短編集 -五月の雪
3. 壊されたもの (1/2)


 いつもひとりだった。教室で、家で。その状況を不便に思ったことも寂しく思ったこともない。けれど、たまに、本当に時々、思うことがある。
 ひとりじゃないって、どんな感じなんだろう。

***

「今日のテストの最高得点は雪下の百点満点だ」
 小学校中学校と、テストが返却されるたび、教師はなぜか誇らしげにそう言う。そのたびに皆の感嘆の呟きと物言いたげな視線が集まってきた。その視線に気付いていながらも、僕はいつも気付かないふりをして黙々とテストの解き直しをする。照れたり、得意げにしたり、謙遜したりなんてしない。何も聞いていないかのように振る舞っていれば、誰も何も言ってこない。
それは、長年の経験だ。
 小学校の時から今まで、ずっと成績は良かった。小学生のテストなんて満点が当たり前なのだろうが、さすがに中学でも全てのテストが満点だったのがいけなかったらしい、皆の視線が変質したように感じたのを、今でもはっきりと覚えている。
 ――また百点だって。
 ――天才だもんな、雪下は。
 ――いつも勉強してるよね、雪下君。
 ――あいつは俺達と違うからさ。
 単なる「凄い」という感想ではなくなった声。それに耐性がついた時には、既に周囲に友人と呼べるような親しい人はいなくなっていた。
 誰だって、異質なモノとは関わりたくないものだ。

***

 地元の公立高校に成績トップで入学した時は、既に噂は広まっていたようで、なれなれしく話しかけてくる物好き以外は僕を避けているようだった。その物好きも一週間もすれば、居心地悪そうに僕の席を遠巻きに眺めるようになっていった。
 むしろ好都合だった。一人黙々とノートに数式を書き込んでいくのが好きだったし、同年代とはいえ子供特有の下卑た笑いがどうも苦手だったからだ。バンドのごちゃごちゃした音も苦手だから、きっと様々な音が同時に掻き鳴らされる環境が駄目なんだろう。
 入学直後のテストが返却された時も、教室の中はざわざわと点数についての呟きが何重にもなっていて、僕は眉をひそめて耳を塞いでいた。中学の時から付けている眼鏡がずるりと下がってくる。ふと静まった教室の中、手のひらを通して、お調子者の数学教師の声が僕の鼓膜を震わせる。
「最高得点は満点、二百点だった。ま、中学校の復習だからな、不可能じゃないよな。じゃ、さっき言ったように、きちんと解き直しをしておくこと!」
 次は頑張れよ、と他人事のようなセリフを言って、教師は授業の終わりを告げた。ざわざわとした教室のうるささは一旦失せ、起立、礼、と号令がかかる。それに軽く従いながら、僕は眼鏡を押し上げた。そして、机の上へ手を伸ばす。赤で書かれた二百という数字を隠すように答案用紙を折りたたんだ。
 休み時間になって生徒が立ち上がり談笑を始める。同じ中学校だったのだろうか、既に無駄話ができる友人と共に皆、テストの感想を言い合っている。その声を聞き流しながら、僕は次の授業の準備をしていた。
 机の上に影が差したのはその時だ。
「お前が雪下?」
 天井のいくつもの蛍光灯で照らされた薄い影が揃ってゆらりと揺れる。どうやら僕に話しかけにきた物好きらしい。
 このまま無視するのもなんだか気が引けて、しかたなく手を止め、眼鏡を押し上げつつその影の主を見上げた。
 元気の良さそうな、背の高い男子生徒がそこに立っていた。見たことがないから、他の中学校の出身だろう。日焼けが似合いそうな、勉強よりも運動ができるタイプに見える。
「……そうだけど」
 答えると、そいつはニッと白い歯を見せて笑った。
「そっか!」
 そうだと答えて、そっか、と言われたら、こちらは反応に困るではないか。噂を聞いたのだとか、中学校違ったよなとか、何かしら言うことがあるだろう。こいつは一体何をしに話しかけてきたんだ。
 ただただニコニコしているそいつを、僕は遠慮なく睨みつける。そんな視線に気付いた様子もなく、そいつは突然、何かを思いついたかのように両手を打ち鳴らした。
「そうだ! 今日さ、暇だよな?」
「は?」
「いやあ、返し忘れてたDVDがあってさ。返却日今日なんだよ。付き合ってくれない?」
「はあっ?」
 思わず大きな声を出す。が、周囲の目が少し集まっただけで、肝心のこいつには全く影響がなかった。笑みを絶やさず、まるで幼なじみに話しているかのように、親しげな口調を繰り出してくる。初めて話した相手にそれはないだろう。話と言っても会話らしい会話さえもしていないのに。
 何なんだ一体。無邪気なんて可愛いものじゃない。幼稚で、馬鹿で、そして。
「……礼儀がなってない」
「はへ?」
 僕の呟きが聞こえたらしい、そいつは奇妙な声を出して口をぽかんと開けた。その顔がどうにも阿呆らしくて、そんなこいつに真面目に対応している自分が馬鹿らしくて、上昇するエレベータの中での浮遊感に似た不快感が、頭頂へ向かって勢いよく押し寄せてくるのを感じる。
――そうだよ、礼儀だ」
 苛立ちを露わにした言葉は、僕の理性を押しやって刺々しく発された。その自分の声を聞いて、何だかどうでもよくなって、僕は感情に身を任せることにする。
 僕が何を言ってこいつが傷付こうが構いやしない。どうせ、こいつも僕のそばを離れていくのだから。
 ガタリと椅子から立ち上がり、背の高い相手を睨み上げる。
「あんた、礼儀がなってない」
 ああ、面倒だ。
「なぜ僕がそう思うのか教えてあげるよ」
 これだから他人は嫌だ。何もかも、自分の思い通りに動いてくれない。
「第一に、僕は君の友人でも知り合いでもない。それなのにそう馴れ馴れしくされるのは不快だ。第二に僕は暇じゃない。人のことを勝手に決めつけると後々トラブルを引き起こすことになる。今だってそうだ。第三に僕は君のDVD返却に付き合う義理もなければ理由もないし君と全く仲良くない。以上三点が君を無礼と判断した理由だ。異論は受け付けない」
 人差し指を真っ直ぐ向けて言い放つ。そいつはぽかんとした顔のまま、僕を見下ろしていた。そのまま立ち去ってしまえばいい。そのままの顔でも、呆れた顔でも良い。なんでも良いから、早くここから立ち去ってくれ。
「わかったなら他を当たってよ」
 もうごめんだった。自分の静かで心地良い環境を壊されたくない。どんなに馬鹿にされていたって、僕は一人の空間が好きだったし、そうじゃないと息苦しくてしょうがなかった。誰も何も言ってこない毎日を、僕は愛おしんでいる。
 愛しいものを安易に奪われてたまるか。
「もう僕の邪魔をしないでくれ」
 早く消えてくれ。一人にさせてくれ。
 どうか、僕から安息を奪わないでくれ。
 指差す先で、男子生徒は呆然としたまま突っ立っていた。その口がようやく物を言う。
「……そっか」
 その後に来るのは嘲笑か罵倒か嘆息か。何でも良い。去ってさえしてくれれば。
 そう思っていた僕の前で、あいつは――不意に、ニッと笑む。
「でも、今は暇だろ?」



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The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei