短編集
27. 小さな弓道場の話 (1/1)
小学生の頃、実家の近くには弓道場があった。誰も使っていないような、小さな弓道場だった。初めてあの場所に行った次の日に家族や近所の人に訊いてみたら、そんな場所は知らなかったと言われた。好奇心旺盛な私でさえ、ある日の下校途中にトイレに行きたくなっていなければ、あの人気のない古い建物を訪ねることもなかったのだ。そのくらい存在感の薄い場所だった。
そんな場所へ寄るようになった私を、いつでも出迎えてくれる人がいた。弓道を知らなかった私にいろいろ教えてくれたのもその人だ。私が出入りする建物が射場で、向かい側の土の積まれた建物を的場と呼び、二つの建物の間の芝生を矢道、土の壁を安土と呼ぶことや、彼が着ている着物は弓道をする人の正式な練習着であること、その他様々なことを教えてくれた。
「的の高さは、人間の膝下あたりだ」
そう言って彼は拳を作った左手を体の横に突き出し、左右に振った。
「弓は元々戦場の道具だけれど、なら何故人間の頭や胸の高さではないのか? 足を射貫く方が敵を多く減らせるからさ。足に矢を受けた仲間がいたら、その人の介抱に他の人が向かう。その分戦える人間の数が減る。つまり、効率的に敵の頭数を減らせる」
私はただ頷いていた。弓道を知らない私にはよくわからなかった。
「昔、権左右衛門という人がいてね」
そう言って床に胡座をかいていた時もある。
「とても中らない人だった。引いても引いても、矢はあちこちに飛んでいく。ある日権左右衛門は蚤を藁にくくりつけて、それを天井にぶら下げた」
「ノミを?」
「そう、わらしべ長者みたく。それでね、何日も何日も、じーっと蚤を見続けていた。そうしたら、だんだん、蚤が大きく見え始めたのさ。爪先程のが、爪程に、そして掌程に、そしていよいよ的程に」
体の前で木を抱えるような仕草をして、彼は笑った。
「急いで権左右衛門は弓を引いた。蚤が的程に見えたんだ、的はどのくらいになっていたと思う?」
こんな、と彼は体を仰け反らせて両腕を一杯に伸ばし、空中に大きく円を描いた。
「もう、狙う必要がない程にさ。権左右衛門はしめたとばかりにばんばん中てた」
「嘘お」
「嘘かどうかはひとまず、中てるには強い執念が必要だって話だよ。蚤を何日も睨み付ける程のね。執念といえば、もう一つ面白い話があるよ。父を熊に殺された男がね、来たる日のために弓を極めていた。ある日森の中でとうとう仇の熊を見つけ、男は長年の憎しみをこれでもかと込めてその熊を狙い、射た。矢は見事に的中! 男は喜んで熊の死体の元へと走った。けれど熊は見あたらない。見つけたのは熊の形をした岩だった。見間違えたんだ。その証拠に、男が放った矢がその岩を真っ二つに割っていたという。まさかと思って岩に矢を射てみると、もちろん弾かれる。強い思いがあったから岩をも割ったんだ」
そう話す彼は、とても楽しそうに笑っていた。
「弓道には射法八節というのがあってね。流派によって細かい部分は違うのだけれど、大筋は同じなんだ」
そう言って弓道ド素人な私に射法八節を教えてくれたこともある。
「残身というのは体の延長線上に弓が来なくてはいけない。残身は行射の余韻ではない。防御の姿勢なんだ。弓というのは、引く時に物陰から身を乗り出して、自分の姿を正面の敵に無防備に晒す必要がある。だから引いている最中やその直後に正面の敵から自分に向かって矢が飛んでくる時がある。そんな時、脇腹とかの急所を守るために、弓を自分の盾にするんだ。だから残身では弓手を振ったり緩めたりして弓を自分の正面からずらしてはいけない。殺されたくないのならね」
物騒なことを言う時も、彼はにこにことしていた。
けれど時々、ため息をついた時もあった。
「昔はよく人が来たんだけどね」
以前はとある弓道会の拠点だったらしい。今は別の弓道場に移ってしまったのだという。
「人がいない建物程早く廃れる。人が住んでいる家は何十年ともつのに、誰もいなくなった建物は数年も経たない内に取り壊さなくてはいけなくなる。ここも、だいぶぼろぼろになってしまった」
埃だらけの神棚を見上げてそう呟く彼に、そうだね、とはさすがに言わなかった。その代わりに、私は弓道の話を持ち込む。その話題を口にする時だけ、彼が確実に明るい顔になることに、さすがの幼い私も気付いていたのだ。
この小さな弓道場にどのくらい通ったのかは覚えていない。けれどいつの日にか寄らなくなった。学校行事や部活に忙しくなって、いつの間にか彼のことも忘れていた。けれど彼との出会いは私に何かを与えたようで、気付けば数年後の私は高校の弓道部に入って、弓道を楽しんでいた。
高校生になってしばらくした後、あの小さな弓道場をふと思い出して、何年振りかに訪ねてみることにした。家からさほど遠くないその弓道場への道のりを、掠れている記憶を掘り起こしながら進む。たどり着いた先にあったのは更地だった。「誰もいなくなった建物は数年も経たない内に取り壊さなくてはいけなくなる」。なるほど、あの言葉は誰にでもない、小さな弓道場への言葉だったらしい。
あの人はどこへ行ったのだろう。名前も住んでいる場所も知らない彼のことが妙に気になった。けれどもう会うこともないのだろう。あの頃より幾分成長した私は、埃だらけの神棚を見上げる寂しげな顔を思い出していた。
2015年11月22日作成
大学の弓道部の年度末に書かされる冊子への寄稿。A4一枚以上で内容は何でも良しだったので(ゲーム実況の人もいたしラーメンの食い方についての人もいたしひたすら二次元の嫁について語っている人もいた)最後の年は小説にした。とはいえ書いてある内容は高校の時のコーチから聞いた話。的の高さの話も岩を砕いた話も的が大きく見える話も全部その人から聞いた逸話です。弓具店の店長さんで、弓具の話だけじゃなく弓道全般の話に明るかった。
人が使わない建築物は廃れるのが早いという話はけっこう有名なんじゃなかろうか。ちなみにこのお話の”あの人”は弓道場の神様でした。弓道場がなくなったら神様はどこに行ってしまうのだろうね。
Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.
(c) 2014 Kei