短編集
28. 永久保存 (1/1)
科学とは素晴らしいものである。ありとあらゆる生物へ富を運び幸福を呼び覚ます。代表されるのは医学だろう。医療の進歩は人類へ長命をもたらした。長命を得た人類はさらに健全たる人生の実現を求めた。すなわち、病気の撲滅である。
「はあ?」
研究室の電話口で叫び、亜希子はハッと我に返った。じとりとした同僚の視線を背中に感じる。まずい、今彼が手を付けているのは超巨大プロジェクトだ。ただでさえ真面目な彼は、もう消えないだろう眉間のしわをさらに増産しながら、過去の論文を漁っている。神経質な性分に磨きがかかって、さらに面倒な人物へと成り果てていた。
「あ、いや、えっと、また後で電話する」
振り切るように電話を切り、亜希子は受話器を抱えたままそっと背後を見やった。やばりジットリとした目がこちらへ向けられている。
「中山くん」
「あー田村くん、ごめんなさい、ごめんなさい。今度から気をつけるわ。えっと、ほら! 早くしないと期限がまずいんでしょ?」
誤魔化すように笑みかけながら、亜希子はくるりと背を向けて自分の席に座り直した。電話を机の上に置く。
科学の発展はあらゆる一般市民に恩恵をもたらした。昔は一日に一件は必ずあったという交通事故も、現在は希少な現象となっている。通信技術の発達は目まぐるしいほどだった。パソコンはとうの昔に姿を消し、現在は空中投影した画面がパソコン代わりとなっている。
そんな科学技術の発展とは裏腹に、亜希子の机の上には紙の束が山になっていた。その山に埋もれるように、旧式の手のひらサイズの薄い電話機器がある。今や電話など使うものではなく、空中投影式パソコンでネットを介して連絡を取り合うのが普通だが、亜希子のように一部の人間に対しては旧来通り電話回線を使って連絡を取る人も一定数いるのだった。
「中山くん」
「はいー?」
「そっちに長谷部博士の論文集はないか。データが見つからない。紙のはないだろうか」
「長谷部さんの? えーっと」
がさごそと机の上を掻き漁る。途端、紙の山が大雪崩を起こした。床にばさばさと紙や本が落ちていく。
「あーあーあーあー……あった、これだ」
崩れた山の中から顔を出した冊子を引き抜き、背後の席の田村に渡す。ありがとう、と呟くように言って彼は素早くそれを受け取った。
「助かる。やはり紙の資料は突然消えることがないのが便利だな」
「いつも『探すのが大変だ』とか言ってるくせによく言うわ……」
呆れ半分の亜希子の声に耳を貸さず、田村は顔を冊子に近付けて沈黙している。ああなると何の話も聞かないのが田村だ。良く言えば集中力かあるか、悪く言えば自己中心的で協調性がない。
けれど、と席を立ちながら亜希子は思う。
もし――もし、田村達のプロジェクトが成功したら、そんな人間がいなくなるかもしれないのだな、と。
***
電話を片手に研究室を出て、亜希子は静かな廊下を歩いていた。直方体を延々と伸ばしたかのような、見栄えのない単調な廊下だ。だが、壁のどこかには監視カメラが設置されている。カメラに映らないように行動する犯罪者が近年増加したため、監視カメラを壁に内蔵する施設が増えていた。住民からそれなりの反対はあったが、迷宮入りかと思われた難解事件が内蔵カメラのおかげで早急に解決してからというもの、反対の声は薄れている。
『科学の発展ってすごいよね』
先程の電話を思い出し、亜希子はふと手の中の板状の電子機器を見た。
『そうそう、君の研究室の人、あのプロジェクトに参加するんだろ? まさか人格を根本的に矯正する技術の開発が始まるとはねえ。ま、今までだって性欲の消去や食欲の操作、色んな研究の成果があるんだ、すぐに完成するだろうよ』
研究者本人である田村くんが、人格に難ありなんだけとね。そう答えると、電話の向こうの声は朗らかに笑った。
『人格の矯正ができたら、今度こそ平和な世界になるね。ああでも、また人権問題として取りざたされるのか。犯罪の減少と世界平和は比例するのに、世界平和と人々の幸福は比例しないのは実に興味深いね。……ねえ、亜希子』
何、と答えた亜希子の耳に、囁くような問いかけが聞こえてくる。そして亜希子は、思わず大声を出してしまい、田村に睨まれたのだ。
なんで、突然あんなことを。
疑問を胸に、亜希子は廊下を歩く。無機質な直方体に生えるように備え付けられた階段を降りて、また廊下を歩く。亜希子の研究室から少しばかり離れた実験室に、亜希子の電話の相手はいるはずなのだ。
目的の実験室はくもりガラスの向こうからささやかな明かりが見えるだけで、いたって静かだった。明かりが見えなければ人がいるとも思えなかっただろう。亜希子はドアの前に立ち、ボタンを押した。一瞬の指紋認証と共にドアがスッと横に動く。迷わず部屋に入った。
実験室の中は机上の明かりが一つ点いているだけで、窓に黒いカーテンが引かれた室内は夜のように暗かった。カーテンと同じく黒いテーブルには未使用の試験管やビーカーが並んでいる。テーブルは三つあった。手前から奥へ、長い辺を隣にして一定間隔で並んでいる。一番最奥のテーブルに、亜希子の探していた人影があった。
「達也」
名前を呼べば、背を向けたまま、彼はクスリと笑った。テーブルの上の試験管を一つ手に取り、目の高さで軽く揺らす。蛍光色の液体がチャプンと音を立てた。
「ねえ、亜希子」
クスクスと肩を揺らしながら彼は振り向いた。見慣れた、しかし少しばかりくすんだ顔が亜希子の目に映る。
「答えは?」
「答えも何も、言っている意味がわからなかったわよ」
苛立ちを少し見せる声で言うと、なあんだ、と彼は肩をすくめた。
「そうなの」
「どういうこと? わざわざ電話してきたと思ったら、君は僕を愛し続けられるのかいって。仮にも夫婦だけれど、そんなの関係ないじゃない」
「妊娠せずに子供を授かるのが主流になった今では、夫婦というのは不確かな絆でしかない。僕達もそう、結婚した方が生活が楽だから結婚しただけ。保障がたくさんあるからね。自然妊娠が主流だった頃の名残りを政府が放置しているからこうなる」
「……相変わらずわけがわからないわね、あなた。何が聞きたいの?」
「そのままだよ。君は、僕を愛し続けられるのかい」
「愛し続けるったって……私達、そんな関係じゃないでしょ? 保障がつくし、科学研究者同士の結婚ならさらに生活が保障されるし、お互い恋愛に興味なかったから結婚したんじゃない」
科学の発展は人類の生活を変えた。命と生活に危険をもたらす自然妊娠は、本人の希望がない限り行われなくなった。それに伴い、全世界の人類の脳から性欲機能が削除されている。おかげで、痴漢も強姦もゼロになった。あらゆる科学技術は世界平和のために尽くされている。
科学は人のため、世界のためにあるべき。それは全人類の合言葉だった。亜希子達もその合言葉の元に研究を進めている。研究を補助するため、国からは研究者へ最上級の保障が与えられていた。研究者同士の結婚もその一つだ。生活費のほとんどを国の税金が補ってくれる。こんな魅力的な保障を受けない人がいるだろうか。
「ねえ、亜希子」
カタリと試験管を置き、達也はふと真顔になった。その横顔にドキリとする。達也はいわゆるイケメンで有名な研究者だ。凛としていて、朗らかで、屈託がない。人気の高い研究者だった。けれと彼には恋愛願望がなく、研究者で同じく恋愛願望がない女性は亜希子だけだった。研究者の同性婚は保障外だ。だから、結婚した。それだけの関係なのに、時々、例えば名前を呼んでくる声だとか、ふと見せる表情だとか、そんな些細なことに亜希子は目を惹きつけられることがよくあった。
「人格の矯正は何をもたらすんだい?」
「世界の平和でしょ。テロリストも気違いもいなくなるわ。あなただって言ってたじゃない、今度こそ平和な世界になるねって」
「人格が変わると、心も変わるかな」
「また脈絡のないことを……そうでしょうね。心をどう定義するかにもよるでしょうけど。一般に、心はその人自身の感情を支配する架空器官だわ。感情は人格に起因する。なら、人格が変われば心も変わる」
「君は怖くないの」
感情のない顔のまま、達也が亜希子を見つめる。揺れることのないその目から、亜希子は視線を外せなかった。なぜだかはわからない。縫い止められたかのように、ずっと見つめていたくなったのだ。
達也のそばにいると、時折こうした理解のできない感情が湧き上がってくる。それが亜希子には鬱陶しかった。研究者たる自分が、自分のことを理解していない。それは屈辱でしかなかった。
「怖いわけがないじゃない。さらに平和になるのよ? もう事件も事故も起こらなくなる。誰も殺されず、誰も悲しまなくなる。素敵じゃない」
「……怖いよ」
「え?」
「怖いよ。この心が、君のその心が、消え失せて無になる……嫌だよ、だって」
見つめていた目に揺らぎが起こったのはその時だった。わずかに寄る両眉、歪む口元、潤む瞳。
「――僕は君のことを愛しているんだ」
何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
「結婚してからだいぶになるけど、その間、徐々に君のことが好きになっていったんだ。恋愛とか正直嫌悪もしていたけど、でも亜希子と話すのは楽しかったし、亜希子の笑う顔は可愛いし、一緒に研究していきたいと思った。だから、今回のプロジェクトは怖いんだ。もし成功したら、きっとまた全世界の人間に適用される。あらゆる不穏分子を、予備軍もひっくるめて全削除するために。そしたら、僕は、亜希子は、今の僕達と違う人間になってしまう。そうしたら、僕のこの気持ちはどうなる? 怖いよ……いっそ成功しなければって思う」
さらりと告げられた言葉に、亜希子は凍りついた。空耳だと思った。空耳であってほしいと思った。
「――成功、しなければ?」
自分でも驚くほど冷ややかな声が喉を震わせる。達也が驚いたようにこちらを見返した。けれど、謝る気も、言い訳する気も、ない。
「成功しなければ? あなた、それでも研究者なの? 世界平和のために尽くすのが研究者の努め、なのに何ふざけてるの?」
「ふざけてなんかない! 僕は今の君が好きなんだ、愛しているんだ。失いたくないんだ!」
叫んで、達也は亜希子へ掴みかかる。避けるより早く両肩を強く掴まれた。そして、強引に抱き寄せられた。
「嫌だよ……君を、失いたくない……世界の平和より、君を、君を愛する僕を、守りたい……!」
泣き叫んでいるかのような、震える声。
そうか、そうなんだ。この人は。
亜希子は達也の鼓動と共に聞こえてくるそれに呆然としていた。
***
数ヶ月の期間を経て、プロジェクトの成功が全世界に報告された。世界平和の最終形態ともうたわれる今回のプロジェクトは、今までのプロジェクト同様、全人類に適用されることとなった。
その報告を聞き、亜希子は実験室で一人微笑んでいた。
「やっと成功、か。思ったより長かったわね」
黒いテーブルの上に置かれた瓶を前に、亜希子はクスクスと笑った。亜希子の反対側では、男性が一人、うずくまるように椅子に座り込んでいる。テーブル越しにその顔を覗き込みなから亜希子は笑った。
「楽しみね? 達也」
「うん」
顔を上げ、彼はこくりと首を動かす。
「そうだね」
その笑みの一つもない表情に、亜希子は満足そうに頷いた。そして、テーブルの上の瓶へ手を伸ばす。
黄色い液体に浮かぶ、黄色い物体。柔らかそうなそれは少し長めのイモムシを思わせる。
「あなたの病気も治ったし、さらに世界が平和になるわ」
瓶の中の物体に亜希子はクスリと笑う。
「科学は全ての病気を撲滅するために進歩しているわ。胃、腸、肺、心臓、脳。ありとあらゆる器官の病を完治できるまでになった。あなたの心の病も治ったことだし。突然愛だとか好きだとか世界平和より君を守りたいだとか、変なことを言うからびっくりしちゃった。心が病んでたのね。でももう大丈夫、切り取っちゃったから。ああでも、切除しか方法が取れなかったのは残念。患者であるあなたが心を失うのを嫌がったから、こうしてあなたの心――正しくは、心を司る脳の部分だけれと――そのままを切除して保存するしかできなかったの。だって科学は人の幸福のためにあるもの、人の願いを叶えるためのものなんだもの。あなたの願いを聞き届けずしてあなたは幸せになれないから」
これで、あなたの心は永久に変わらない。亜希子は瓶の中の欠片と目の前の男性を見比べて微笑んだ。これであなたはあの時のまま、あなたのまま。
あなたの願った通り、あなたの心はあなたのまま、私のそばに居続けられるのよ。
よかったわね、あなた。心のイカれた私の夫。
2015年11月22日作成
お題「あなたの心をホルマリンに漬けた」より。SFっぽい? ある意味両片思いが成就した感じです。ディストピア的な世界観は読むにしても書くにしてもけっこう好きだったりする。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei