短編集
5. 雨が降れば (1/1)


 ただ、傍にいれたら良い。
 傍にいて、その声を聞くだけで、心が安らぐから。
 その笑顔を見るだけで、幸せになれるから。

***

 珍しく早く目が覚めた。いつもは二度寝して遅刻寸前になるのに、今日の朝は何故か、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。
 仕方なく制服に着替え、朝食を摂る。
「あら、早い」
 母親が台所で言った。
「お、もう起きたか」
 父親が居間で言った。
「え、何でいるの?」
 弟が廊下で言った。
 どんなに遅刻を味わっても朝早く起きようという気が起きないのは、このせいだと思う。何故早く起きたら珍しがられなければならないのか。早起きは良いことの筈なのに、気分が良くない。
 早起きは三文の得、なんて嘘だなあと勝手に思いつつ、自転車のかごにスクールバッグを縦にしてぶちこんだ。
「今日は嵐だ」
「予報で雨が降るって言ってたよ」
「んじゃ梓のせいだね」
 学校に着くと皆が口々に言ってきた。
「……失敬な」
「しょうがないよ。だって梓はいつも、遅刻するかしないかの時間に着いてるから」
「早く着くとこうして皆にいろいろ言われるから嫌なのっ!」
「はいはい」
 軽く流された。虚しい。
「あれ」
 心地よい低音の声が教室に入ってきた。
「梓早えーじゃん。大雨だ大雨」
「やかましいあんたまで言うなどあほっ!」
 反射的に返し、そっぽを向いた。まあまあとそいつがなだめてくる。
「たまには雨も降ってくれなきゃ、な?」
「ってそっち? 私への同情は?」
「皆無」
「ひど……和真のくせに……」
「くせにって何だよ、くせにって」
 笑いながら、和真は自分の机にエナメルバッグを降ろした。その悪戯小僧並みの笑顔にますますむきになる。
「和真は和真だもんっ! ば和真!」
「ばかずま、って……あのなあ!」
「こないだのテスト赤点ぎりぎりだったくせに! 国語の解答先生に思いっきり笑われてたくせに!」
「お、お前みてーに赤点は取ってねーし!」
「何もない道端で転んでたくせに!」
「チャリで側溝にはまってた奴が言うな!」
 何を言っても上手く言い返されている気がする。
「あ、梓……ホームルーム始まるよ」
 友人に言われ、仕方なく口をつぐんだ。その代わり和真を思いっきり睨みつけてやる。口喧嘩に勝って得意気だった和真の表情がひくりと歪んだのを見てから、おとなしく席に座った。
 顔が熱い。興奮し過ぎたのかもしれない。

***

 帰りは雨だった。
「あー……」
 梓のせいだとからかわれる気がして、雨が降り始めた午後から身構えていた。が、皆朝のことを忘れたらしく、誰一人文句を言ってこない。
 何だか拍子抜けして、一人ぼんやりと玄関に立っていた。外ではバケツから水を流すかのような雨が降り続いている。大きな水たまりがいくつもできていた。
「やーっぱり雨降ったな」
 唯一朝と同じ調子で、わざとらしく顔を覗き込んできた。にっと笑う。いっそ清々しいその笑顔は少し日に焼けていて、そのせいか歯の白さが際立っているように思えた。
「……いいでしょ。どうせ予報通りなんだから」
「開き直るのかよ」
「別に開き直ってる訳じゃないし……」
「……お前、まだ怒ってんの? 顔赤いけど」
 その一言にますます頭に血が昇り、無意識に顔を反らした。
「別に」
 重くも軽くもない沈黙が学校の玄関で二人を包み込んだ。すぐ横を、傘を手にした同級生が次々と通り過ぎていく。
「……梓、帰んねーの?」
 沈黙を破ったのは、低音で心地よい、少し遠慮した声だった。
「傘、ない」
「天気予報見たんじゃねーの?」
「だって……朝晴れてたし……」
「少しはメディアを信用しろよ。つか自分で雨降らせるようなことしておいて、雨降らないって思ったのか?」
「……うん」
 呆れたと言わんばかりのため息が彼からこぼれた。返す言葉が見つからず、たたずむ。
 雨は止みそうにない。雨脚が少しだけ弱まった気がするが、気のせいかもしれない。
「……ほら」
 ずいっと差し出された傘に困惑し、和真を見上げる。突然すぎて声が出ないことを察してか、彼はつと目を反らした。
「……使えよ。俺んちは父親が暇してるけど、お前んち共働きだから帰り困るだろ」
「……何で知ってるの?」
「前自分で言ってただろーが。小さい頃は寂しかったって。――ほら、行けよ」
 さらに突き出されたそれは、普通のビニール傘だった。百円ショップで売っているような、あれだ。
 白い柄を握る彼のこぶしが少し震えている。
 傘から慌てて目を反らし、しかし動揺のまま視線をあちこちに泳がせた。
「い、いいよ。大丈夫、風邪ひかない体質だし」
「体質って……あのなあ」
「ほんとにいいから! じゃ、また明日ね!」
 和真と目を合わせることなく駆け出し、すぐに雨に打たれて身体中が濡れる。はりつく髪を乱暴に振り払い、急いで自転車のかごにスクールバッグを放り込んだ。勢いよくペダルを踏み出し、傘を差し自転車を押すいくつもの人影を追い抜いていく。その中に彼と同じ傘を見つけるたび、あの大きなこぶしが思い出された。
 熱があるかのような熱さの体に、冷たい雨は丁度良かった。
「あんなくだらないこと、覚えててくれてたんだ……」
 濡れて冷えていく体と対照に、胸の奥は切なさに似たあたたかさにふうわりと包まれていた。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei