短編集
6. 聖夜 (1/1)


 聖夜なんて大嫌いだ。

***

「待ちやがれ、このガキがっ!」
 視界の端に拳を振り上げる八百屋のおやじが見えた。が、追いかけてくる気配はない。許してくれている――そう思うと胸が痛くなる。
「くそ……!」
 似合わない痛みだ、と思った。
 たやすく手に入れた赤く丸い果実をしっかり持ち、少年は近くの暗い路地へと走り、その小さな角を曲がった。
「また盗ったんだね?」
「うわあっ!」
 目の前に突然現れた人影へ頭から衝突しかけ、慌てて足を止める。しかし体勢が崩れた。かかとが地を蹴り、腰が落ちていく。
「げ。」
 うめいた次の瞬間、尻に地の底からの衝撃が伝わってきた。痛い。そして冷たい。
「痛ってえ……っ!」
「痛いじゃないよ。盗られた方はたまったもんじゃないんだから。」
 尻をさすりながら、少年は人影を見上げた。すらりと背の高い女性が仁王立ちで少年を見下ろしている。
 少年は上目遣いで女性を見、ぼそりと呟いた。
「……仕事はいいのかよ、マリア。」
「今ちょうど休憩時間だからね、心配ご無用。ついでだからあんたを観察しようと思って。」
「へえ……観察、ね……。」
 マリアはこの近くにあるスナックのオーナーだ。彼女目当ての常連客も多いらしい。確かに綺麗な女性だが、少年にとっては恐ろしい鬼でしかない。
「観察っつーけどさ、マリアがやってんのはどう見てもしばきじゃ」
「何か言ったかい?」
「……いえ、何も。」
 小鳥のさえずりと謳われる声が、どことなく黒い。
「あたしはね、あんたたちが危険な道に走らないように見守ってるんだよ?」
「……マリアに絡まれる方が危険な道な気が……。」
「ん?」
「いえ、何も。」
 脇の家に明かりが灯った。頭上の窓から暖かな光が漏れ出る。
 少年はふと反り返って空を見上げた。
 家々の屋根で切り取られた空は藍色に染まっていた。今に星が光る、と予感させる澄んだ藍色。吐いた白い息をも溶かし込んでしまうほどの寛大さがある。
「今日は聖夜だ、みんな気分が良い。運が良かったと思いな。……ほら。」
 ス、と差し出されたマリアの手を見、少年は目をしばたたいた。
「……何?」
「何、じゃないよ。それをお出し。そのままじゃ食べられないだろう?」
「は……?」
 いつの間に手にしていたのか、片手でナイフをもてあそんでいる。
「マリア……どうしたんだ? マリアらしくねえ……そうか、熱があるんだな。もしくは新手の冗談。」
「冗談って何さ、相変わらず失礼な子だね。言ったじゃないか。今宵は聖夜。名もなき子供にもみんなが情けをかけてしまう、特別な日だって。聞いてなかったのかい?」
「……聞いてた、けど……マリア……。」
 暗くて見えないマリアの表情は、素っ気ない口調と同じく素っ気ないものだろう。しかし少年は目をごしごしと擦った。
 目からあふれ出ようとする感情を隠すために。
「ほら、早くお出し。腹が減ってるんだろう?」
 淡々とした彼女の声に、少年はただこくりと頷いた。

 だから嫌いなんだ。聖夜は、らしくなく、胸が痛むから――


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei