刀神
怨念数ヘ歌之語リ 其之拾
夫婦に事の次第を話し、集落の皆に避難を呼びかけてもらうこととした。避難とはいえ春の陽射しの暖かい固有結界の外には出られない。結界が消えた際いち早く救助されるであろう某の車が停まっている道路付近――つまり夫婦家族の家へと、住民を集めてもらうことになっている。
となれば梓丸らが赴くはその逆の方向、集落の奥だ。
「……夜だな」
空を見上げて呟く。休息を取りはしたが時刻は未だ夕刻と言っても差し支えない、けれど既に日は沈み暗い闇が天に蓋をしている。星は見えない。月もない。曇っているのだろうか。
「梓」
豊和を腰に提げた×××××が声をかけてくる。街灯が乏しく住民もいない集落の中は、そうでもしないと他人の姿を見失うほどに暗い。
「もう少し奥に行けば山間になだらかな丘がある。そこに追い詰めれば被害もあまり出ないだろう」
「判った」
「あと朗報だ」
某が真剣な面持ちで向き直ってくる。
「……雪に嵌まった時はスコップでタイヤ周りを掘って抜け出しやすくして、ハンドルを真っ直ぐにしてゆっくりアクセルを踏むと良いらしい」
すこっぷ。
「……何、だと……?」
目を見開く。そんな話は聞いたことがない、初耳だ。そもそも雪で車が動かなくなった時の対処法など少しも知らないが。
「スコップ……俺達に足りなかったのはスコップだったんだ……あの家のご主人が教えてくれた……タイヤ下に板を噛ますでもいけるらしい……あと後ろか前か、どちらかからブランコを漕ぐ時のようにタイミングを合わせて押したりとかも……」
「……×××××」
ゆっくりと名を呼ぶ。暗い山奥の集落、住民のいない異様な静けさの中、道路の真ん中で対峙する。
「×××××」
再度呼び、梓丸は――じとりと目を座らせた。
「……それ、今話すことか?」
「驚きは分かち合いたいだろうが」
「わからなくもないし確かに驚いたが、今その話をされても車を助け出しには行けない」
「判ってるさ。ちょっとした情報共有だ」
それで、と大したことのない会話だと言わんばかりに某はあっさりと話題を転換する。
「人は」
「いない。ゼロだ、皆避難したようだな」
先程行使した目を労るように瞼を指で触れる。敵を探し出すばかりが使い道ではないというのはなかなかに便利だ。梓丸本来の異能の使い方ではないが、かなり重宝している。刀神として覚醒してからの三百年程に感謝するばかりだ。経験は宝、時は金である。
「妖魔の姿もない。寝静まっているかのようだ」
「じゃあ今のうちに場所を移動するか。こんなところで襲われたら家に被害が出る」
「仮に壊しても本部か国が金を出すだろう」
「そういう問題とは少し違う」
山間にあるという広く開けた場所へと向かおうとしつつ、某はふと顔を顰めた。
「家に限らず物にはその人の思い出が宿る。それが大切だって人もいるんだ、物だから壊れても大丈夫だとは限らないんだよ」
妙に感情じみた発想だった。
物に宿る思い出か、と梓丸はふと目を伏せる。
それが良いものばかりではないことを、この人間の男は知っているだろうか。
それを口に出すことはなかった。口に出すより先に、突如肌が粟立った。
「……ッ!」
戦慄――悪寒。
何かが起こる。
バッと顔を上げ周囲を見渡す。異変の正体はすぐにわかった。
家々の庭先や山肌に植えられた木――ざらりとした木肌の枝、細く背の低い幹、その表面に点々と芽吹く蕾。
桜。
あちこちに植えられたそれが、風もない中でざわめいている。
枝が大きく揺れる。幹が傾ぐ。聞こえるはずのない木の葉の擦れる音が風音に混じって聞こえてくる錯覚。
「梓」
豊和を抜刀し某が身構える。言葉もなく背を向かい合わせ、周囲の異変を注視する。
風。
風。
揺れる木、ざわめく緑、そして。
――ふ、と木肌に乗っていた蕾が動く。
まるで早送りの映像を見ているかのように、幾つものそれらは一斉に同じ動きをした。中に潜ませた何かが膨らんでいくかのように一枚一枚の花弁が曲線を宿していく。蕾は雫型になり、鬼灯型になり、そして――その先端を切り分け、五片の花弁へと変じる。
桜が咲く。
突如、風なき風の中で、夜、桜の花々が咲き乱れる。
暗闇の中だというのに桜はその薄桃色を明瞭に見せつけてくる。自ら仄かに光っているのか。明らかに異常、おそらくは幻視の類いだ。
〈壱ツ、わらしべ掴み上げ〉
〈天まで伸びよと笑ふ吾子〉
そして聞こえてくる――数え歌。
〈弐ツ、揃ひて皆歌へり〉
〈桜散りたる夜の風〉
ははは、あはははは。
止まらぬとばかりに絶えず上がる、四方からの笑い声。
「……あれを呼んだか?」
小さな声で背後に問う。
「いいや」
否という回答が短く返ってくる。
「数え歌も思い出してなかった」
「ということは……こちらが呼び出すまでもなく既に捕捉されていたか」
「もしくはもうこの土地自体の呪術的強化は完成していたとかな」
「確かなことは不明だが、妖魔の姿はない」
素早く周囲を見渡す。
「鬼の妖魔も、それ以外も。姿を表さず呪文だけが聞こえてくる……であればこれは、場を整える最後の仕上げということだろう。数え歌は大抵十まである。妖魔の術はまだ完成していない」
術と呼ばれるあらゆる手法には順番がある。全体の構図を考え、それに必要な物を揃え、数度に分けた工程で練り上げていく。それを終えて初めて術は完成する。
妖魔はまだ術を完成させていない。術の担い手だった住民を失い、自らの手で急遽数え歌を唱えに来たか。
敵は窮地に陥っている。打つ手は必ずあるはずだ。
「×××××」
名を呼ぶ。応えて某が無言で続きを促してくる。
「場所が悪い、移動するぞ」
「だが相手の術が発動中だ。無理に動くのはまずいんじゃ」
「だからこそだ。今は妖魔の方が優勢なのは明白、このまま戦闘に突入すれば間違いなく敗北する。――地の利を取る。相手の縄張りの内側なのが気に食わないが……それでも閉所より広場、低所より高所だ。山の方が幾分かやりやすくなる」
某が考え込むように黙る。
「……従おう」
互いに背を庇いつつ、近くの斜面へと足を踏み入れる。雪がないのが幸いだ、無心で、けれど警戒心は絶やさず、二人は山を登っていく。
その間にも歌と笑い声は聞こえてくる。
〈参ツ、天照る光の隠れなば〉
〈地覆ひぬる肆ツ目鬼〉
〈伍ツ、揃ひて皆歌へり〉
〈稚児の海咲く爪陸ツ〉
ふふふ、あははははは。
〈壱ツ、わらしべ掴み上げ〉
〈天まで伸びよと笑ふ吾子〉
〈弐ツ、揃ひて皆歌へり〉
〈桜散りたる夜の風〉
Thou know'st 'tis common;
all that lives must die,
Passing through nature to eternity.
(c) 2014 Kei