短編集
4. 夏の蝉 (1/1)


 夏真っ盛りの午後のことだった。もちろん暑くて、風通りの悪いこの家はかなり暑かった。熱中症で死ぬかもな、と漠然と思っていた。そんな時、玄関の扉が開かれた。
「こんにちは。どなたかいらっしゃらないですよね」
 奇妙な塊の言葉が私の耳に飛び込んできた。頭のやられた押し売りか何かだろうか。ぐったりとして追い返す気もない私はとりあえず沈黙していた。向こうも沈黙していた。家の中は蒸し暑い沈黙であふれた。
 外で蝉が何匹も何匹も繰り返し叫んでいる。蝉の成虫の寿命は七日だというから、休んでなどいられないのだろう。しかし私は疑問に思う。蝉は自分の寿命を知っているのだろうか。七日しかないからあんなに叫んでいると、私達は思っているが、本当にそうなのか。彼らは体内時計のように命の制限時間を体内に埋え付けられている。私達に体内時計はあるが蝉のように寿命がきっちりインプットされているわけではない。長生きしたい時は医者に頼めばいいし、早く死にたいなら失血するか息をできなくするか、何かしらすれば良い。
 寿命の決まっている蝉はその時まで命の限り叫ぶことができる。自分の生きた証を、生きている存在を、皆に訴えることができる。私達はいつか死ぬ。いつか、は自分で知ることはできない。なら、私は、自分の生きた証を訴えながら死ぬことはできないのか。蝉のように命の最期を知り得た上での叫びを上げることはできないのか。私と蝉の違いは何だ。蝉はわかっていて、私はわかっていない。この差は何だ。わからない。わからない、という言葉のなんと恥辱に満ちたことか。
「あ、いたんですか」
 蝉の悲鳴と共に人間の声が聞こえた。だるい体で振り返ってみた。
 人の良さそうな男がそこにいた。そこ、というのはもちろん私の家の中である。
「君、勝手に入ったのかね」
 私の声は不思議と落ち着いていた。
「ええ」
 男の声もわりと明るかった。
「人の家に勝手に入ってくるほどの急ぎの用事が、君にはあると」
「いえ」
 この蒸し暑い中男はスーツを着こなしていた。サラリーマンか何かだろう。しかし今は昼休みの終わっている時間だ。
「なら早く出ていきなさい。仕事があるだろう」
「いえ」
 少し嬉しそうに男は言った。まるで話しかけられたのが嬉しかったようだった。見た目によらず幼稚な奴だと思った。
「少しお話がしたくて」
「話? 何の」
「何でも」
「人がいないことを期待するような訪ね方をしたのに、話をしたい、だと?」
「本当にいるとは思わなくて」
「ならわざわざ声をかけてこないだろう。それに、今この家は窓を全開にしているんだ。誰もいないわけがないだろう、今の時代」
「だと思ったから声をかけたんです」
「言っている意味がよくわからないな。それに、何の話がしたいんだ」
「何でも」
「何でも?」
「話ができるなら、何でも良いんです」
 私は改めて男の方を向いた。男も改めて床に座った。もはや蝉はどうでも良かった。
「何でも、というと何があるのかね」
「さあ」
「何もないのに話がしたいのか」
「ええ」
 みるみるうちに明るさを増していく男の表情はまるで青年のようだった。やはり、話がしたい、というよりは、私に話しかけられたい、といった感じだった。思ったより子供なのかもしれない。しかし彼の声も背もしっかりとしていた。彼は大人だった。
「話すだけで良いんです」
「話にはテーマがつきものだが」
「テーマのない会話もあります」
「どんな」
「こんな」
 そろそろ返事に困ってきた。しかし嫌ではなかった。縛めのない会話ほど、難しく、たわいないものはない。心地良かった。
「君は何をしに来たんだ」
「話をしに」
「なら他の家を当たっても良かっただろう。なぜ私のこの家を選んだんだ」
「なぜでしょうか」
「わからないのか」
「はい」
「私は初め君に返事をしなかった。それでも君は私のところに、勝手に上がってきてまで、私のところに来た。そこまでした理由は何だね」
「何でしょうか」
「自分でわからないのか」
「わかったところで何も始まりませんよ」
「いや、会話が始まる」
「会話はもう始まっているじゃないですか」
「これは会話じゃない」
「じゃあ何ですか」
「わからない」」
「わかりませんか。僕もです」
 わからないというのに、私の心は晴れやかだった。
「わからない、か」
「ええ」
「今私達がしていることは会話ではなく何なのか、も」
「ええ」
「君がこの家を選んだ理由も」
「ええ」
「奇妙だな」
「そうですね」
 青年は笑っていた。
「でも良いんです」
「なぜだね」
「もう出ていきますから。お付き合いありがとうございました」
 一礼し、青年は立ち上がって部屋を去っていった。何の余韻もなかった。慌てて私は立ち上がった。いきなり立ち上がったせいかくらくらした。
 玄関へ行った。玄関の戸は既に閉じられていて、どうやら私は青年を見失ったらしかった。
 蝉はまだ鳴いていた。
 数分後、家の玄関が再び開かれた。
「警察です」
 簡素な自己紹介の後、警官はハンカチで額の汗を拭った。そして息を吸い、吐き出し、僅かにためらった後、言った。
「奇妙な話をしますが」
 この近くで人が死んでいたという。道路で倒れていて、通行人が発見し、通報したらしい。だが警察が現場に着いた時、その遺体はどこにもなかった。
「消えてしまったというとあれなんですが。通報者は男性の死を確認したらしいんです。けれど、いつの間にか」
「それで、私に何の用でしょうか」
「非常にお訊きしづらいんですが、男性を目撃していませんか? 不審な、というか奇妙な、というか。ここらへんでは見かけない顔とか」
「遺体が何者かに運ばれた、という可能性は」
「それはないです」
「遺体の男性の特徴は」
「スーツだったそうです。こんなに暑いのに。どこかのサラリーマンですかね。奇妙な人です。なのに誰もその人を目撃していないっていうから、もうその男性がそこに存在していたという事実さえ不確かですよ」
 携帯電話のバイブレーションの音が聞こえた。警官がすみませんと言って背を向ける。何やら話し始めたその背中を眺めながら、私は黙っていた。
「すみません、この件はなかったことになるそうで……ご協力ありがとうございました」
 足早に去っていく警官を見送った。
 あの青年だと思った。彼が話をしたがった理由もわかった。彼とのテーマのない会話をしたことで、私の中に彼は記憶されている。
 彼は夏の蝉で、私だけが彼の存在を覚えている。私だけが彼の生きていた証拠だった。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei