短編集 -五月の雪
3. 壊されたもの (2/2)


「……え」
 予想だにしなかった表情と言葉に体が硬直する。その隙に、そいつは僕の突き出していた手を大きな手で掴んできた。手首を引かれ、思わず一歩踏み出してしまう。その勢いのまま、こいつはあろうことか廊下へと僕を引きずっていこうとした。
「ちょ、待っ……!」
「トイレ行こうぜ、トイレ。連れションってやつ」
「はああっ?」
「あ、俺、皐月彰人な。彰人って呼んでくれて良いから」
 必死に抗う僕をものともせず、そいつはぐいぐいと教室の外に僕を連れ出す。
「あ、アキチャンでも良いよおん」
「だ、誰がそんなふざけた呼び方するもんかっ!」
「ははっ、ほんと面白いなーお前。さっきの演説といい」
「えんぜっ……!」
 カッと顔が赤くなったのを感じる。怒りの限りを言い尽くした言葉を演説と表現されるなんて。
 心外だ。
「そうそう、お前名前なんだっけ。――あ、だ。そうだろ」
「わかってたなら訊かないでよ」
「今思い出したんだってば」
 人の良い笑顔のまま、そいつは肩越しに振り返って笑う。
「じゃ、よろしくな薫!」
 息が詰まりかけた喉を堪えて、そいつを思いきり睨み付ける。
「何がよろしく、だ」
「俺達親友じゃん?」
 何でこの数分の間でそうなるんだ。
 シンユウっていうのは、もっと、特別なものじゃないのか。
 こんなに簡単なものじゃないだろ。
 こんなに簡単なものなら、もっと――もっと、僕はシンユウを持っているはずだろう?
――ふざけるなよ、いい加減!」
 耐えきれなくなって、引かれていた手を思いきり振りほどいた。あっけなくあいつの手は外れる。廊下の真ん中で僕とあいつは対峙した。驚いて何も掴んでいない自分の手を空中に留めているそいつを、僕は精一杯睨み付ける。
「何なんだよあんた! 好き勝手言うし、勝手に決めつける! うっとうしいよ!」
 言い放ちながら、掴まれていた手首をもう片方の手で握り込む。手のひらの下で、自分のものとは違う温度と掴まれていた圧迫感の名残が静かに消えていく。気持ち悪かった。まるで他人の使用後の湿布を置かれたみたいだ。吐き気と寒気に体を震わせる。
 気持ち悪さを消そうと懸命に手首をさする僕に、ようやく手を下ろしたあいつは、神妙な顔で僕を見下ろす。
「薫」
 名前を呼んでくる声はいたって穏やかで、そのせいか明確に聞き取れた。心臓が大きく痛む。
「……っ」
 ――最後に下の名前を呼ばれたのは、いつだったろうか。
「何!」
「言いたいことははっきり言えよ」
「は……?」
「そうやって寂しそうな、つらそうな顔してないでさ」
 冗談ではないと明確にわかる顔で、そいつは告げてくる。
 何を言っているのか、わからない。
 僕は、そんな顔をした覚えはない。こいつに、今だってこうやって、言いたいこと全てぶつけている。何が不満なんだ。
 戸惑う僕に、そいつは再び手を差し伸べてくる。
――いっつも一人で、ずっと勉強ばっかしてて、でもさ、たまに、本当に時々、ふと寂しそうな顔をしてるんだよ、お前。自覚ないかもだけど」
「自覚も何も、そんなわけがない」
「自信満々なのな」
 そいつはようやくニッと笑んだ。その笑みを見た瞬間、一気に体の力が抜けたのを感じる。――なぜかはわからない。けれど、確かに僕はこの時、こいつの笑顔を見て安心したのだ。
 なぜだろう。
「ま、そうなのかもな」
 楽しそうに笑って、そいつは言う。
「薫が怒ることもあるってこともわかったし。あ、演説良かったぜ」
「えんぜっ……演説って言うな!」
「あ、照れてる?」
「んなわけあるかっ!」
「あははっ、薫って面白いのな!」
「うるさいっ!」
 廊下にいる生徒達の視線を一身に浴びている居心地の悪さと、演説とまた言われたことに顔が熱くなる。こんなはずじゃなかったのに。誰かと言い合うつもりも、誰かの視線をずっと浴びるつもりもなかったのに。
 何もかもが思い通りにいかないのが、不快だ。
 朗らかに笑うあいつを睨み付けつつ、僕はずっと手首をさすっていた。

***

 誰もいない夕暮れの教室の中、ふと聞こえた声に薫は目を開いた。
「薫!」
 ばたばたと一人の男子生徒が駆け込んでくる。教室の中の静寂はあっという間に壊れた。当初は不快に感じていた、あっけなさ。
 ――最初にこの騒々しさを受け入れられたのは、いつだったろうか。
「帰ろーぜ!」
「……朝からずっと、一緒に帰らないと生ピーマン食わせるって脅しておいて、いざ放課後になったら先生の説教を受けに一時間職員室に籠もって僕を待たせ続けるなんてさすが。感心して涙が出るよ」
「真顔で言わないでカオルチャン……怖い」
「先々週の週末課題をまだ出してないんだから、自業自得」
 そう言えば、彰人は、うええ、と奇声を上げて項垂れた。そんな彼を眺めつつ、薫はふと自分の手首をさする。
 あの日のぬくもりの名残は、もうない。
 けれど。
「……彰人」
「ふえ?」
「僕帰る」
 鞄を持って彰人の横を通り過ぎ、廊下に出た。数秒後、ばたばたという音が迫ってくる。
「待って待って待って置いていかないで!」
「じゃあ早く来い」
「てゆーかカオルチャンってば一時間ずっと待っててくれてたのね」
「……だって生ピーマン嫌だから」
「そう言っちゃって、照れてるんでしょー?」
「照れてないし」
「いやーん、カオルチャンってば優しいんだからあっ!」
「気持ち悪いから半径一キロ以内に入らないで」
「待ってごめん許してごめん薫お願いだから待って置いてかないでください薫サマっ!」
 彰人を完全に無視しつつ、すたすたと歩く。
 あの日の気持ち悪いぬくもりの名残は、もうない。
 けれど、確かに。
「かーおるっ!」
「くっつくなうっとうしい邪魔だ暑苦しい」
「酷っ」
 ――確かに、僕はあの名残を覚えている。


解説

2015年01月23日作成
 僕の心地良い毎日を、君はいとも簡単に壊してしまった。
 文藝屋「翆」さんからのお題「確かに誰かに触れていた手」より。
 薫も彰人もそういう生き方をしなきゃいけない事情があるんですけど、それって彼らに関わらず誰にでもあるんですよね。そういう「どこにもある、誰にもある」ものを描くことは当時から大切にしようとしていました。
 今読み返してみるとどうにもしっくり来ないこのシリーズなんですけど、会話を書くのは楽しかったなあと思います。キャラ造形がね、個性ないよね。当時の私もキャラ個性のなさに頭を抱えていました。世界観も普通だし二人の関係もよくあるし…なんだかうまくいかないなあと思いながら、それでも固定の二人組で会話文を重ねていくのは楽しくて、とりあえず書いていました。


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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei