短編集 -五月の雪
5. 潮騒 (3/4)


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【 14:42- 】


 海の家は真っ昼間ということもあってかなり混んでいた。薫は海の家の横の屋根下を提案した。屋根と言っても、日差しはほとんど遮ってくれない。ぼろぼろの壁を背に、二人並んで座った。眩しさに腕で日差しを遮る。天頂に近い太陽は影を短くしていて、日差しを避けようにも難しい。近くを楽しげに家族連れが通り過ぎていく。
「ストロベリーのかき氷が好きでさ」
 紙コップの中の赤い水を覗き込みながら、彰人が言う。
「二つ年下だったんだけど、俺が小学校六年の時に波にさらわれて」
「……兄弟、いたんだ」
「昔のことだから、小学校一緒だった奴でも知らなそうだけどな」
 懐かしい昔話をしているように、彰人は穏やかに笑う。二つ年下で、彰人が小学六年というと、亡くなったのは十才の子供か。十という数字に、薫は目を伏せる。
 十年。どんな人生だっただろう。どんな夢を描いていただろう。どんな子だったろう。思いを馳せても、何一つわからないままだった。可哀想だとも思えない。何をもって可哀想という言葉を使えるというのか。何も知らないのに。比較的簡単な行為である同情すらできないというのは、奇妙なことのように思えた。
「夏が来るとちょっと思い出すけど、実のところあんまり覚えてないんだよな。十年間一緒だったっていっても、記憶にあるのは俺が保育園に入った頃からだし、実質五年くらいか。親が覚えてて俺が忘れてることも多いし、正直、存在そのものも忘れちゃうんじゃないかって少し怖い」
 そう言って彰人は目を海へと向ける。その表情は何かを思い出しているようだった。
「だからか、懐かしいとか、もし生き延びてたらとか、そういうことも思えないんだ。小さい頃に死んだばあちゃんみたいに、遠い存在で、何も思い入れがなくて、だから生きていて欲しいとかそういうことも思えなくて、むしろいなくて普通というか、存在していたとか考えられないっていうか、うん、変な感じがしてる」
 心底不思議そうに彰人は言う。そうか、と薫は相づちを打った。
「でもさ、ふと気付くと足りないなって思ってるんだ。遊び相手とか、話し相手とか、家に帰ったらいるはずの存在がいないっていうか。虚無感っての? それが気持ち悪くて、夏になったら海に来るようになってた」
 会えるはずのないものに会おうとして。それは、好奇心のままに墓場を歩くのとは違う。何かを求めているのだ。伸ばした手の先で何かを掴もうと、探しているのだ。水の中に落とした物を拾おうとしているかのように、歪む水面の向こう側にあるはずの物を掴もうとするかのように。
 もうそこに求めている物がなくても、水底全体を撫で回さないと納得できない。本当に何も沈んでいないとわかるまで、手を水の中から引けない。
「寂しいな」
 素直な感想を言ったつもりだった。だが、彰人の中にその単語は思いつかなかったらしい、きょとんと目を向けてきた。
「寂しい?」
「だって、親は覚えていて、彰人は覚えてないんだろう? 寂しいじゃないか。同じものを失っているのに、自分一人記憶が足りなくて、これから足りない分の記憶を培うこともできないし、弔おうにも記憶がないんじゃあ何も思い至れない」
 墓参りに行くと、よく感じることだった。親や祖父母は自分の祖父母や両親に思いを馳せていて、しかし同行している自分は何に対して手を合わせれば良いのかわからなくて。会ったことがない、存在していたところを見ていない。だから弔いの気持ちを作ることができない。一人だけ疎外されているような、居場所のなさ。
「寂しいだろ」
 もういない弟。その存在をはっきり覚えている両親。対して弟に関する記憶の少ない自分。
 小さい頃の記憶なのだ、親が覚えていて自分が覚えていない出来事がある、もしかしたら弟の存在そのものすら忘れてしまうかもしれない。だから、水底に沈んだ物を掬い上げようと、本当はないもの――弟という存在を掴もうと、夏の海で必死に手を伸ばしている。
「寂しい、か」
 意外そうな顔をして、彰人は肩から力を抜いた。空を見上げて、その眩しさに目を細める。
「……その発想はなかった」
 そうか、寂しい、か。そう何度も繰り返す彰人を、薫は黙って眺めていた。しばらくして彼がいつもの笑みを浮かべて薫に「腹減ったな」と言うまで、その遠くを見つめる表情が消えるまで、眺めていた。



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Why, let the strucken deer go weep,
The hart ungallèd play:
For some must watch, while some must sleep;
Thus runs the world away.


(c) 2014 Kei