時間屋
3. 父の恩は山より高し (3/4)
今日もお母さんは家にいなかった。あゆはランドセルの中から鍵を取り出し、玄関を開けた。部屋の中はすでに暗い。電気を付け、ようやくあゆは息をついた。ランドセルを居間に置き、さっそくお便りをテーブルの上に出す。出しておけば、夜遅くか朝早くに帰ってくるお母さんが読める。
お便りの中に原稿用紙を見つけ、あゆはおなかが気持ち悪くなった。とうとう締め切りが明日だ。不安で仕方がない。あゆの先生は怒るとすごく怖かった。目が本当に三角になるし、怒鳴り声がすごい。
「はあ……やだなあ」
テーブルに突っ伏す。どうしよう、何て書こう。気持ち悪さで考えることもできなくて、そのままうとうとしてしまった。
目が覚めたのは、夜の七時だった。夕飯を食べなくては。今日は、冷凍庫に電子レンジで作るチャーハンがあったはずで、それを食べようと思っていた。あゆはまだコンロを使えないから、電子レンジで温めることしができない。
目をこすり、台所に向かった、その時だった。
「早く出てって!」
お母さんの声だった。玄関にいる。こんな時間に帰っているなんて珍しい。
「なんで来たのよ! もう離婚届出したんだから、うちに来ないで! 警察を呼ぶわよ!」
「忘れ物を取りに来ただけだ。すぐ出て行く」
「今更忘れ物? 別居して何年も経つのに? 笑わせないで」
「すぐ出て行く」
「当たり前でしょ! ここはもうあたし名義の家なんだから!」
「水商売でよく一軒家を背負えたもんだ。離婚する前からそんだけ働いてくれればな」
お母さんと話しているのは、男の人だった。じかんやさんのより低くて太い声。知らない声だ。
「あんたが借金増やしたからいけないんじゃない! 一生働かなくていいってプロポーズしてきたくせに!」
「あの時と今は違う。そのくらい、中卒の元風俗嬢にだってわかるだろう。いや、今も男あそびに夢中か」
「……何が悪いの? ギャンブルで借金溜めたぐうだらよりも悪いの? 中卒で雇ってくれるところもない中何を犠牲にしてでも生きようとした女の、ぐうだらとできちゃった何も知らない娘を幸せのまま育てようとする母親の、何がいけないのよ!」
「騒がないでくれ。その声が嫌いなんだ」
「あたしはあんたのその醒めた言い方が大っ嫌い!」
「知っている。もうここには来ない」
「ええ、もう来ないで! あんたがいないここ数年の生活が嬉しくてしょうがないのよ! 早く出てって。早く!」
お母さんが甲高い声で叫んでいる。話の内容は難しくてよくわからないけど、良い内容でないことはなんとなくあゆにもわかった。
あゆはそっと玄関を覗き見た。お母さんが手にほうきを持って、剣道みたいに構えている。その先で、男の人がしゃがんで靴を履いていた。履き終えた体がゆっくりと起き上がり、お母さんの方を見て、そしてあゆと目が合った。
知らない人だった。でも、なんだか知っている気がして、すごくもやもやする。
誰だっけ、誰だっけ。
「……お父さん?」
自分で言った言葉にあゆがびっくりした。でも、間違った気はしなかった。
男の人はじっとあゆを見つめて、それから、あゆに背を向け、玄関の向こうの暗い外へと出て行った。
***
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei