを積み上げ、そうして台所へと持っていく。いつも通りの動作は自分が機械人形だと錯覚するほどに簡素で、どう足掻いても間違いようがない。
「恵太。はい、お弁当」
「ん」
昼食用の弁当が入ったランチバックを受け取る。鞄を肩にかけて、手にランチバックを持って、僕は玄関へと向かう。靴は青のラインが入ったシューズ。靴紐をリボン結びで結び、そうして荷物を持って外へと出る。玄関の開け方も、閉じ方も、玄関から見た目の前の住宅街の景色も道路の歩き方も側溝の長さも幅も、何もかもわかっている。
繰り返される映画のフィルム。色褪せることのない永遠の記録。
僕達の中学校は住宅街に隣接する山の中腹にある。住宅街から住宅街へ、横断を繰り返すようにして僕達は学校へと向かうのだった。けれど誰もが同じ通学路を通るわけではない。自分の家から一番距離が近い道、それでいて人気があり夜間に街灯が灯る道、それを選んで各々学校へと向かう。僕にとっての通学路はただ一つだけれど、他の人にとっての通学路は僕のそれとは違っていて、学校が把握している通学路の数は数えるには骨が折れるほどあるのだ。
僕の通学路は説明するには要素が少ない。普通の住宅街、車がぎりぎりすれ違えるようなすれ違えないような、その程度のでこぼこの舗装がされている道があるだけの。これ以上どう表現すれば良いのだろう。道路に枝がはみ出て邪魔な柿の木、春にならないとそれが何だったのか全く思い出せなくなる細い梅の木、そういった寂れた植物がひょろりと庭の隅に生えている家が点々と道沿いに並んでいる、そういう住宅街だ。けれどこれらの要素も改めて眺めてようやく目に入る程度のものだった。つまりは特徴がないし、それを特徴だとは僕達も思っていない。けれど通学路の説明ができなくとも道に迷うことはない。目の前が映らなくなるほどの考え事をしていても、単語帳を開きながら歩いていても、足に目がついているかのように曲がり角で曲がり抉れた舗装を跨ぎ越すことができるのだから。
「おはよ」
どん、と体当たりのように肩へ手を置いて石井が声をかけてくる。足を止めることなく「おはよう」と返したのは条件反射だ、何も考えていない。「おはよう」と言われたら「おはよう」と返す、僕達はそう学んでいるしそれ以上の奇を衒(てら)った応答をしようとも思わない。
僕達は何を考える必要もなく日々を生きていける。
今日が何年何月何日であろうとも。
例え地球上のカレンダーを神様が弄って二月三十日にしたとしても、僕達は挨拶を交わせるし学校へ辿り着ける。
「なあ、今日の数学の宿題見せてや」
「また?」
「もはや『いつも通り』だろ?」
石井が笑う。このやり取りも聞き慣れている。いつも通り、変わり映えのない日々。今日が九月三十一日だろうと、十月三十一日だろうと、僕達はこうしていくのだろう。
石井が横でテレビ番組の話をし始める。その番組を見ていない僕はありきたりな相槌をランダムに選んで返していく。へえ、うん、そう、それで、はあ、ふーん。
今日が何年何月何日だとしても、テレビ局がどんな番組を放映していようとも、僕はそう呟きながら学校へと向かうのだ。
***
大きな大きな物音で、テトは昼寝から目を覚ましました。まるで空の上に住まう大天使様が手を滑らせて杖を落としたかのような音です。地面が揺れましたし、何より空気が水がめの中の水と一緒にたぷたぷと揺れています。まるで波立つ水桶の中で息継ぎをするように、テトは床から体を起こして首を伸ばし、周囲を見渡しました。木の板を立てて石壁の角に作った家はすき間だらけですが、壊れている箇所はありません。どうやら遠い場所での音だったようです。
「テト」
天井から垂らした布を掻き分けてお母さんが顔を覗かせてきます。その顔は眠れないテトをあやす時とは違って、まるで悪いことをしたテトを怒ろうとする直前のようでした。びくりとテトは身を縮めて「今日僕は何をしたのだっけ」と一生懸命考えます。
「テト、家の奥に行ってなさい」
お母さんが怖い顔のまま言います。そして腕に抱えていた妹のティーナをテトへと押し付けるように渡して、自分は部屋の奥にしまっていた木の板を引っ張り出して玄関先へと何枚を重ねて立てかけ、最後に太くて重い木材を置きました。
それは外にいる誰かが家の中に入ってこないようにするものでした。しばらくテト達も外に出られなくなりますが、干し肉も水もまだ貯えがあります。当分の間は大丈夫でしょう。
「お母さん」
テトは小さな妹をお母さんに渡しながら尋ねました。
「またお叱りを受けてしまったの?」
「そうだよテト。今度は、第三十八集落の大工さんだって」
「それって……ファーマのお父さん……」
テトの言葉にお母さんは何も言わなくなりました。数呼吸分待った後、大きく息を掃き出しながら肩を落とします。
「残念だけど……規則は規則だからね、守らないんじゃあしょうがない」
「でもファーマのお父さんは隣街に忘れ物をしたって、ずっと言ってて」
「それでも駄目なんだよ。私達はこの街の外に出てはいけない。そう決まったんだ」
「なぜ?」
テトは首を傾げました。
「隣街には友達もいるのに。学校もあるし、テルおじさんだっているんでしょう? もうずっと会ってないよ。それにお父さんも。ねえ、僕そろそろ会いたいよ。かけっこだってしたいし、歌も歌いたい。あのねお母さん、ちょっと前から喉がもぞもぞしているの。お空に向かって歌いたい、叫びたい、笑いたいって言ってるの」
「テト」
「少しだけでも駄目なの? また何日も家に隠れていなきゃいけないの? どうして?」
「そう決まったんだよ」
お母さんは言いました。
「私達の王様がそう決めたんだ。神様の子孫の命令だ、私達は従わなきゃいけない。間違っても外に行こうとしないでおくれよ、テト」
テトは王様に会ったことがありません。王様がどんな人なのかも詳しくは学んでいません。それを学ぶ前に、学校に行けなくなってしまったのです。王様はなぜテト達を街に閉じ込めてしまったのでしょう。テトにはわかりませんでした。近所の友達にも最近会えていませんから話を聞くこともできませんし、何かを知っていそうなお母さんは何一つ教えてくれません。「どうして?」を繰り返して聞こうかと思った時もありましたが、お母さんが悲しそうな顔をするので結局そこまでのことはできずにいるのでした。
「ねえ、テト」
お母さんが頭を撫でてきます。ちょっと背伸びをしながら、テトはその優しいお母さんの手の動きを感じていました。
「どうか、お前はどこにも行かないでおくれ。お前はお母さんを悲しませないでおくれ」
――まるで誰かがお母さんを置いていって、お母さんを悲しませたみたい。
そう思いましたが尋ねはしませんでした。きっとお母さんは教えてくれないのでしょうから。
木の板の壁の隙間から漏れてくる日光が、明かりのない部屋の中に薄っすらと色を塗ってくれます。石の壁と同じ色の地面、色鮮やかな糸で編み込まれた敷物、食料の入った編み籠。お母さんの腕の中で、幼い妹はすやすやと眠っています。
テトはそっと目を閉じました。
家の外で、大勢が歩いている足音が聞こえてきます。金属をぶつけ合わせたような音は王様の家来達が身に着けている鎧が立てている音です。今日も街を練り歩いて、街から出ようとしている人がいないか見張っているのでしょう。先程の大きな音も彼らによるものだったのかもしれません。
最初の頃は怖くて仕方がなかったその音も、今では食べ物を探す鳥の鳴き声のようなものでした。鳥の声が聞こえてきた時は窓に鳥避けの布を下げるのがテト達の常識です。それと同じで、あの家来達の音が聞こえてきた時は部屋の入口を閉じて、部屋の奥に隠れれば良いのです。
これがテトの毎日でした。この日々が始まってから今日で何日目になるのでしょう。数えることもできなくなるほどの日数が経っていました。
けれど数えなくても良いものだとテトは思うのです。きっとこれからも、こうして時々家の奥に隠れる日々が続いていくのでしょうから。
***