短編集
2. 屋根の上で (1/1)


 あいつは、よく高い所に登った。木の上、屋根の上、塔の上――どんな所にも登っては、俺や自身の両親を心配させた。どんなに駄目だと言っても、そいつは譲らず、諦めなかった。毎日毎日高い所に行っては、空に手を伸ばして、
「兄さん!」
 そう、こんな風に俺を上から呼んで、
「ってちょっと待て、待て待て待て」
 自分の世界から強引に引き戻された俺は慌てて上を見上げた。見上げた先に可愛い可愛い弟の顔。ああなんて幸せなんだ。
 しかし問題はその弟と自分との距離だった。俺の口は酸欠状態の魚と化してしまう。
「……おま、おまおまおま、お前」
「んー何ー? 遠くて聞こえないやー」
 ああなんて無邪気で幼い声。――ではなく。
 今の状況を冷静に考えてみる。今自分は地面に寝転んでいた。風が心地良く、つい物思いにふけっていて、そういえばいつの間にか弟は隣にいなくて。もっとよくよく冷静になってみる。そう、ここは町外れの丘の上にある古びた教会の敷地内。自分がのんびり寝転んでいたところは教会の足元にある庭で、数歩歩けばこの人気のない教会の中に入れる。そしてこの教会、なんといっても背が高い。そして我が弟は高所が好きな高所狂喜症。さらなる事実を上げると、我が最愛なる弟は、見上げる限り、教会の最も高いところの屋根の上からこちらへ身を乗り出しつつ見下ろしてきているように見える。なんて冷静な分析。華麗なる己の頭脳。日頃の学力とこういった思考力は全く別物なのだ。ふっと息を吐く。
 つまり、だ。
「……あぶないだろーが――!」
 どだだだだだと教会内へ走り込み、階段を上がり、最上階に着き、窓から外に出て、壁をよじ登り、右手で屋根をがっちり掴み、足で壁を蹴った。華麗とは形容しがたいドスという音と共に屋根へへばりつく。なんて格好の悪い。
 喉からはゼーゼーという音しか出ず、危ないともすぐに降りろとも言えなかった。我が弟も同じコースを来たはずなのに、そいつはというと、
「あ、兄さんも来たの?」
 天使のようなきらきら輝く笑顔を向けてくるのであった。
「こ、この……このくらいでへばる俺では、ない……」
「どうしたの? 疲れてるみたいだけど」
 兄の貫禄のために沈黙しておいた。
 鉛のような体をなんとか動かし、屋根に腰を下ろした。やっと景色を眺められるようになる。俺は、ゆっくりと息を吐き出して、視界いっぱいに広がるそれを眺めた。
「ね、すごく綺麗でしょう?」
 弟が自慢気に言う。幼い足を興奮でばたばた動かす弟に危ないと忠告することもできず、ただ頷いた。
「今日は特にお空が綺麗なの。どこまでもどこまでも、おひさまのそばまで青いでしょう?」
 ああ、と投げやりとも感嘆とも受け取れる声が口からもれ出た。
 空が青かった。太陽が白くて眩しくて、その輝きに目が耐え切れないほどで。それでも目を閉じることはできなかった。空の下、大地を埋めつくす家々の屋根に圧倒されて、眼を瞑ることを忘れていた。
 いくつもの屋根が、道沿いに連なって、うねっていく。美しくも綺麗でもない色の乏しいレンガの街並み。高さのそろわないぶざまな建物達。それが今、一匹の不格好な怪物として地面に寝そべり、レンガ色のその体を俺の視界いっぱいに伸ばしている。
「……レイ」
「何?」
「……俺達は、本当にここに住んでいるのか?」
「どういうこと?」
「ここは、本当に俺達の町なのか?」
 信じられなかった。
「何言ってるの? ほら、あれがパン屋さん。あっちがベリーおばさんちで、あっちがアルんち。それから、あれがぼくたちの家」
 レイが笑いながらあちらこちらの屋根を指差していく。どの屋根を指差しているのかよくわからなかった。レイの指差す先では屋根達が集まって、群がって、連なって、地の果ての海の果てまでも覆いつくしに行こうとしていた。
 こんなにも大きな群れの中で俺は生きていたのだ。レイは毎日のように当たり前にこの景色を、怪物を見ていたのか。
「ね、綺麗でしょう?」
「……ああ」
「お空っていっつも綺麗」
 そこでようやく、俺は空に焦点を合わせて見た。確かに青かった。しかし綺麗とは思えなかった。
「けっこう雲があるな」
「うん。でもお空は綺麗だよ」
 レイの表情は全く曇らなかった。
「雲があったらだめなの?」
「空は雲一つないのが一番だろ」
「雲があってもお空は青いよ」
 何言ってるの、と弟が言った。
「どんなに雲に隠されてても、お空は青のまま雲の向こう側にあるんだよ。お空が青くない日なんて本当はないの。見えなくなる時があるだけ。それに、少し雲があった方が、すき間から見える青が綺麗になるんだよ」
「そうなのか」
「うん。本当のお空は雲の間のお空みたいにきらきらしてるんだ。兄さんだってそうでしょ?」
 彼は純粋で、俺よりも幼くて、俺よりも何かを知っているようだった。
「お空がいつも青いのと、兄さんが勉強で悩んでるのは同じでしょ?」
「え……?」
「兄さんの笑顔は雲なの。いつもいつも、兄さんの青い空を隠してる雲」
 何も言えなかった。弟は笑って続けた。
「雲のないお空は本当に綺麗なんだよ。雲のすき間から見える雲はもっと綺麗。だから今の兄さんの笑顔も好きだよ、たまにきらきらしてる時の笑顔が綺麗なの。でもお空はずっと青いんだ。兄さんも、今は雲がいっぱいだけど、本当はずっと昔からすっごく綺麗なお空のまんまなんだ」
 大丈夫だよ、と弟は笑っていた。
 弟にはいつも笑顔を見せていた。心配させたくなくて、それにどう他人に頼れば良いのかわからなくて。けれどレイはその目で、俺の懸命に作り上げていたウソを簡単に見抜いていたらしかった。情けない。しかし心地良い。
「あのね、兄さん」
「ん?」
「今度アルと一緒に、ここに来ようと思ってるの。アルってね、いっつもぼくのこと心配してくるくせに、いっつも一緒にお空を見てくれるんだよ。変だよねえ」
「良い友達じゃないか。でも、ここは危ないから駄目」
「えー」
 不満顔のレイの頭をわしゃわしゃと撫でる。むううと困ったようにうなる弟がまた可愛くて、俺は腕いっぱいにレイを抱き締めた。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei