短編集
29. 菊の花 (1/1)


 バレンタインデーというイベントがある。大雑把に言うと、好意のある相手や世話になった相手へお菓子を贈るというものだ。贈り物には主にチョコレートが使われ、この時期になると製菓会社がやっきになって商品を売り込んでくる。
「でも、じゅんくんは甘い物苦手だったものね」
 そう言って彼女は笑った。早朝の太陽が彼女の横顔を照らす。化粧の控えめな彼女の頬は、薄く艶めいていた。
「さすがにお菓子は置いていけないから、いつも通りお花だよ」
 僕の目の前、両脇の花を取り替えた彼女はいたって明るく笑う。昔と何ら変わりない笑顔――いや、全くと言い切れるほど変化がないわけではないけれど。
 そりゃそうだ、と僕は自分に頷く。そんな僕を前にして、しかし彼女は僕が腰掛けている縦長の花崗岩を眺めて――正しく言い直せば、そこに刻まれた僕の名字を眺めて、くすりと笑う。
「じゅんくんが死んでからもう一年になるのかあ……ホワイトデーのお返しをくれる前に死んじゃうなんて、計算高いんだから」
 冗談言わないでくれ、僕だって好きでバイクにぶっ飛ばされたわけじゃない。そう肩を上下させて身振りで示す。片足を組んで墓石の上に座る僕の姿を、もちろん彼女は見ることができない。だから、大袈裟な身振りのせいで危うく体のバランスが崩れかけるという失態も見られずに済むというわけで。
 慌ててバランスを立て直した僕に気付きもせずに、彼女は自分で取り替えた花をぼうっと眺めた。白、赤、黄、色鮮やかで落ち着く菊の花々。
 まさか自分向けに彼女が買うとは、微塵にも想定できなかったもの。
「また来るね」
 我に返ったように視線を宙から墓石に移して、彼女は微笑む。無意識に鞄の持ち手や鞄の中身をいじくっていた手を止めて、しゃがみ続けていた足を痛めないようにゆっくりと立ち、軽く膝の裏を伸ばして、そして僕の方へと顔を上げる。
 一瞬だけ、目が合った錯覚がした。
「じゃあね」
 彼女がくるりと背を向ける。冬物の可愛いコートは、一年前のデートの時にも着ていたものだ。スカートのようにふわりと広がる裾、そこからのぞく彼女の細い足。歩くリズムに合わせて揺れる、腰の大きなリボン。
 それらを見送りながら、僕は墓石の上でじっと座り込んでいた。

***

「じゅんくん!」
 一年前の今頃は、雨が続いていた。ちょうどその時は降っていなかったけれど、空は曇っていて、いつ降り出してもおかしくないくらいだった。僕はビニル傘を手に彼女を待っていた。
 赤い傘を持って待ち合わせ場所である公園に来た彼女は、いつもはしない化粧をして、いつもは見ない可愛いバックを持って、いつも通りの格好の僕の前に現れた。
「みきちゃん……お洒落してるねえ」
「えへへ、だって今日は特別だから!」
 高校生の頃から付き合っている僕達は、大学が別になってからは滅多に会うことができなくなっていた。平日はしかり、休日もあまり予定が合わない。それを覚悟で遠距離恋愛を続けていた。
 そんな僕達に神様が微笑んだのか何なのか、休日かつ双方の予定が合う、しかもバレンタインデー当日という奇跡が起こったのが、この日だったわけである。
「ね、ね、今日は何時まで一緒にいられるの?」
「うーん、今夜はバンドの方で打ち合わせがあるから、遅くても八時にはスカイプの準備してなきゃ」
「うちに泊まる?」
「いや、打ち合わせはいつも夜遅くまで続くし、悪いから今日はホテルに泊まる予定にしてる」
「そっか……じゃあ、少しも時間を無駄にできないね! じゅんくんじゅんくん、私スプラッシュマウンテンに乗りたい!」
「いきなりデスカ」
「駄目?」
「せ、せめて観覧車とかは……イヤナンデモナイデスガンバリマス」
 可愛げが欠片しかないジト目が見間違いだったかのように、やったあ、と無邪気にはしゃぐ彼女を横に、僕はこの時盛大なため息をついてみせたわけだけれど。
 ――本当は、彼女の声を直接聞けることが、何よりも嬉しくて。
 そして本当のことを言うと、絶叫系は本当に本当に苦手なんだよなあと嘆いていたりする。

***

 絶叫系のアトラクションを思う存分楽しんだ彼女と、隠しきれない悲鳴を駄々漏らし魂の半分が離脱していた僕は、ようやく人混みの中から少し外れ、小さなベンチに並んで座っていた。目の前の大きな通路には人がわやわやと溜まっている。夕日もだいぶ傾ききっている今の時間から始まるのは、夜の着ぐるみ大行進だ。
「そろそろ……時間だね」
「……あ、ああ、うん」
「……じゅんくーん? 生きてるー?」
「……あ、ああ、うん」
「もうっ!」
 ぷうっと頬を膨らませた彼女は、僕の方へ背中を向けるようにそっぽを向いた。鞄を膝の上で抱えて、暇つぶしのように持ち手や鞄の中をいじくっている。ふてくされたらしい。けれど、僕は知っている。こういう態度の時の彼女は、大して気分を害してないということを。
「……みきちゃん?」
「……何」
「何隠してるの」
「かっ……くしてなんか、ないしっ」
「鞄の中身そんなにかき回しておいて?」
「うっ」
 図星ですと言わんばかりに言葉に詰まった彼女に、僕はニイッと笑ってみせる。今日が何の日かは知っている。そして、彼女が何を隠しているのかもわかっている。
「なーに、みきちゃん、鞄の中にあるものは」
「なっ、何でもないっ」
「へえ……じゃあ僕もう帰っちゃうよ?」
「いっ、意地悪っ! じゅんくんの意地悪っ! 最低! 馬鹿! 間抜け! とんちんかん!」
「おうおう、言ってろ言ってろ」
「あんぽんたん! 馬鹿! あほ! どじ! でべそ!」
「何ちゅう低レベルな罵り文句……」
「う、うるさいっ! じゅんくんなんか、じゅんくんなんか……」
「うんうん?」
 あわあわと唇を震わせて、彼女は次の言葉を宙から探しているかのように目を泳がせる。そんなところに答えは浮いてないだろう? 僕はにやにやと笑ったまま彼女の頬を両手で挟んでこちらに強引に向けさせる。
「むむむむ……!」
「はいはい、ちゃんとこっち向いて」
 彼女の潤んだ目に、僕の顔が映る。
 掌の中の頬が、熱い。
 柔らかなその頬は、何かを訴えるような眼差しは、少し突き出た艶やかな唇は。
 確かに、僕の両手の中に、ある。
――で、じゅんくんが何だって?」
「……意地悪」
「もっと正直に行こう」
「……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
「待て待て」
「ばーかばーか! タンスの角に足の小指ぶつけて三時間動けない弱虫! 八掛ける三を二十一って間違える大学生! テスト用紙に名前書き忘れて零点取ったことがある正真正銘の馬鹿!」
「こういうシチュエーションをぶっ壊すの、ほんと君得意だよね!」
「むぎゅううう」
 思いっきり頬を挟み込む。唇をとがらせた彼女がムームーと牛のように抗議の声を上げた。全く何なんだこいつは。可愛げが欠片しかない。
 呆れる僕と暴れる彼女は、その後仲良く手を繋ぐ――わけもなく、罵り合いながらテーマパークを後にするわけだけれど。
 こんな日々がずっと続くものだと、僕らは証拠も根拠もなく、疑うこともあえて口にすることもなく、そう思っていたらしかった。

***

「今日、友達と一緒に遊んでくるんだ」
 墓石の前で、彼女はそう言って笑っていた。
「……去年から、ずっと行ってなかったの。じゅんくんのせいだよ」
 そりゃ悪い。そう言いたいけれど、肉体を失った僕には声帯という器官もなくて、空気を震わせる道具も何も持ち合わせていないのだった。
「ホテル前で、コンビニに寄ろうとしてはねられるなんて、ほんと運悪いんだから、じゅんくんは」
 そうなんだよなあ、僕、何でかいっつもツイてなくて。みきちゃんにも散々迷惑かけたなあ。
「去年の今日だって、乗ろうとしたアトラクション全部一時間近く待ってさ。私達が並んでない時は十分待ちとかなのに、何でか私達が並ぼうとすると人が集まってきて。才能だよ、迷惑以外の何物でもないけど」
 そればかりは僕のせいだけじゃないと思うんですけどね。
「……今日も、バレンタインデーだよ」
 ――でも、じゅんくんは甘い物苦手だったものね。
 そう言った彼女の微笑みは、白い朝日に照らされているせいか、ひどく疲れているように見えた。
 彼女は時間が余ると僕の所に来る。だから、いつも僕は自分の墓に腰掛けて待っている。死んでからというものの、僕は自分の存在の手軽さに感動していた。電車にただ乗りできるし、壁を通り抜けてショートカットできるし。これなら女性のスカートの中を覗くことも、女風呂を覗くこともできる気がした。けれど、残念ながら僕のように実体を失った女性達が目を輝かせていて、子孫達の周囲を固めている。僕達男性の卑猥な妄想の実現を見事に遮っているので、未だに覗いてみたことはない。こういう存在になってはじめて、生者って死者に守られているんだなあって思うようになった。
 そんな僕だけれど、滅多に墓の傍を離れることはない。彼女が来てくれるからということもあるが、万一に彼女に僕の姿が見えてしまったら可哀想だからだ。彼女はああ見えてオカルトの類は大の苦手だったから。
 けれど、たまに、本当にまれに、彼女の様子を見に行くことがある。
 だから、知っている。

***

「時間、まずいなあ」
 純也の墓参りを終えて、私はすぐに待ち合わせ場所へ向かった。急げばぎりぎり間に合う。大丈夫、大丈夫……たぶん。
「あ、来た来た。美紀子ー!」
 遠くから知り合いの高い綺麗な声が聞こえてくる。名前をそんな大きな声で呼ばないで欲しいものだけれど。ちょっと熱くなる顔を風で冷やしながら、私は急ぎ足で待ち合わせ場所である公園に急ぐ。視界には彼女達の姿が見えていて、真矢が大きく腕を振っていた。
「やっと来た! 遅いよーもう。美紀子が最後だよ」
「ごめんごめん、ちょっと、ね。……えっと」
 ちらりと見上げれば、見慣れない男性が三人、私に微笑んでくれている。真矢の知り合いだという。何だか合コンみたいだなあ、と私は全員を見回した。女性三人、男性三人。うん、完全に合コンだ。
「真矢、えっと、こちらは?」
「ああ、紹介するの忘れてた。あたしの彼氏の卓実と、卓実の友達の誠司さんと葉月さん」
 どうも、と頭を下げながら名前を確認する。ああ、本当に合コンみたい。
 ――じゅんくんが知ったら、どんな顔するだろう。
 不機嫌そうな彼の顔を想像して、私はくすりと笑ってしまった。純也は、何だかんだ言って私を拘束しない。口では何だかんだ言うけれど、結局は私の意志を尊重してくれた。
 そんなところも、好きだった。――今でも、好きだ。
「もう時間だから、行こうか」
 七海ちゃんが緊張した声で言う。そうだね、と七海ちゃんの声を打ち消すほどの豪快な声で真矢が頷く。真矢は活動的だ。対して七海ちゃんは大人しい。二人が友達だというのは、何だか不思議なものを見ている気分になる。
「あ、みんなにちゃんとバレンタインのお菓子持ってきたんだからね! あとで交換しよ!」
「交換なのかよ……オレ達も?」
「いや、卓実達はいいや。一ヶ月後に三倍返ししてもらうから」
「三倍……三人分掛ける三……うっ、僕、ちょっとお腹が」
「葉月さんの演技下手、本当なんだね……卓実、疑っててごめん」
「だろ? こんなにひっどいもん滅多に見れないからな、美紀子ちゃんも七海ちゃんもしっかり見とけ」
「やかましいわタク!」
 賑やかな笑い声に包まれながら、私達は公園を後にする。私はあえて振り返らなかった。
 振り返った先に、今も公園で待っている純也の姿があるような気がしたから。

***

 伸ばした先に触れていたはずの彼女の髪は、するりと僕の手を抜けていった。そのまま彼女は友人達と共に公園を去って行く。歩みに従って左右に揺れる髪は、朝日を移して輝いていた。ずっと触れていたいような、そんな輝き。けれど感触すらわからない僕の手は、彼女を引き留めようとしているかのように中途半端に伸ばされたまま、宙にとどまった。
 遠ざかっていく彼女の背中、髪。
 ――知っている。
 僕は死者で。
 彼女は生者で。
 僕は、もう、彼女の隣で彼氏を名乗ることができないことを。
 彼女の鞄の中に潜んでいるプレゼントの一つさえも受け取れないことを。
 どう頑張っても生者には敵わないことを。
 ――彼女が僕以外の人を好きになることを止めることができないことを。
 そして。

 朝日が僕を照らし出す。目を閉じれば、光の残像のように曖昧な輪郭をした白く輝く君の姿が、瞼の裏に映り込んだ。


▽解説

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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei