短編集
59. 柳に蛍火ともす (1/2)
いつからこの場所にいるのか、私は覚えておりませんでした。何かを待っているような、そうではないような、どちらかというと待っていたものへ付いて行きそびれてしまったかのような、ぽつんとした侘しさがあるだけなのでした。
はて、私はどこの生まれのどこの勤め人であったことか。フウと息を吐き出しまして、私は背を伸ばして頭に手をやり、天を仰ぎ見ます。けれどそこに天の青は見えず、枝垂れる細かな青葉が暗く私へと覆い被さってくるだけなのでした。私は他にすることもないまま、夜のように黒ずんだ日陰の下で、柔らかにしなる枝とそれに連なる鋭利な葉を見つめました。
随分と長く、この場に立ち尽くしているような気がいたします。周囲を見渡せど見えてくるのは見慣れた光景。行き交う人々や立ち並ぶ家屋に多少の変化はあれど、道なりや遠くの山の形やそばを流れる川の幅、水の色、音、それらは昔から何一つ変わりありません。隣に架かる橋は幾度か建て替えられたような気がいたしますが、いつ何度どのように、というのは少しも覚えておりません。思い出そうとする気にもならぬまま、私はただのんびりと、この木の下から見えるものを眺め続けているのでした。
川を背にした私の前には道があり、幅広のその向こうには木造の平屋が所狭しと並んでおります。人々はその中を悠然と行き、時に屈強な男が押す二輪の車が人を乗せて行き、時に棒の両端に桶を吊り下げた男が声高に何かを叫びながら行くのでした。奇妙なことに牛車はどこにも見えず、誰も烏帽子も被らぬまま、沓とも違う草で編んだ履物を履き、農民にしてはきちりとした身なりをしております。太刀を携えた者も弓矢を手にした者もおりません。稀に直衣に似た、けれどそれとも異なる奇妙な身なりの男達が刀を腰に直接差し、厳しい面持ちで人々の中を歩くばかりです。心なしか家屋の作りも私の知っているものと異なる気がいたします。
「ほら、そちらに寄るんじゃないよ」
ふと聞こえてきた声に目を遣れば、幼子の手を引いた母と思しき女がおりました。髪を簪でまとめて結い上げ、農民にしては鮮やかな色合いの、けれど擦り切れた着物を着、腰にこれまた鮮やかな色合いの帯を巻いた女でありました。
「その木には幽霊が憑いているからね」
「幽霊?」
「遠い昔の幽霊さ。だからその木には近付いてはいけないよ、戻って来れなくなる。一人は寂しいからねえ。――ほら、行くよ。あの寺子屋は時間に厳しいのだから」
母の促しの声に渋々と頷きつつ、幼子は私の背に立つ木を眺め眺め母と共に歩き去って行きました。
そういえば、この木のそばにある川はいつであったか大雨で水嵩を増し、橋の上を歩いていたひとりの男を川へと攫ったように思います。それは大昔のことのようでいて、けれどその一方でつい最近のことのようでもありました。いやはや、何とも思い出せぬものです。私は口元に手を当て考えようとし、そうしてずり落ちかけた烏帽子を慌てて被り直すのでした。
日が落ちると人々の往来はなくなり、家屋にぽつりぽつりと明かりが灯るようになります。それは私が見てきた明かりよりも眩しく、そして多くの家屋に灯るものですから、思わず目を細めてしまうほどでありました。夜ですから私も帰らねばなりません。けれどどうしてかこの木の下から動く気にはならず、そしてどこへ向かえば良いかもわからず、私はただひたすらに立ち尽くすのでありました。
人々の声が遠のき、静まり、月明かりのみが足元を照らす。それを私は夜の闇に馴染むように静かに見つめる。
それは幾度も繰り返してきた夜のように思われます。時に強い風が吹き、時にしんしんと雪が降り、そうしてなお、私は木の下にて立ち尽くしていたように思います。
私はひとりきりにございました。
供もおらず、妻もおらず、ひとつの木の下にて時を過ごし続け、そのことに対して特に何を思うこともありません。
けれど、ある時だけ。
その時だけ、私は。
――一人は寂しいからねえ。
何も見えない中で目を閉じ、何も聞こえない中で耳を澄ますことが、とても怖ろしく思えたのです。
***
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei