時間屋
5. 死んで花実が咲くものか (2/2)
通話状態の携帯電話から、知っている、しかし記憶の底にあるものとは少し違う声が聞こえてくる。
もしもし、春菜? 春菜で合ってるわよね?
「お母さん……」
実家からの電話。何年振りかに聞いた母の声は、記憶のものよりしわがれていて。
春菜? ねえ、春菜? お父さんが大変なの。ねえ、春菜?
母の声が用件を告げていく。
お父さん、脳出血で倒れたのよ。意識はあるの。でも、もう左半身が動かなくて。でもね、春菜、春菜に会いたいなあって、謝りたいなあって、そんなことばっかり言うのよ、
だからお母さん、我慢できなくて。ねえ、春菜、聞いてるなら、お願い、帰ってきて。お母さんも春菜に会いたいわ。ごめんね、お願いよ春菜。
「なんで……」
聞こえてるのかしら、それともまた、聞いてるだけ? それなら良いんだけど。あのね、そうそう、日向子ちゃん、覚えてる? 高校の時のお友達。日向子ちゃんがね、
春菜にお礼言っといてくださいって。春菜が自分のカンニングの罪を被ってくれたから、大学の推薦を受けられたし、だから今こうして結婚できるんだって、そう。
結婚式に来てねって言ってたわ。ありがとうって。それから、ごめんねって。あなた、あれ、日向子ちゃんのためじゃなくて日向子ちゃんがなすりつけてきたのね。知らなかった。
あなたがカンニングしたって簡単に信じちゃったわ。ごめんね、春菜。
「どうして……」
ごめんね……お父さんもお母さんも、春菜を信じてあげられなかった。春菜は損な役回りばっかりだったね。なのに、お母さんが守ってあげられなくてごめんね。
「なんで、今更……」
え、何、どうしたの姉さん……! ごめん春菜、今、お父さんの容態が急変したって連絡があって……! お願い、来て。じゃあね。
「なんで今更、みんな、今更……!」
ツーッ、ツーッ、と電話が鳴っている。母親の声はもう聞こえない。
「春菜?」
拓海が声をかけてくる。肩にぬくもりがあるのは、拓海が手を乗せてくれているからだろうか。そのぬくもりに春菜の中の何かが壊れる。膝から崩れ落ちた。
「春菜!」
拓海がそばにしゃがみこんで、顔を覗きこんでくる。それも気に留めず、春菜は呟いた。
「どうして……どうして、みんな、今更」
不運な人生だった。何にも恵まれず、誰からも信じてもらえず、挙げ句裏切られ騙され奪われてきた。もう嫌だと思った。もう生きていたくないと思った。
なのに、なぜ今になってこうも皆謝ってくるのだろう。なぜ今になって、みんなと自分とのわだかまりが解けていくのだろう。
「遅いよ……」
なぜこうも、自分は恵まれていないのだろう。
「だって……だって、もう、あたし、もう、時間がないよ……!」
時間は売ってしまった。今自分にあるのは、大量の金だ。
もうすぐ死ぬ。それは喜びのはずだった。やっと死ねる、それは歓喜のはずで。
今更様々なわだかまりが溶けていくのは、まさに不運でしかない。
「時間が、ないよ……」
「春菜、しっかりしろ、どうしたんだ?」
拓海が肩を揺すってくる。この胸にすがりたいと、何年想い続けてきただろう。許されないと思っていた。何もかも――信頼も愛情も何もかもが、自分は許されていないのだと
思っていた。
しかし、それは違うのかもしれないという小さな希望が突如現れた。もしかして、まだチャンスはあるのかもしれない、と思えた。
でも、もう、間に合わない。自分はもう死ぬ運命なのだから。
視界がにじむ。いつからか忘れていた、涙という存在が、目の奥からあふれてくる。
時間がない。
時間が。
「時間が欲しいよ……!」
思わず言っていた。
ふと周囲が強い明かりに包まれた。悲鳴が遠くから聞こえる。何が起きたかわからなかった。
目の前に二つの光が近付いて来ている。それが車のライトで、その車が春菜めがけて突っ込んできていることに気付いた頃には、視界は白い明かりでいっぱいになっていた。
***
――お呼びですね?
声が聞こえた気がした。
「時間屋です。聞こえますか、春菜さん」
今度ははっきりと聞こえた。まぶたが開いていないのか、視界は真っ暗だ。耳だけが働いている。まぶたを開けようとしてもできないし、腕も、指さえも、体のどの部分も思うように
動かない。でも、確かに、そばに誰かがいて、話しかけてきているのはわかった。
「また、お会いして早々びっくりしましたよ。なにせ、ここは……おっと、話が逸れましたね」
時間屋は一呼吸分置いて、切り出してきた。
「お呼びになりましたよね? 時間が欲しい、と」
時間屋の声に笑みが含まれた。嘲笑だろうか、苦笑だろうか。声だけでは判断しかねた。
「お望み通り、あなたに、時間を売って差し上げましょう――交渉成立、でよろしいですね?」
時間。
その単語が頭の中ではっきりと響いた瞬間、時間屋の声は遠く遠ざかっていった。
***
ぼんやりした視界が鮮明さを帯びてくる。白い天井が識別できるようになった頃、春菜は自分がベットに寝ていることに気がついた。そして、もう一つ、気付く。
「生きてる……」
「春菜!」
誰かが名前を呼んでくる。目を動かせば、老いた女性が目に涙を浮かべてそこにいた。
「春菜、春菜、よかった……!」
女性がすがってくる。母親だった。呆然と目の前の光景を眺める。
自分のために泣く母親を見るのは初めてだった。いや、泣いている母親さえ、見たことがなかった。いつも不機嫌そうで、目を合わせるたびに何かと注意してきたり、
嫌がらせとしか思えない言葉を言ってきたりした。そんな母親が、こうして、娘に泣きながらすがっている。夢でもあり得ない光景だった。
母親の涙声によると、アクセルとブレーキの踏み間違いによる事故で、拓海は軽傷、別の病室にいるという。父親の容態は安定したらしい。
「もう、電話に出ても何も話してくれないし、事故に遭うし、一週間も起きてくれないし……」
「……うん」
「でも、生きていてくれて、よかった」
母親が笑う。曖昧な笑みを強引に浮かべておいた。生まなきゃよかったと言われたことはあっても、生きていて良かったと言われたことはない。この顔を見るのも初めてだった。
喜びよりも戸惑いばかりが胸をいっぱいにしている。
「それにしてもあんた、綺麗な服を着ていたねえ。銀座で高級品を買い漁ってたって聞いたし」
気分を変えようとしているのか、明るい声を出した母親に、春菜は、まあ、と返す。正直触れられたくない話題だった。きっと、何して稼いだのとか、
危ないことしてないでしょうねとか、こちらの話をまともに聞かないでまくし立ててくるのだろう。そういう、お節介で自分勝手な母親との会話が、何となく嫌だった。
「どうしたの、そんなお金、どこから出してきたんだい」
「うん、まあ、いろいろ」
「口座見たけど、こんなに贅沢できるお金は全く残ってなかったじゃないか」
「え?」
適当に流そうとした春菜は思わず母親の言葉に反応した。
そんなはずはない。時間屋からもらった億単位の金が、まだ口座に入っているはずだった。
どこに消えたのだろう。
驚いて声が出ない春菜に、母は朗らかに笑う。
「まあ、怪しいことはしていないだろうけど。信じてるからね。信じることにしたから、春菜のこと」
信じている。
何を、と思わず思ってしまう。それほど縁遠い言葉。
信じるなんて、人を騙すための言葉だと思っていた。友人が簡単に発する単語、中身のない言葉。聞く度に呆れ、それを顔に出さないように曖昧に笑ってみせた。
そんな、嫌な思い出しかない言葉。
でも、今は嫌じゃない。少しくすぐったいけれど、不快ではない。胸の奥が変な感じだ。悔しいとか、気分が悪いとか、嫌だとか、そういう感情とは違う。
それは初めての感覚だった。
ふと、このくすぐったさを知らないまま、自分は死ぬところだったのだと思った。そして、初めて、生きていて良かったと思った。あの時時間屋に引き留められずに
屋上から落ちていたら、きっと、この感覚を知らないまま、親を、友人を、拓海を憎んで死んでいた。誤解も知らず、謝罪も知らず、自分の境遇に失望しながら死んでいた。
それは、なんてもったいないことだろう。
「……お母さん」
何年振りか、目の前の老女を呼ぶ。しわが増えて、でも面影は残っているその顔は、確かに自分の母だった。自分を貶し、憎み、卑しく思っていたその人。その人は、今、
見たことのないほど愛おしそうな目で自分を見てくる。
ああ、そうだ、今初めて愛おしいという感情を向けられている。この目で、他人が子供や恋人を眺めているのを見たことはあった。そうか、これが、愛おしいという感情か。
これから生きていれば、一体どんな感情に出会えるだろう。
そうだ、拓海にも一言謝っておかないと、と思う。それに、答えを返さないと。お父さんにも会って、こうやって愛おしそうな目を向けて欲しいと思うのは傲慢だろうか。
ああ、することがたくさんある。生きていなければいけない理由がたくさんある。
そして、と母親を見る。
この人を愛おしく思えるようになりたい。ぎこちない笑みでなく、心からの笑顔を向けられるようになりたい。
「……ありがとう」
呟けば、母親は目を丸くして、そして嬉しそうに細めた。
解説
2014年05月13日作成
自分的に低迷期の作品。なのでかなり説明不足にご都合主義となってしまった。本当は時間屋さんからお金を受け取った分縮まった寿命の中に人生の大転機が凝縮されまくって、こんなんなら死にたくないって思わず思ってしまう――みたいな感じになるはずだった。実力不足!
でも肝は「死にたいって思ったとしても後々生きたいって思い直すことあるよね」的な感じです。ふわっふわだな。他の人から見たら「構ってちゃん」だとか「口先だけ」だとか「死にたくないくせに」なんて言われるやつですけど、わかっとらんやつは黙っとけって思います(過激派)。死にたいっていう気持ちはそういうもんなんだよ! 死にたい思ったことない奴に何がわかる! みたいな。うーんこの辺りはデリケートで難しい話なのでもうちょっと丁寧に扱わなきゃな…というわけで「背水の陣」と「四面楚歌」が書き上がりました。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei