短編集
3. 少女の名は (1/1)
少女の名はアリス。かの有名な小説の主人公と同じ名。しかし彼女の名を呼ぶ者はいない。両親はどこか遠い国に行ってしまったし、きょうだいもいないからだ。母方のおばに世話になっているけれど、そのおばも、少女の友人も、彼女をミーナと呼んだ。幼い頃からそうだった。少女が一度でも「みんなにはアリスじゃなくてミーナって呼ばれているの」と言えば、必然的に少女はミーナと呼ばれた。
しかし少女はその名が嫌いではなかった。自分はミーナなのだと思っていた。少女はアリスではなくミーナだった。
だから、アリスと呼ばれた時、ミーナはただただびっくりしていた。誰だろう、わたしをミーナじゃなくアリスと呼ぶのは。
「アリス」
誰もいない寂しい公園で一人ブランコに座っていたミーナに、その人は言った。きれいな発音だった。からかっている風はない。ミーナはその人が自分を呼んでいるのだとすぐにわかった。
「あなたは誰?」
「君はアリスだ。そうだろう」
ミーナの質問に答えずに、その人は続けた。オシャレなシルクハットを被っていた。
「はい」
「なら良い。来たまえ」
「どうして?」
「君がアリスだからだ」
説得力の全くない答えだった。しかしミーナは頷いた。この人の言うことは事実だった。わたしはアリス。ミーナだけどアリスなんだもの。
ミーナの知らない道をその人はすたすた歩いた。ロンドンの昔ながらのレンガの道に、レンガの家々。その中を歩いていくと、ミーナはここがどこなのかわからなくなっていった。
「アリス」
また呼ばれた。あの人がある一つの家の前に立っていた。家のように見えたが、看板が扉にかかっていた。「CLOSED」明らかに店だった。
「入りたまえ。お茶の時間だ」
「……帽子屋さん?」
その人は少しだけ口の端を持ち上げて、笑ったようだった。
「ねえ、帽子屋さんなの? あの、アリスのお話に出てくる……」
「重要なのは君がアリスだということだ。私の職業などどうでも良い」
「なぜ?」
「私の毎日は専ら、お茶の時間を楽しむことだからだ」
そして、と彼は続けた。
「――アリスをお茶会に誘うこと、だ」
アリス。
「アリスってわたし?」
「自分でそうだと言っただろう」
「だけど、わたしみんなからはアリスじゃなくてミーナって呼ばれているの」
「なら君はアリスではないのか」
「ううん。アリスよ。でもミーナって呼ばれてて……」
「君はアリスなのか、ミーナなのか?」
突然強い口調で訊かれた。帽子の下の目は真っ直ぐで、ミーナの体をすかし見ているようだった。怖かった。ミーナは、俯いて首を振った。
「……わからないわ」
「そうか。ならば君がアリスなら中に入りたまえ。アリスではなくミーナだというのなら立ち去りなさい。自分がどちらなのか、自分で決めることだ」
「CLOSED」の看板がかかった扉を開け、その人は中へ入ってしまった。ガチャンと扉が閉まる。入るなと言っているようだった。
「……私はアリスよ。名前はアリス。でも、呼ばれていない名前は、本当にわたしのものなの? わたしはアリスじゃなくてミーナなの? でもミーナはわたしの本当の名前じゃないわ……」
少女は立ちすくんでいた。店の中にも入れず、そこから立ち去ることもできず、ずっとそこに立っていた。
2012年06月27日作成
原稿用紙から発掘。当時月刊ゼロサム(一迅社)を読んでいて、そこに連載されていた「Are you Alice?」という作品に衝撃を受けたんじゃなかろうか(うろ覚え)。それまで読んできた作品って小説も漫画も良い意味でファンタジーで、異世界の他人の話ばかりだったんだけど、「Are you Alice?」は存在理由というものに着眼していて当時の私にぐっさり来たのでした。完結まで追えてないのでいつか単行本集めなきゃな。
この作品は地の文を仕組んであって、「少女→ミーナ→少女」と地の文での彼女の呼び方が変化してる。話の進みと一緒に読み手の彼女への意識が変わっていく感じ…です、はい。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei