短編集
1. 塔の上で (1/1)
あいつは、よく高い所に登った。木の上、屋根の上、塔の上――どんな所にも登っては、俺や自身の両親を心配させた。どんなに駄目だと言っても、そいつは譲らず、諦めなかった。毎日毎日高い所に行っては、空に手を伸ばした。
いつからだろう。あいつが空へ手を伸ばす、その度にあの表情をするようになったのは。
***
外壁に這う蔦を辿り、直角に立つ塔を猿の様に登っていく。時折足が滑る。その足が足場を失い宙にぶら下がった半瞬後、何度足を滑らせても半瞬後、腹の底にずしりと重みがかかり、身体中が冷え、汗が冷たい水に変わる。
そんな感覚を何度も味わいながら、がっしりとした蔦をガッと掴み体を上へ持ち上げた。視界に漸く塔の頂上にある像を見つけ、それに寄り添うように台座に座っている人影を見つける。
やっと見つけた。
「レイ!」
名を呼んだ一瞬後、遠くを見ていた目の焦点が定まった。戸惑ったように大きく見開く。
「レイ!」
やっとこちらを見た彼は、今度は驚きに目を見開いた。
「アル……何でここに?」
「何で、じゃねえよっ。また居なくなったから、仕方なくっ……つか、手貸せ、手! また滑――うわっ!」
言っている傍で足が蔦から外れた。レイが手を掴んでくる。落ちた片足に体重の大半をかけていたせいか、宙づりの体に攣ったような鋭い痛みが走った。
「大丈夫?」
「……大丈夫な訳、ないっ! 手貸してくれたのは有難いけどな、タイミングが少し遅か――うぎゃ。」
何の合図もなしに引っ張り上げたレイの力に体がグイと浮く。抗う隙もなく、蔦だらけの塔の屋根に打ち付けられた。蔦が腹に食い込む。
「ぐえ。」
「わざわざ来なくても、僕がここに居ることは判ってたでしょ? いつも放っておいてくれていいのに来るよね、アル。」
「げほっ……お前、この、バカがっ! 本当に、心配でっ、だからっ! 何度、同じ事――ごほっ。」
「アルは変わらないね。心配性だ。」
目の前で咳き込んでいるにも関わらず、レイは像の横に再び座り、空を見上げた。所々崩れている塔の像は、膝をついて目を閉じ、額を組んだ手に近付けている。滑らかな裸体とレイを覆う様に左翼を広げていた。右翼は、ない。
「元からないんだよ。」
視線の先に像がある事に気付いてか、レイは像へ触れ微笑んだ。
「噂によると、創作者がそれを望んだらしい。その人が誰だかは知らないけど、この天使が片翼である事を望んだんだ。」
「ひでぇ……それじゃ、こいつ……飛べないじゃんかよ。」
「そう、飛べない。だから祈ってるんだって。この空を飛べるように、翼を下さいって。まあ噂だから他の事を祈ってるのかもしれないけど。」
――そらが飛びたい。
幼い時、まだ言葉を正しく使いきれていなかった時、レイは言った。
そらが飛びたい。あのきれいなおそら、ぱたぱたって飛びたい。
「レイ……まさか、今も空を飛びたいなんて思って……?」
「ぷふっ。」
吹き出し、レイはまさか、と笑った。
「今はもうそんな非常識、願ってないよ。人間は空を飛ぶことが出来ない動物――それは理。でしょ?」
「理……。」
「そう。あ、いつまでも寝そべってなくていいから、そこに座りなよ。その太い蔦、座るのに丁度良いよ。――小さい時は羽生やして空を飛びたい、なんて本気で思ってたけどね。」
寝そべっていたのは誰のせいだと言いかけた口を閉じ、言われたままに蔦に座り顔を上げる。一瞬目が眩んだ。
目の前に日光を受ける沢山の屋根が限りなく広がっていた。所々草木や石畳、そして遠くに海が見える。
視界一杯に光景が広がる。制限のない輝く街並み、空。
「息を呑む美しさって、すぐ近くにあるんだよね。海の中や飛行機の上からしか見えないものの事だけじゃない。太陽の輝きだけじゃない。きっと、この場所以外にもある。でも……。」
言葉を切り、レイは俯いた。
「皆、美しいっていう言葉を間違ってる。」
何も言えずに、唯レイを見詰めた。自分はどんな顔であいつを見詰めているだろう――きっと驚きに満ちた顔だ。
レイが、あのレイが高い所で空を見上げるのを止めて俯く様子は異様とさえ思えたから。レイがそんな表情をするようになった訳を知らなかったから。
「アル。この像は美しいと、そう思う?」
「……まあ、そりゃ……そうだけど。」
「じゃあ、この空は?」
「……は?」
顔を上げてこちらを見たレイには、悪戯心など一つも見えなかった。ただ、ひたすらこちらに微笑んでいる。悲しげに、苦しげに。
君はこの間違いをどう思う? ――ただそう問うている。
今までずっと、空は綺麗だと言ってきたレイが、そう問うてきている。
「……何だよ、いきなり。お前ずっと……。」
「言うと思った。アルなら、お前ずっと空は綺麗で美しいんだって言ってきたじゃんかよって。……ねえアル。泥水は美しいと思う? それとも雨水の方が美しい?」
唐突な問いにたっぷり一秒考え、ゆっくりと口を開く。心の中で問いながら。
レイ、どうしたんだよ。空が好きなお前が、何言ってるんだよ。
「……どっちかっていうと雨水じゃないか? 透き通ってて純粋で、余計なものが入っていないっていう意味で。」
「そう。でも、不思議な事にね、」
言い、レイは真っ直ぐ前を指差した。その先を見、橙色の空と沈み始めている太陽の輝きを知る。
「あの光景は美しいかって訊くと、皆醜いとは言わないんだ。」
夕焼けを見ながら、心の中で当たり前だと呟いた。
当たり前だ。夕暮れは、空が太陽の色に染まる。太陽が今までより輝きを強める。全てが一色に変わる。そして、太陽が姿を消す。郷愁に似た思いが胸を突く。それらが夕暮れを美しくしているのだから。
「アルは、これが本当に美しいと思う?」
「……今更、じゃないか? つか、空はいつも綺麗だって熱弁してたのレイじゃん? 今更……。」
「今更、か。そうだね、今更だ。もっと前に気付くべきだったんだね。」
「レイ……?」
声の調子の変化に気付きレイを見る。夕日の色で見えづらくなったその表情は、悲しみとも苦しみとも、後悔とも違う。
自虐。
「ここからあの太陽まで、空間の中に何があると思う? ……僕等は本当に何も知らないんだ。この空気の中に何があるのか、それが何を引き起こすのか。何も知らない。なのにあの太陽は美しい。矛盾してると思わない? 僕等と太陽の間に醜い何かがあっても、僕等と空の間に醜い何かがあっても、あの太陽や空は純粋で美しいだなんて。」
「醜い何か……?」
「例えば細かい塵。例えば化学物質。有害な放射性物質。細かく砕けた硝子を吸って僕の喉が裂けるかも。そして、その可能性を否定出来る根拠はない。」
醜い何か。
例えば陰口や悪口。例えば他人を思わない行為。相手を虐げようとする心。勝敗にこだわる誰かが皆の命を奪うかも。
そして、それらがこの世界に存在しない根拠は、ない。
「人間って変な生き物だよね。生殖行動をするくせに他の人間を殺すっていう考え方がある。それじゃ種族を殖やすっていう目的と裏腹じゃない。後先考えずに生きて後悔するし。ほんと馬鹿。――この空が美しいって思ってた僕も馬鹿。」
その空に手を伸ばし、レイはあの表情をした。
そうか、お前があんな顔をするのは――あんなに泣きそうな、涙が溢れそうな、苦しそうな悲しい顔をするのは。
「……ねえ、アル。」
その表情のまま、微笑む。こちらが泣きそうになる。泣きたくなる。胸が苦しくなる。涙が頬を伝いそうになる。皆に問いたくなる。判らないと叫びたくなる。
「この空の――この世界の、どこが美しいんだろう?」
2010年08月13日作成
地元の私立大学付属高校主催の高校生対象の文学&エッセイ賞に出した作品。授業の一環だったのかその学校の生徒ばっかり作品出してた。そのうち半数くらいが奨励賞(一番下の賞)。この作品も奨励賞だった。たぶん小説の形をしていたら奨励賞もらえるらしかったので、当時は「小説の形にはなってるんだな」という確認で応募したような気がする。
大賞だけ冊子に載るんだけど、完成度が高すぎて妬ましくもありつつ感嘆した記憶。高校生ってこんなの書けるの?って思ったなあ。でも授業の一環だったのなら小綺麗じゃない泥臭い奇想天外な発想の小説orエッセイもあったはずだから、そういうのも評価して欲しかった気もする今日この頃。
高校一年生の時の作品。この頃はとにかく思春期というやつで世界が汚くてしかたがなくて失望していた気がする。なお、この二年後に出した作品(次ページの作品です)で「この世界のどこが美しいのか」の答えを自分なりに出している。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei