時間屋
5. 死んで花実が咲くものか (1/2)


 必要ないと思った。だから消そうと思った。
 なのに、何で、邪魔するの。
 コンクリートの上で座り込んだ春菜が、その人を睨み付ける。対して彼は息を上げもせずににっこりと笑った。その後ろで、夜景がきらめいている。一見すれば素敵な景色だった。 特にビルの屋上から見るこの景色は、カップルが見れば歓声を上げるに違いない。
 春菜にとって、もうどうでも良いことだったが。
「……何なの」
 荒れる呼吸の間から、短く、低い声で言う。それでも、男性は表情を変えなかった。乱れた真っ黒なスーツに、同じく真っ黒な鞄、そして手にした真っ黒な帽子。髪も目も黒くて、 闇に溶け込んでしまいそうだ。
「あたしの邪魔して、あんた一体何なの」
「時間屋です」
「何それ」
 関心のなさを声に表す。するとスーツの乱れを直しながら、律儀に答えてくれた。
「『時間屋』あなたの時間、買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、是非お呼びください!」
 言い切り押し黙る。呆れて言葉を返す気にもなれない。春菜は時間屋から目を逸らした。夜空のようにきらきらと輝く建物達が目に入る。
 ビルの屋上は冷たい夜風がひっきりなしに流れてくる。肌寒かった。その中、ため息をつく。

「……で、何の用?」
「用とは」
「用は用よ。あたしに用があったから邪魔してきたんでしょう?」
「お呼びでしたよね?」
 予想だにしなかった言葉に、思わず時間屋を見る。
「どういうこと」
「時間をもったいなくお思いになられたでしょう?」
 息が止まる。
「……何を」
「わたしには聞こえるんです、お客様の、時間やお金を望む声を。地獄耳なもので」
「意味わかんない」
 ウエーブした髪先をいじる。先日かけたパーマだった。今日のために、わざわざやったのだ。化粧だっていつも以上に綺麗に丁寧に仕上げた。それほど、心の準備は整っていた。
 なのになぜか、突然やってきたこの男性に、突如邪魔されたのだ。
 数分前を思い出して、またいらいらしてくる。大きくため息をついてやった。
「何なの、何なのよ、あんた。むかつく」
「あなたの時間を買い取りに参りました」
「は?」
「もったいないでしょう? まだまだある残りの時間を無下にするのは」
 時間屋はにっこりと笑っている。違う。そんな反応、違うでしょ。何なのよ、ともう一度呟いた。
「あんた……あたしの華麗な自殺を邪魔しといて何馬鹿なこと言ってんの」
「確かに、来てみたらフェンスの向こうに春菜さんがいたので驚きましたが。思わず引きずり戻してしまいましたね」
「何なの、まじむかつく。人の決断をめちゃくちゃにして」
 何で怒ってこないのだろう。いつもは、手首を切ったって、首をくくろうとしたって、誰かがそれに気付いては邪魔をしてきて、挙げ句怒鳴りつけてきたのに。 いけないことだろって言ってきて、どうしていけないのかと聞いてもまともな答えは返ってこなくて。
 夜風が頬を掠めていく。時間屋をぼんやりと見つめた。今までの人とは違う、怒りではなく笑みを浮かべた人。
「お邪魔してしまってすみません。ですが、どうしても放っておけなくて。もったいないですから」
「は?」
「時間ですよ。あなたが歩むはずだった未来という時間です。もしお捨てになるのでしたら、売ってはくださりませんか」
「はあ?」
「そうしたら、あなたは最後の最後まで贅沢三昧をして、満足したまま未練なく死ねますよ」
 初めてだった。死ぬな、生きろ、それが当たり前だ、と言わなかった人は。
 何も言えずに目を丸くした春菜に、時間屋はにっこりと笑った。
「交渉成立、ですね」

***

 意味がわからない、わからない。でも、悪くない。
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げられながら店を出る。高いヒール、レースのあしらわれた可愛いスカート、おしゃれなトップス。それにコートを羽織って銀座を歩く。イルミネーションに負けない おしゃれな自分をショーウィンドウに映して見るたびに、くすりと口の端を上げる。
 こんなに贅沢できる人生が楽しいなんて思わなかった。昨日だって、一昨日だって、好きな物を買いまくって、出会う人々から憧れの目を向けられて、素敵な夜を過ごして。こんなに 楽しいと思えることが今まであったろうか。
 いや、ない。なかった。なかったからこそ、死のうと思った。中学生の頃から親とは絶縁同様だったし、友人は裏切ってくるばかり。どの彼氏からも、本当の愛をもらったことはない。 一生懸命働いた職場は倒産するし、結婚詐欺に引っ掛かるしで、最悪な人生だった。絶望しかなかった。
 お金があるだけで、こんなにも幸せになれるんだ。死ぬ前にこんなに幸せなことができるなんて、最後の最後に神様はあたしを哀れんでくれたのかもしれない。
 そう思いながらネオンの明かりの下を歩いていた時だった。
「春菜?」
 突然名前を呼ばれる。振り返ると、さっきすれ違ったらしい男性が、目を見開いてこちらを見ていた。その顔には見覚えがある。
「たっくん?」
「春菜、だよな、え、お前、何そんなに綺麗になってんの」
 動揺した様子で歩み寄ってくる。拓海は数年前の彼氏だった。拓海が春菜の友人に浮気していたことを他の友人から聞いた春菜が、別れを切り出して拓海のそばを離れてから、 一度も会っていなかった。
 その数ヶ月後、拓海の浮気は友人達による策で、春菜に別れ話を持ち出させるためのものだったことを知ったが、その時にはもう、友人と拓海はつきあい始めていた。 嘘を見抜けなかった自分にどれだけ呆れ、仲睦まじい二人にどれだけ苦しんだことか。
 拓海くんね、春菜のこと嫌になったんだって。で、前から気になってたわたしを、誘って、そして……ごめんなさい、断り切れなくて。ごめんね、春菜。
「何だよ、一瞬わからなかった」
 変わらない笑みを浮かべて近くに立つ。今でも胸がときめく自分がいることに驚いた。ううん、と首を振る。なるべく冷たい声を出す。
「……どうしたの」
「え? 買い物だよ、買い物」
「……美枝子は?」
「美枝子?」
 不思議な顔をし、そして拓海は、ああ、と顔を明るくした。
「別れたよ」
「え?」
「だいぶ前だけど」
 知らなかった。驚く自分とは別に、知らなくて当然かと納得する自分もいる。連絡を絶っていたし、当時の友人とも関係を絶っている。彼女達は一丸となって自分と拓海を切り離した。もう誰も信じられない、そう思った。
 その前も後も何度も、親友だとか言ってきた人に罪をなすりつけられたりして、騙され貶められ続けたが、あの時ほど他人に絶望した時はない。
「……そう、だったんだ」
「ああ。……春菜は?」
「あたし?」
「付き合ってるやつとか、いるの?」
 黙って首を横に振る。拓海は、そっか、と短く返してきた。しばらく沈黙が続く。
「……ごめんな」
 突然拓海が言った言葉に、弾かれるように顔を上げる。
 今、何と言ったか。
「……え?」
「ごめん、その……あの時は、ごめん」
 気まずげに顔を逸らした拓海の顔に、店の看板の明かりが反射する。赤、青、黄、と色を変える照明に伴って、拓海の顔色も変わっていくように見えた。
「……今更言い訳するのも変だけど、その……春菜としばらく会えなくて、いらいらしてた時に、美枝子に誘われて、それで……寂しくって、つい、そういうことになっちまって」
「え……?」
「ごめんな、美枝子に逆らいきれなくて、付き合っちまって……結局、春菜を忘れられなくて、別れた」
 だから、と真っ直ぐに春菜を見つめる。
「付き合ってくれ。今度は、春菜を守りきるから」
 拓海の目は笑っていなかった。本気だと、嘘ではないと知る。
 そんな。
「……そんな話、信じろっていうの」
 嘘だ。これも、他の友人の話と同じ、あたしを陥れるための嘘だ。
 春菜の硬い声に拓海は顔を歪める。そんな彼に背を向け、歩き出す。カツリカツリとヒールが華やかな街に鳴り響く。そのまま歩き去っていくつもりだった。
 ふと足を止めたのは、エルメスの鞄の中の携帯電話が鳴ったからだ。取り出せば、最新型の画面に覚えのある番号が並んでいる。通話ボタンを押さずにいるつもりだった。
 鞄にしまおうとする。が、ふとした瞬間に指がボタンを押した。着信音が止まる。嫌な予感がして、ディスプレイを見た。
 通話が繋がっている。そんな、と絶句した春菜の耳に、微かな、しかし間違いようのない声が聞こえてきた。
 
 ***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei