短編集
59. 柳に蛍火ともす (2/2)


 それは夏の初めにございました。遠くから笛の音が聞こえてくる、夜のことでございました。いつもの通り何もわからぬままひたすらに道の端に佇んでおりましたところ、ふと、私の目の端を光が通り過ぎたのでございます。
 冬も変わらぬ色合いを保つ私の背に立つ木、その青葉、それよりは幾分か月明かりに似た、柔らかく小さな灯火。
 それを目で追い、私は驚きました。
 蛍だったのです。
 確かに私の背後には川がありますが、この川は私の知る限り蛍の住まう川ではございません。ここよりも山に近い、それこそ山奥の川辺にて見ることができるはずの物にございます。他に同じ光が見当たりませんので、この一匹のみ、川を辿って降りてきたのでしょう。
 驚く私を見定めるように、蛍はスウッと私の回りを飛びました。闇の中にスウッと光が尾を引きました。
 闇よりも沈んだ体色の虫の尾の明かりを、私は無心に目で追いました。
 それは生まれて初めてのことのように思います。けれどその一方で、以前にも同じことをした気もいたします。目の前で惑う光、それを追い目を瞠り首を動かす僅かな時。
 蛍はやがて私に興味をなくしたように私から離れ、川の方、橋の上へと飛んで行きました。それもまた、見覚えのあるような気がいたしました。そうして私は怖くなったのです。あの小さな灯りを失った後の夜の闇を、その中でひとり佇む寂しさを、私は思い出してしまったのです。
「待ってくれ」
 誰かが言いました。
「待ってくれないか」
 それは久方振りの私の声でした。
 生まれて初めて声を出すという動作をしたかのような、不慣れな、張りのない声でございました。誰かに聞かれたのなら恥ずかしさに頬を染めてしまうほどの弱々しい声でした。
 けれど、私の心にあったのは恥ずかしさではなく怖ろしさだったのです。
 私は足を踏み出しました。曲げたことのない足を曲げたかのような痛みが膝裏にありました。構わず、私は木の下から走り出ました。
 初めて、おそらくは初めて、私は枝垂れる木の枝の下から離れました。
 そのことに気付いたのは橋の上から川の向こうを見下ろした時でした。木の枝葉に阻まれて見えなかった川の向こう側が、色鮮やかな灯火が幾つも灯った街並みが、夜の闇の中にぽつんとあるのを目にした時でした。
 気付けば私は橋の上におりました。烏帽子を押さえながら首を曲げて顎を上げれば、枝葉のない空がそこにありました。
 青ではない暗い空。そこに点々と白く浮いているのは星でしょう。そういえば夜の空には星があるのです。
「星を見るのは初めてですか」
 穏やかな女の声に、私は顔を下げてそちらを見遣りました。
 闇に馴染む黒髪と白い肌の、美しいおなごが私の隣におりました。っている着物は良い物のようですが、こうして夜に外に出て見知らぬ男に直接話しかけてくるのですから、高貴なお方ではないように思われます。
「いいえ」
 私はおなごへ答えました。初めて顔を合わせたおなごのようでいて、幾度も言葉を交わしてきたおなごのようにも思えてくる、奇妙な心地でございました。
「初めてではありません。そのように思います。いつ見上げたかは覚えておりませんが……いえ、ずっと前、橋の手前に家屋が立ち並ぶよりも前、橋が幾度か建て替えられるより前、私は星を……自分の屋敷で星を見上げたように思います。……いいや、いつのことであったか、星と共に光を、草原から湧き立つような幾千もの蛍の光を、山の中、川辺で星と共に見上げたような」
「そうにございますか」
 おなごはその顔に似合うほほえみを見せました。
「あなた様は随分と前から、あの柳の木の下におりました。それでも、あのいっときを覚えていてくださったのですね」
「あなたは私を知っていたのですか」
「わたくしではないわたくしが、遠き昔、あなた様とお会いしているのです」
 私はおなごを見つめました。川の流れのような黒の髪も、月明かりに照る白い頬も、ほほえむ目も、豪奢な着物も、そのいでたちも、全てが美しいおなごでございました。そして私はこのおなごのことを何一つ覚えていないのでした。
「わたくしはあなた様を探していたのです」
 おなごは言います。
「幾年もわたくし達の住処へといらっしゃったあなた様を、ある年からわたくし達の元へいらっしゃらなくなったあなた様を、わたくしは幾度もお探ししたのです。前の年、その前の年、毎年、毎年、わたくしは生まれ、飛び、お探ししていたのです」
 そして、とおなごは目を伏せ口元を綻ばせました。
「あなた様をようやく見つけられました。幾度も幾度も生まれ、飛び、あなた様をお待ちし、お待ちしきれずお探しし、そして千年の時を終えてようやくお会いできました」
 千年、と私は呟きました。はい、とおなごは頷きました。
「千年にございます。あなた様がこの川で亡くなられ柳の木の下で迎えを待つようになってから、千年にございます」
「迎えは来なかったのですか」
「柳の木に隠されたあなた様を、鬼も神も何者も見つけ出せぬままでいたのです。あの柳が今まで、供もなく橋を渡ろうとし渡りきれなかったあなた様をお守りしておりました」
 そうであったのか、と私は頷きました。おなごの話はどうにも心地良く、するりと私の中に馴染むのです。確かに私は千年もの間、あの柳の木の下で迎えを待ち続けていたのでしょう。目の前で繰り広げられる時の変化に気付くこともなく、ただひたすらに、来るはずのものを待ち続けていたのでしょう。
「けれど今の私は橋の上におります」
「あちら岸とこちら岸、あの世とこの世、境を繋ぐ橋の上にございます。あなた様はもうおひとりではなくなるのです」
「あなたが迎えに来てくださったからですね」
「わたくしは短命の定めにある身、もうじきあの世へ向かわねばなりませぬゆえ。さ、共に参りましょう」
 おなごはゆるりと手を差し出してくるのでした。私はそちらへと手を伸ばし、けれど止め、首を回して橋の向こうを見遣りました。笛の音、太鼓の音、そして灯火。川の向こうにある街の名は祇園であることをようやく思い出しました。あの場所が私の行くべき場所なのでしょうか。そうではなく、この景色はのもので、私が橋を渡った先にあるのはあの街ではないのやもしれません。あの街よりも明るい、この世のものならぬ街があるのやもしれません。
 おなごへ手を差し伸べたまま、けれどおなごの手に触れぬまま、私は橋の上で街の輝きを見つめておりました。そうして隣に立つおなごへ訊ねました。
「私がこの橋を渡ったら、あなたに再び会えるのでしょうか」
「いいえ、わたくしは虫、あなた様は人にございます。わたくしが幾度も生まれあなた様を探し続けたのはわたくしの祈りが山の神に通じたからにございました。あなた様と出会い、あなた様が現から離れることができましたのなら、わたくしがあなた様に再び巡り合うことはありませぬ」
「そうですか」
「はい」
 私はフウと息を吐き出しました。そうして目を閉じ、柳の木の木陰と夜の闇と蛍の灯火を思い出しました。
 先程まで見つめていた街よりも近く、明るく、仄かな灯火を思い返しました。
「では、私が橋を渡らぬままならば、あなたと再びお会いできますか」
 おなごは何も言いませんでした。目蓋を開けてそちらを見れば、おなごは黒く澄んだ目を丸くしつつ私を見上げておりました。
 そうして、私の考えていることを知ったかのように、その面持ちを柔らかなほほえみに変えるのでした。
「はい」
 おなごはしっかりと頷きます。
「幾度も、幾度も、幾年も、あなた様をお探しいたしましょう。幼き体で生き延び、眠りを越え、翅を手に入れたのならば、すぐにあなた様を探しに飛び立ちましょう」
「ならば私も待ちましょう。幾度も、幾度も、幾年も。橋を渡ることなく、このまま、あなたと再び会う日のために、あの柳の木の下であなたを待ちましょう」
 おなごはほほえみます。私もまた、ほほえみます。
「わたくしは参ります。またこの場所、この橋の上、柳の木の下に佇むあなた様と出会うために次の命に向かいます。そうして幾度も生まれては、幾度もあなた様をお探ししましょう」
 おなごは橋の隅へと下がります。私は静かにそれを見つめました。
「それでは、また、いつかの夏の初めの頃に」
「それでは、また、祇園が光を灯す頃に」
 そうしておなごは橋の上から川へと身を投げました。流れるような黒髪が後引く蛍の光のように線を描き、落ち、色鮮やかな着物と共に私から遠のき、白い肌が見えなくなり、やがて川の上に一つの光が灯りました。
 それはスウッと仄かな光の筋を残しながら、星と月の照る夜の闇の中、遠く、遠く、橋の向こう側の光の街へと飛んで行きました。


解説

2021年12月06日作成

 「やまとことばワードパレット」十二番目。
 「ともす」。Weblio古語辞書様曰く、
とも・す 【点す・灯す】
明かりをつける。点火する。
 とのことでした。
 ワードは【灯り・手を伸ばす・このまま】。「灯り」はおそらく「あかり」と読むのでしょうが、私は「明かり」と書く派なので「とも・り」という解釈で書きました。
 なかなか思いつかず苦戦しました。古風なお話にしたかったのですが、思いつく光景はどれも西洋風だったりファンタジー風だったりして。どうしようかなあと考えつつ過去作を四百字詰め原稿用紙に写し書く趣味(けっこう書き溜まってきました!)をしていたところ、「柳と蛍」という過去作に「灯す」という単語が使われていることに気付き「これだ!」となりました。
 というわけで「柳の木に蛍火がともる」お話です。「柳と蛍」の過去の話となっております。
 昔京都に数度遊びに行っているんですが、そこまで地理に詳しいわけではないので、やんわりふんわり京都テイストだなあと思っていただけると助かります…大学時代に遠くから見た夜の祇園が華やかで明るかった記憶がありまして、そこから「柳と蛍」と今作を書いています。


←前|[小説一覧に戻る]|次話

Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei