短編集 -五月の雪
5. 潮騒 (2/4)


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【 14:28- 】

 日差しが暑い。額に浮かんだ汗を拭っても、またすぐににじんでくる。海の家が近くにあるというのに、薫と彰人はその建物の影にも行かず、日差しの中に佇んでいた。奇妙に見えているに違いない。男子高校生が二人、しかも一方は明らかに不機嫌そうに眉をひそめていて、もう一方は神妙な顔で二つのかき氷を抱えていて。ちらり、ちらり、と視線を感じる。
「移動しよう」
 言い出したと同時に汗が顎の下を伝って落ちていく。知らない人の指がそっと顎を撫でていくような不快さだった。強引に拭って、薫は彰人を睨む。
「移動しよう。ここは暑い」
 かき氷も溶けているし。そう言おうとして薫は口を噤んだ。
 二つのかき氷。レモン味の方は彰人が食べている。もう一方のストロベリー味は手が付けられていなかった。食べる気配もない。薫にやるつもりならとっくの昔に押しつけてきているはずだろう。彰人の性格上、褒めて欲しがる子供のように、買ってきて早々に強引にでも食べさせようとしてくる気がする。だが、彰人の手の中で赤い氷は水の中に身を沈め始めている。
 手の付けられていないかき氷。そこに大きな理由がある気がした。
 そして、それを無視してはいけない気もした。
「移動しよう」
 もう一度言って、薫は彰人へ手を差し出した。
「落ち着いた場所で話を聞きたい」
 そう言った瞬間、彰人の顔に見たことのない表情が浮かんだ。真顔というには大きく目を見開いていて、驚きにしては泣き出しそうで、呆然としているにしては口をぱくぱくさせていて緊張感がない。
「……薫」
「聞いてやるよ、しょうがないから」
 親切心だろうか。自分の言動を不思議に思う。彰人の怪談話に付き合う義理も道理もないはずだ。だが、何故だろう、そう言わなければいけない気がした。
 同情か。そう呼ぶにしては柔らかな感情が薫の中にあった。他人に対して様々な感情を渦巻かせながらも親しげに対応するような、そんな難しいものとは違う。むしろ、飼っている動物の体についた虫を取ってやるような、そんな衝動的な小さな配慮に近い。
 手を差し伸べた薫に、彰人は二三度目を瞬かせた。そして、その表情をゆっくりと崩していく。
「……ツンデレおいしくいただきました! あざす!」
「やめた、やっぱ聞かない」
「冗談だってばカオルチャーン」
「帰る」
「待って待って帰らないでお願いしますっ」
 ずるずると背中のTシャツにへばりついてくる彰人を無視しながら、背を向けて歩き出す。どうやら対処の仕方が間違っていたようだ。
「帰る。帰るったら帰る」
「いやん待ってぇカオルチャンんっ」
「帰る。絶対帰る。帰る。他言は認めない」
「ふざけすぎましたごめんなさいいい!」
 砂を踏みしめる足と正反対の方向にTシャツが引っ張られる。破られたら弁償だな、そう思いながら足を強引に進めていると、彰人も必死なのか片腕を腰に回してきた。もう片腕は二つのかき氷を抱えているのだろう。器用な奴だ。
「ちょ、待っ、薫っ」
「待たない。他言は認めない」
「弟がっ」
 ――潮騒が、耳から遠のいた。
 奇妙な単語が聞こえた気がした。道を何気なく歩いていて、突然車のブレーキ音を背後から聞いたような、唐突で衝撃的な一瞬。
 背筋を氷が滑り落ちていくような、耐えきれない寒気。
「……え?」
 足は既に歩みを止めていた。彰人の腕は力を緩めずに腰にへばり付いてきている。ここにどうしても留めておかないといけないと思っているのか、コンクリートに打ち付けられた杭のように、頑として薫を離そうとしない。
 必死さが見えた。文字の通り、命がけの意志がそこにあった。
 怖気が首筋を撫でる。真夜中の墓場で亡霊に足首を掴まれた感覚というのは、これに近いかもしれない。引きずり込まれる。振り払えない。逃げられない恐怖が体を硬直させる。
 逃げなきゃ。抗わなきゃ。そう思うのに体が動かない。この腕は誰の物だろう。どこかに引きずり込もうとするこの腕は、一体。
 混乱する頭の隅で、とある名前を思い出す。喉から声を絞り出した。
「あき、と」
 ゆっくりと発した声はかすれていた。潮騒にかき消されそうだ。――そうだ、海のざわめきが聞こえる。海の音。悲鳴のような、耳をつんざいて脳を震わせる音。
 そして思い出した。ここは浜辺だ。そして――この腕は見知った同級生のものだ。
「……いやさ、その、何と言うか」
 戸惑ったような声に、現実に引き戻される感覚が薫を柔らかく包み込む。と共にゆっくりと束縛が離れていった。それと同時に体のこわばりもなくなっていく。一瞬だけの恐怖は悪夢のように霧散していった。いや、本当に夢だったのかもしれない。一瞬だけ、暑さにやられて見た白昼夢。それほど不確かな一瞬のできごとだった。
 腕が離れていく。薫はようやく振り返った。そこではじめて、振り返ることすら怖くてできなかったことに気がついた。
 彰人を恐れた。一瞬だけれど、白昼夢だけれど、確かに、怯えた。
 首筋を覆う大量の汗が冷たくて、不快だ。
「悪い、その、な……」
 気まずげに頭をかく彰人の姿が目に入る。いつも通りの彼に安堵する。薫が恐怖した存在と彰人は遠くかけ離れていた。潮騒と彰人の声のように、正反対に位置する両者であることを再認識する。
「……座って、話しても良いか?」
 彰人がそっと言う。薫は躊躇わずに頷いた。正直、足がもたなかった。震えが彰人に見えていなければ良いと思った。



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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei