短編集 -五月の雪
5. 潮騒 (1/4)


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【 14:00- 】

 海の家のかたわらで一人佇む。簡易な建物は水着姿の人々で混雑していて、壁の時計を見れば、針は午後二時を指していた。ここに来てまだ一時間か。長いな、と呟き、はそっと目を閉じる。太陽が高い。日差しが暑い。眼鏡はパンダ焼けが嫌だからコンタクトレンズにした。そのせいで目が痛い。最悪だ、と思う薫の耳には、遠くからの海の音が聞こえている。
 海の音は特殊だ。大量の水と水とがぶつかり合って弾け飛ぶ音。それは爽やかというよりは荒々しい。だが怒り狂った教師がチョークを床に叩き付けるのとは質の違う荒々しさだ。硬質な物同士が衝突する音とは違う。掴みようがないはずの液体が、まるで固体のように、硬く重く、同じ質の物とぶつかる音。そう、例えるなら人の悲鳴に似ている。実物として存在していないはずなのに、発されたそれは強靱な針のように耳を通って脳に入り込み、脳髄を細やかに震わせる。掴むことすらできないか弱さを思わせながら、その実、したたかにぶつかり合って相手を破壊しようとする。
 潮騒。潮のざわめき。潮の悲鳴。体の奥底にまで響いてきて心の静寂を奪っていく、不快な音の連続。
「薫」
 ざわめきの向こうから声が聞こえてくる。聞き慣れたそれは、潮騒とは全く異なる質のものだった。穏やかで快活、破壊などという単語とは正反対の場所に位置する声。目を開けば、入ってきた太陽の眩しさの中で彰人が走っている。
「買ってきた!」
 嬉しそうに笑みながら彰人が持ってきたものを見て、薫は顔をしかめた。
「……何で」
「うん?」
「なんでかき氷なのさ。海の近くなのに」
「海の近くだからだろ」
 うきうきとそばに来、両手に抱えた二つの紙コップを輝く目で眺めている。コップからはみ出さんばかりに山盛りになった白い氷の屑には、片方はストロベリー、もう片方はレモンのシロップがかかっている。
「やっぱ暑い季節には冷たいものだな!」
「……水着一枚で海風に当たりながらそんなものを食べたら、お腹を下すだろうに」
「ん、うまーっ!」
 早速二つのかき氷を片腕に抱えつつスプーンを口に運んだ同級生に、薫はため息を一つつく。学校でも一人でいることが多い薫に、彰人はしょっちゅう世話を焼いてくる。兄弟がいないらしいから、薫を弟とでも思っているのだろうか。そのわりに行動が子供じみている同級生に、迷惑だな、と素直に思いながら、目を眼前に広く広がる青へと向けた。
 夏休みはやはり今年も訪れた。潮風に当たっていることと湿度の高い気候もあって、肌はざらりとした湿り気に覆われている。目に見えない薄い塩の肌を全身に纏っているかのような不快感。それを剥がそうにも、触れられないからできない、そんないらだたしさ。知らずもう一度ため息をつく。
「……帰って良い?」
「嫌」
「即答かよ」
「頭いでで……良いじゃんかよ長い夏休みのうちの一日くらい。付き合えって」
 かき氷に頭を痛めながら彰人が言う。その言葉にも薫はため息を返した。
「さっきからそればっかりじゃないか。こっちは忙しいんだ、課題もあるし、勉強もある」
「課題と勉強は同じじゃないのね……」
「課題は最小限やらなきゃいけないものでしかない」
「う、さすが県一の秀才。課題を最終日まで溜めて徹夜で片付ける組の俺には理解ができませぬわ……」
「それだから点数が上がらないんだ」
「そうぐっさぐっさ突っついてこなくても良いでしょーカオルチャンったらぁーもうっ」
「ちなみに睡眠不足はパフォーマンスの低下に繋がる。休み明けのテストの点数、普段も対して良くないのに、さらに下がるんじゃないか」
「痛い痛い、頭と胸が痛いいたたたた」
「これ以上下がったら塾通いになるって前言ってなかったか? 俺の自由時間がどうたらとか泣き真似していたじゃないか。やっぱりあれは嘘泣きか」
「泣き真似って断言してる時点で既にまるっとお見通しじゃないですか薫様」
「ちなみに今回は課題を見せるつもりないから」
「ごめんなさい許してくださいそれだけは勘弁してください」
 挙げ句頭を深々と下げ始めた。さすがに外ではその行動は目立つ。水着姿の人々の視線が集まり始めるなか、薫は慌てて彰人の上体を起こした。
「やめろって、目立つだろ」
「じゃあ課題見せて、ねっ?」
「何でそうなる」
「うっし決定! アキチャンの平穏な夏休み決定! いやっふう遊びまくれるぜい!」
 妙にテンションが高い。さっきまでの土下座しかけない様子が嘘だったかのように、彰人は紙コップを両手にぴょんぴょんと飛び跳ねている。これもこれで目立つので早急に止めさせないと。
 そう思った矢先、ふと彰人が動きを止めた。ようやく自分の行動の奇異さがわかったのだろうか、そう思った薫に、くるりと顔を向け、彰人は笑う。
「一つ、教えてやろうか、薫」
 嬉しそうな顔で、彰人は言う。嫌な予感しかしなかった。
「断る」
「いやそこ断らないで」
「断る」
「お願いだから聞いて!」
「じゃあ僕に選択肢を与えるなよ」
 言ってから、しまった、と思った。案の定彰人はにいやりと笑っている。
「じゃあ選択肢なしな。きっちり聞けよ」
「……話の内容による」
「選択肢はなしだって言っただろ? 夏だからな、怪談話だ」
 かいだん、と聞いて頭の中に思い浮かんだのは学校の中の階段だったのだが、さすがに違うだろうとすぐに打ち消した。
「えっと、怪談?」
「そ。たまには良いだろ? いっつもお勉強してる薫が、珍しく外出してて、しかもその行き先が海! 信じられないくらい青春! あ、夏だからセイナツ? まあいいや、ここまで来たら存分に夏休み気分を楽しまないとな!」
 そう言って、彰人は海へと目をやる。多くの人々が楽しそうに波と戯れている様子が見えた。今は太陽が一番高い時間だ。海岸は暑い砂で覆われている。対して海洋は比熱が大きいため、完全に暖まってはいない。未だに冷たい水は、夏のじめじめした暑さに嫌気が差した人々にはちょうど良い温度になっているのだろう。
「薫」
 向こうを向いたままの彰人の表情は見えない。だが、その顔に笑みではないものが表れていることは容易に想像できた。いつも笑っている彼が時折する表情だ。薫を眩しそうに、しかし悲しそうに見るあの眼差し。
 だがなぜだろう、今日のはそれとも少し違う気がするのだ。
「お盆の海に子供は近付いちゃいけないって話、聞いたことあるか?」
「……いや」
「お盆にはな、あの世の人達が帰ってくるんだ。大人も、子供も。……お盆の海では、海で死んだ子供が寂しくて同年代の子供を誘ってるんだってさ」
「へえ」
「興味なさげだな」
 ようやく肩を揺らして笑って、彰人は言った。
「だから、子供のうちは行けないけど、大人になってからお盆の海に行きたいなって思ってる」
「幽霊に会いに?」
 ふざけた彰人に付き合うつもりでもないが、自然とそう訊いていた。薫の問いに、彰人は、一瞬置いて頷く。
「会いたい奴がいてさ」



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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei