短編集
2. 冬の森のファニーニャ (4/4)


 一本の大きな木がどっかりと立ちすくんでいます。まるで門番のように堂々と、ファニーニャたちを問い詰めるかのように立っているその木は、やはり葉をつけておらず、けれど寂しさを感じさせない太い幹を天高くまで伸ばしているのでした。
 その大きな木があるとはいえ、いたって普通の光景でした。三人で歩いてきた森の風景と変わりない、木がまばらに生えた雪野原が、三人の前に、横に、後ろに、広がっています。
 けれど一ヶ所だけ――一つだけ、三人の目を釘付けにするものがありました。
「……氷?」
 大きな木の根本に、氷が一つありました。一つ、というのは、その氷がファニーニャの拳くらいの大きさだったからです。それは縦に大きく伸びていました。地面に刺さっている側は雪に埋もれ、空に向いた側は大木を真似たかのように四方へ枝分かれし広げられています。太陽の光を受けて、その表面はつやつやと輝いていました。氷だとわかったのは、つやつやと光っている様子が雪溶けの頃に見る雪の様子と同じだったからです。今日はあたたかいので、溶けてきているのでしょう。
「……お花だ」
 リアーフィがぽつりとつぶやいたのを聞いて、ファニーニャは思わず納得してしまいました。確かに花に見えます。けれどおそらく、これは木の枝のどこかにできたつららでしょう。枝から垂れ下がっていたものが、何かをきっかけに地面に落ちて、柔らかく厚みのある雪の中に直立してしまったのです。先端が花びらのように見えるのは、枝の表面にはりついていたつららの根本の薄い氷がそのまま残っているからなのでしょう。
「お花だあ……氷のお花だあ……!」
 アリアーナが顔を輝かせます。リアーフィもまた、まるで見逃すまいとしているかのように瞬きをこらえて氷を見つめています。ファニーニャは一人、二人に合わせて頷くのです。
「……そうだね」
 ファニーニャにはただのつららにしか見えません。けれど。
「きれいなお花だね」
 幼い二人にとっては、これは美しい花なのです。
「……冬の、花だ」
 悔しさも寂しさも妬みもこらえて。
「見れて、よかったね」
 ファニーニャはふたりに笑いかけます。
「うん!」
 そしてやはりふたりはファニーニャの思いに気付かない様子で笑い返し――ふと目を丸くしました。
「あっ」
 ふたりそろってつららの方を見ます。
「歌が」
「歌?」
「うん。お歌が、あの花からも! ファニーニャ、リアーフィ、お花が歌ってる!」
 アリアーナが喜びを表現するかのように飛び跳ねながら、つららを指差しました。大木の枝の上の雪が太陽のあたたかさで溶けたのでしょう、その指の先で、落ちてきた水滴がつららへとぶつかり――ぽたん――そしてぶつかってきた水滴が雪の上へと落ち――ぽたん、ぽたたん――音が重なります。微かで、聞こうと思わなければ聞こえないほど小さな音でした。枝から雪が落ちる音と同じ、大したことのない落下音でした。けれどアリアーナは嬉しそうな声を上げます。
「お花のお歌だ!」
 花の歌。
 なんてすてきな言葉だろう。
「……そうなんだ」
 ファニーニャは呟きます。水滴が落ちる音を歌だとは思えませんでした。いいえ、そう思っていた時期が自分にもあったかもしれません。けれど今のファニーニャには、目の前の光景は冬のひとときの一部、溶けかけた雪による現象の一つでしかないのでした。それよりも、つららが地面に落ちているということはこの大木の枝には他にも同じくらいのつららが垂れ下がっているかもしれない、頭の上に落ちてきたら危ないから二人を遠ざけなきゃ、つららもだけれど溶けた雪がどっさりと落ちてくるかもしれない、雪に生き埋めになってしまったらファニーニャ一人では助け出せない、そんなことばかり考えてしまいます。
 ファニーニャにとってつららは危険なものです。垂れてくる水滴も、危険なものです。大切なきょうだいを守るために、姉として必要な考え方です。けれどそれは、ファニーニャが子供ではなくなった証拠でもあるのです。
「……いいなあ」
 下唇をなめると、血の味が下に染みてきました。唇が裂けたのでしょうか。ぴりっと痛みが走ります。
「わたしには、聞こえないや」
 言ってしまうのは簡単でした。けれど、言ってしまった言葉が、ファニーニャ自身の耳に入ってきて。
 ――ああ。
 わたしはもう、子供じゃいられない。
 諦めなきゃいけないんだ。
「ファニーニャ……?」
「ファニーニャは聞こえないの?」
 弟妹がこちらを不思議そうに見上げてきます。ファニーニャは、二人を悲しませないようにと笑って頷きました。
「うん。何も、聞こえないや」
「ずっと?」
「ずっと」
「ずっと聞こえなかったの?」
「ずっと聞こえなかった。……たぶん、これからも、ずっと」
 これから先、何も聞けなくなっていくのでしょう。目の前の花を氷としか見れなくなるのでしょう。二人が「冬の花だ」とはしゃいでいるところへ「危ないから下がって」と腕を引っ張るような、そんな風になるのでしょう。それが大人なのだとファニーニャはわかっていました。現実を現実として認知することは、大人になって大切な家族を作った後、大切なものを守るために必要なことだから。見えないものに気を取られていては、大切なものに迫ってくる危険に気付けなくなるから。
 だからファニーニャにはもう、氷の花は見えないのです。花の歌は聞こえないのです。
 幻想は、どこにもないのです。
「何だ、そうなの」
 ふいっとリアーフィがつららの方を向きます。のんびり屋なリアーフィらしい、のんびりとした様子でした。もう寝る時間だよ、とお母さんに言われた時のような、素直に納得した様子です。何に納得したのでしょう。不思議に思っているファニーニャの目の前で、リアーフィは何かを口ずさみ始めました。
「ら、ら、ららら……」
「……リアーフィ?」
 それは歌詞のない歌でした。子守歌を思わせる、ひとつひとつの音が森の中に静かに響き渡っていくかのような、静かな音の連なり。泣いている人をなぐさめるようにも笑っている人に寄り添うようにも聞こえる、ぽろぽろとこぼれていく音。楽器が奏でるような、けれどどの楽器よりもささやかでおとなしくて、静かで儚くて、けれど確かに聞こえてくる音。
 確かにすてきな音の連なりですが、突然どうしたのでしょう。目を丸くするファニーニャの横で、アリアーナがぴょんと跳ねました。
「さすがリアーフィ!」
 ぽん、と手のひらを合わせてアリアーナが笑います。そして、ファニーニャをバッと見上げて、さらに嬉しそうに笑いました。
「お花のお歌が聞こえないなら、あたしたちが代わりに歌えばいいのよ。だってファニーニャにはあたしたちの声は聞こえるんだもの!」
 そしてアリアーナもリアーフィに合わせて歌い始めます。リアーフィのぽつぽつとした声に、アリアーナの明るい声が重なります。
 身近な音からメロディを聞き取る、あの一人遊びをしているのだと気付いたのはだいぶ後でした。リアーフィには、つららから発される単純な音が、このような複雑なメロディとして聞こえているのでしょうか。
「……雪で全部、白くなったなら……」
 しばらくしてアリアーナが歌に歌詞をつけ始めました。即興の歌詞です。
「……足跡をつけに行こう……」
 リアーフィもその歌詞で歌い始めます。メロディだけだった二人分の声が、歌詞と共に一つの曲として冬の森に響いていきます。その歌詞はどこから思いついたのでしょう、雪で覆われた森には縁のない、優しく明るい言葉たちです。けれどファニーニャにはわかっていました。アリアーナはその言葉の並びを、あのつららの花から、この森から、聞き取っているのです。ゆりかごの横で一人遊びをしていたファニーニャがそうだったのですから。ゆりかごも薪も強風も、幼いファニーニャには歌を歌っているように聞こえたものでした。今の二人もそうなのです。
 これは、二人が作ったのではない、この冬の森が口ずさんでいる歌なのです。
「朝が来て……雪がきらきらと光る時……」
「だれかが歌い出す……雪のうた……」
 聞いているうちに、ファニーニャもそっとその歌を歌い始めました。メロディーは簡単で、同じパターンが繰り返されているようです。しばらく聞いていればファニーニャにも歌えるようになっていました。
「……雪で全部、変わってしまったのなら……」
「……見つけてみようよ……雪の中に咲く、冬の花……」
「……だれかが歌い出す……花のうた……」
 歌声が三つ――アリアーナとリアーフィにとっては四つ――静かな冬の森に響いていきます。


解説

2020年10月08日作成
過去作リメイク。地の文が増えた。短編小説大賞に応募…したはずなものの読まれたのかすらよくわからない作品。「あと一歩の作品」は一覧があるけど応募者一覧はないし受付しましたメールも返ってこないから選考にすら上がらなかったのか応募者が多すぎて気付かれなかったのか応募できてなかったのかよくわからん。これから創作を再開するにあたって感想ではない適切な講評が欲しかったんだけど仕方がないね。
 以下はリメイク前の「ファニーニャの冬物語」の解説。
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 ロシアの冬の森をイメージしながら書いた作品。コピー用紙に書いてあったものを書き起こしました。作品自体は2017年3月には書き上がっていたようです。メモ同然のそれをキーボードで打ち込んでいきながら「昔の私の作品は優しいなあ」と思いました。
 大人になるという体験を誰しもしていると思います。私にとってのそれは「見えていたものが見えなくなる」ことでした。時間屋さんもそうですが、書こうと思える優しさを目の前の世界の中から見いだせなくなっていたんです。時間屋さんのお話自体高校生の頃のものですし、大学生になってからは「あの作品と同じものは一生書けないな」ということはわかっていました。
 感覚というものは一期一会です。その時だからこそ感じ取れるものがあります。感覚を描き出す小説もまた、一期一会です。ファニーニャのお話は私にとって最後の「本当に優しいお話」でした。今後こういった優しさのお話は書けないでしょう。似たものは書けると思いますが、それは過去の私の作風に寄せただけのもの、私の中から自然と湧き出た物語ではないと思います。そう思うとこの作品を年月を経てようやく形にできたことはとても嬉しいですね。
 

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei