時間屋
4. 明日ありと思う心の徒桜 (2/2)


 女性の震える肩が、嗚咽に上下する。
「知ってた、お母さんや聡介くんは、黙ってくれてたけど、退院しようって言ってくれてたけど、わたし、わかってたよ……」
「美月……」
「……駄目だよ、わたしなんかと結婚なんて……駄目だよ……」
「美月」
「だって、どうせ結婚したって、わたし、死んじゃうんだもん! 聡介くんを幸せにしてあげられないんだもん!」
「美月!」
 青年の怒鳴り声に女性はびくりと体を揺らした。青年が低い声で、もう一度女性を呼ぶ。
「美月」
「……はい」
「左手、出して」
 一瞬ためらい、女性が手を青年へ伸ばす。素直に出された白い手に優しく触れながら、青年はその薬指に指環を通した。
「まだわからないだろ」
「あ……」
「まだ、将来のことなんてわからないだろ。奇跡起こるかもしれないだろ。生きろよ。生きてくれよ。諦めるなよ。俺と一緒に、生きてくれよ」
 青年が女性の手を両手で包み込む。
「お願いだから、俺のために生きてくれ」
 でも、と言いかけた女性を黙らせるように両手に力を込める。聡介くん、と女性が呟いた。青年を見上げる。涙がまた新しく浮かんでいた。
「良いの……? わたしなんかで、本当に良いの……?」
「お前じゃなきゃ嫌だ」
 言った瞬間、青年の耳が一気の紅潮した。が、もう一度女性を見つめる。
「……お前が良いんだ」
 ようやく女性は笑った。
「ありがとう……ありがとう、聡介くん……!」
 青年も微笑む。二人は顔を見合わせ、静かに微笑み合った。
 窓から春の日差しが差し込んでいた。女性が指環を嬉しそうに眺める。その女性に、青年は声をかけた。
「……退院、しような」
「うん」
「二人で家立てて、子ども産んで、幸せになろう」
「うん」
「新婚旅行、どこに行こうか」
「そうだなあ……温泉が良いなあ」
「温泉好きだもんな。じゃあ、早く退院して、温泉に行こう」
「楽しみ」
「頑張ろうな」
「うん、頑張、る」
 ふつりと女性の声が途絶える。ハッと青年は目を見開いた。
「美月」
「だいじょう、ぶ……」
 女性が胸を押さえて俯く。肩が、体全体が小刻みに震えていた。
「美月!」
 女性が口元に手を当てる。苦し気に呼吸を繰り返し、激しく咳き込み始めた。
 青年が女性の名前を呼びながらベッドの端に座り、肩を抱いて背中をさする。
「美月、美月!」
 女性が何かを吐き出した。口元に当てた手からこぼれた血に、青年は顔色を変える。
「美、月……?」
「そう、け……く……」
 女性が青年の名前を呼ぶ。我に返り、ベッドのそばのボタンを押した。看護師の落ち着いた声がスピーカーから聞こえる。青年は叫ぶように看護師を呼んだ。女性の咳が止まらない。 青年は女性をしっかりと抱き締め、名前を呼び続けた。

***

 寿命は幾ばくもないと医師に言われていた。もともと体が弱いことは知っていたし覚悟もしていたけれど、これほど呆気ないとは知らなかった。これからもずっと、会って、話して、笑い合うものだと思っていた。
「生きたいという意志が強かったんでしょう」
 医師が言っていた。
「今日の今まで生きていらっしゃったのが奇跡のような状態でした。気力で延命した、といったところでしょうか……」
 聡介さんが来るのを待っていたのかもしれませんね。
 医師がぽつりと言った言葉に、女性の母親が泣き崩れた。
 数日後、青年はぼんやりと空を見上げていた。今日も晴れている。首もとに手をやり、ネクタイの結び目を緩める。黒いスーツは窮屈で、黒いネクタイもまた窮屈だった。
 彼女が死ぬ前に渡したかった指環は、無事に彼女の細い指に収まった。買いたくて、でも金額が自分の収入とまるで違って買えなかった指環。しかし彼女もろとも灰になった。 外さない方が良いだろうと、遺族が口をそろえて言ってくれた。
 葬式は無事に終わり、彼女は小さな壺に収まった。墓は桜の木のある墓地に立てるという。そう言えば彼女は桜が好きだったな、と思った。そしてふと思い出す。
「あの桜……枯れてたな」
 彼女の病室の窓から見える桜の木の一つが、今年は花をつけていなかった。彼女が愛でていた桜だ。まだ歩けた時は、そばまで行って、幹を撫でていた。他にも桜は植えられていたが、彼女はあの桜の木が好きだと言っていた。
 他の桜は珍しいことに陰日向関係無く、一斉に満開だった。壮観の中、あの木だけが枯れていたのだ。
「何でだろ……」
 青年の呟きはふわりと吹いた春風に消えた。

***

「いらっしゃいませ」
 カランと喫茶店のドアのベルが鳴る。エプロン姿の背の高い女性が来客を見、笑みを深める。
「お久し振りです」
「ブラックコーヒーをお願いしますね、ほさん」
 黒い帽子を軽く取りながら時間屋は微笑んだ。
 レトロな雰囲気の店内はとても狭かった。しかし窮屈さはなく、隠れ家のような居心地の良さがある。唯一の客席であるカウンターに座った時間屋に、女性がコーヒーカップを置いた。 礼を言い、一口飲んだ時間屋に女性が声をかける。
「桜が綺麗な時期になりましたね。知ってます? 赤十字病院の前の桜並木、満開だそうですよ」
「ええ。このところ晴天続きですから桜が一層映えて、人々を楽しませてくれますね」
「桜って、見上げると何だか幸せな気分になれるんですよね。その幸せそうな人を見ると、こちらもふんわかした気分になれて。――どうです、この頃は」
「大変でしたよ。とんでもない依頼をされて」
「とんでもない依頼?」
 女性の問いに、そうですね、と頷き、時間屋はカップを持ち上げた。
「ある女性を愛した方から、彼女に時間をあげてくれ、と言われたんです。せめて彼女の幸せが、そして彼女の愛する人の幸せが叶うまでは、とね」
「でもそれは」
「ええ、お金と時間以外の取引は原則受け付けていません。ですが……」
 コーヒーを一口飲み、時間屋は微笑んだ。
「病気を負って瀕死の状態なのに、その女性のために何年も続けたという方の最期の願いでしたから、叶えないわけにもいかなくて」
「相変わらずですね」
「まだ断ることが苦手なんですよねえ。特にこういう、必死の願いというものに、私はとことん弱くて」
 苦笑を漏らしながら、時間屋はコーヒーカップを置いた。
「例に漏れず今回も、報酬はいただきましたが、金銭ではないですし。全く、人以外からの依頼は稼ぎがなくて困ります」
「それでも引き受けるんでしょう、あなたは。誰かの幸せのために」
 女性が呆れたように、しかし優しく微笑む。ええ、と頷き、時間屋はそっと目を閉じた。
――それが私の仕事ですから」


解説

2014年04月16日作成
 聡介さんだけではなく桜の木も依頼人だった、というお話。人以外のものともお仕事をする時間屋さんです。美月さんが特に愛でていた桜の木も実は寿命が近くて、彼女と彼女の恋人のために自分の残りの寿命を美月さんの寿命に変換したんですね。普段は時間で時間を取引するようなことはしない時間屋さんですが、甘い人なので断らずに引き受ける。こういう人のことをお人好しって言うんでしたっけねえ?
 今回初出の奈ほさんは時間屋さんの良き知り合いです。時間屋さんは願わない限り出会うことのない人ですが、奈ほさんのところには数度現れます。というのも、時間屋さんが「奈ほさんのコーヒーが飲みたい」と願っているからなんだとか。ちなみに時間屋さんがブラックコーヒーを好むのは「全身を黒で統一したので、飲み物も黒にした方がお客さんからの受けが良いかと思いまして」だそう。逆に怪しまれる気がするけどね。


←前|[小説一覧に戻る]|次話

Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei