時間屋
6. 命は天に在り (1/2)


 大きな衝撃を感じた。そう思ったのは、全てが一段落したあと。
 ぼくは地面にへたり込んでいた。目の前には、青白い顔をした、ぼくと対して年の変わらない、白髪交じりの男性。さっきまで、歩道を歩いていた人。その人は、今、ぼくの車のヘッドライトに照らされながら、救急隊員に心臓マッサージを受けている。
 救急隊員が体重を乗せるたびに、その人の体は、はずむベッドの上のぬいぐるみのように全身が上下に動いた。その手先が動く気配は未だにない。モノのように動かない人間の体を、ぼくはただすがりつくような目で見守るしかなかった。
 甲高いサイレン音が遠くから聞こえてきたのはその時で、その音はゆっくりと低く遅くなりながら近付いて来た。やがてパトカーがぼくの車のそばに止まる。
「どうですか」
 パトカーから降りてきた警察官は救急隊員に聞いた。マッサージをしている隊員のそばで、他の隊員が答える。
「何とも」
 息を吹き返すかわからない。そう言外に告げて、救急隊員は男性の体に目を戻した。酷く淡々とした、しかし緊迫したそれに、ぼくはもちろんなすすべなく、ただ震えて道路に座り込んでいた。
「すみません」
 警察官がぼくの肩を叩く。慌てて顔を上げた。ぼくの車のヘッドライトが邪魔をして、上手くその人の顔を見ることはできなかった。
「はい」
 ぼくの声は案外しっかりしていて、自分で感嘆した。後で思ったが、この時のぼくは感情を声に込められるほど正常な思考をしていなかったんだと思う。
「話を、聞いても良い?」
 警察官はそう言って、ヘッドライトに照らされたぼくの顔を覗き込んだ。

***

 台風が過ぎて一日経った今日は、もう秋分も過ぎて、太陽は早々と沈んでいた。一週間前の夜八時はまだ明るかったのに、今日は真夜中と大差ない暗さだった。
 真っ暗な景色の中、車のライトはいやに明るかった。逆に、光を放っていないものは闇にすっかり溶け込んでいて、見えづらかった。
 ぼくは信号が青になった瞬間、車を走らせていた。暗い中、車も歩行者も自転車もあまりいなかったから、青色を見た瞬間、歩行者や自転車を気にせず、いつもよりスピードを少し落として走り出した。
 走り出してすぐ、フロントガラスの左端に人が照らされた。人が、車道にいる。そう思った時にはもう頭は真っ白で。
 その後は、必死にブレーキペダルを踏んでいたことしか覚えていない。
「状況を考えると、被害者が信号の変化に気付かないまま、横断歩道でない場所を渡り始めたんだろうなあ」
 警察官は親しみのある、しかし高圧的な口調でそう言った。
「ほんとに見えなかったの?」
「はい……走り始めて、いきなり歩行者が車道にいるのが見えて、もうブレーキを踏むしか……」
「本当は横断歩道じゃない場所を信号や車の動きを注意せずに渡り始めた被害者が悪いんだろうけど、車を運転してたあなたが悪いことになるからね、車の方が危ないから。わかってるよね?」
「はい……」
「じゃあこれから、詳しい話を聞くから」
 そう言われて、ぼくの頭にふと現れたのは、被害者の無事を願うような綺麗な感情ではなかった。
 損害賠償。
 ぼくは法律に詳しくない。でも、それ以外にもお金がかかることは知っている。ぼくには家族がいた――そこまで至って、あの被害者にも家族がいたかもしれないとようやく思う。
 ぼくはきたない人間だ。
 警察署から解放されて、夕焼けに包まれながら帰途にようやく着けた時、ぼくは酷く疲弊していて、その日の日付がわからなかった。あの事故から何日経ったのかもわからなかった。 ただ、ぼくがしたことは鮮明に覚えていた。
「……なんで、こんなことに」
 わからない。確かに、ぼくの注意が足りなかったかもしれないが、でも、もう一度あの状況に戻れたところで、事故を起こさずにいられる自信はない。
 だってどう考えたって、被害者が悪いじゃないか。そう考えてまた、自分のみにくさを責める。
 もっと、綺麗な人間に生まれ育ちたかった。親に不満を抱いたことはないが、今、強く思う。
 自分の心配より他人の心配をできる、純粋な人間になりたかった。
 そう思いはするけれど、やはり頭をよぎるのはお金のことで。
「もし……あの人が死んだら……」
 一命を取り留めたという連絡はまだない。亡くなったという連絡もなかった。でも、いずれにしろお金はかかる。家のローンもまだ残っている。何より、妻にどんな顔をしていれば良い?
「せめて……お金が、あれば……そうしたら、きっと」
 きっと、もっといろんなことをゆっくり考えられる。お金のことで頭がいっぱいで、唯一の家族である妻やその他のことに思考がいかない。
 気付けば、家の前にたどり着いていた。目の前の玄関の戸に、手が伸ばせない。
 どうすればいい。今回の件について無実な妻だが、迷惑をかけないわけにはいかないだろう。けれど、事故を起こしもしかしたら被害者を死なせたかもしれない男に、妻は、一人の女はどこまで親身になってくれるだろう。
 彼女は、ぼくのそばにいてくれるだろうか。
――吉田正樹さん」
 若い男の声がぼくの名前を呼んだのは、その時だった。
 玄関の戸をぼんやり見ていたぼくは、ぼんやりとしたままそちらを振り返った。街灯の貧しい明かりに照らされて、男が立っていた。真っ黒な姿の彼は、暗くなり始めた周囲からいやに浮き立って見えた。黒いスーツに、黒い帽子。黒い鞄に黒い髪。
 あの日の闇の色をした男は、ぼくに目を合わせた。真っ黒な目が真っ黒な帽子の下から覗く。
「お呼びですね?」
 淡々とした声は警察官に似ていて、しかし彼らほど緊迫感はなかった。どこか弱々しくて、でも若さゆえのハリがあった。
「お呼び、って……?」
「初めまして」
 男はそう言って、帽子を外した。黒い短い髪が露わになる。
「時間屋です」
「時間屋?」
「『時間屋』あなたの時間買い取ります。買い取り価格高値! 時間安売りセールも同時開催! 時間が欲しいあなた、お金が欲しいあなた、ぜひお呼びください!」
 真顔で言い切り、ふつりと押し黙る。どうやら決まり文句のようだった。だが、何を言っているのかわからない。
「要は、あなたの大切な時間と引き替えにお金を差し上げますということです」
 すらすらとそう言って、時間屋はにっこり笑った。人なつこい笑みだった。詐欺や宗教勧誘の類ではないらしい。
「お金を……?」
 彼は詐欺師でも宗教関係者でもない、ぼくの救世主だった。
「お金を、くれるんですか?」
 ぼくがそう聞けば、帽子を被り直しながら、時間屋ははっきりと頷いた。
「ええ。あなたの未来にある、大切な時間に見合う金額をお渡しいたしますよ」
「大切な時間?」
「例えば、奥さんと過ごす日々。誕生日を祝ってもらう時間。結婚記念日を祝う時間、そして」
 途中で時間屋は口を開けたまま固まった。奇妙なその光景に、ぼくはどうすることもできず、ただ見守る。時が止まったかのように、時間屋は動かなかった――そう思った瞬間、時間屋の口がゆっくり動いたので、ぼくはちょっと安心した。
 その口が告げる言葉を聞かなければ、ぼくはもっと安心できるはずだった。
「……忘れて下さい」
「え?」
「あなたとは交渉できません」
 突然そう言った時間屋の口調は変わらず淡々としていた。
「あなたの時間は買い取りできません」
 続く言葉も、変わらず淡々としていた。だから聞き間違いかと思った。そう思いたかった。
「え?」
「すみません、失礼します」
 そう言って、時間屋は立ち去ろうとした。ぼくはすかさず、その黒い服を掴む。
「待ってくれ!」
 意味がわからない。
「どういうことだ!」
 いきなり来て、希望を抱かせて、その希望を裏切って。
「何なんだよ一体!」
「時間屋ですよ。時間を売り買いする」
「だったら時間を買ってくれよ! 何なんだよ! 何なんだよ!」
 ありったけの不満を時間屋にぶつける。
「何なんだよ! ぼくが何をしたっていうんだよ! 普通に生活して、普通に運転してただけで! 何で、何でぼくだったんだよ! 何で他の奴じゃなかったんだよ!」
 時間屋は何も言わなかった。ただ、突っかかってくるぼくを黙って見ていた。その表情に同情も何もなくて、余計に苛立つ。
「何で! 何でなんだよ! ぼくじゃなきゃいけない理由があったのか? どうして、なあ、どうして」
 言葉が続かなくて、ぼくは時間屋の服に捕まりながら、道路にずるずると座り込んだ。頭の中がいっぱいで、でも何も考えられないくらい空っぽで、もう、何もかもがわからない。
「……すみません」
 ぽつりと時間屋が言った。
「……そればかりは、いただけないんです」
 呆然と見上げれば、藍色になった空を後ろに、時間屋は悲しげに微笑んでいた。
「すみません」
 その表情に、ぼくは何も言えなかった。そこには、悲しみとは違う、申し訳なさというには軽すぎる、同情とも違う感情が浮かんでいた。
「失礼します」
 時間屋はそう言って、自分の服からぼくの手をそっと外した。壊れそうなものを扱う手付きだった。そこにも、言い表せない感情が表れていて、ぼくは何もできないまま、時間屋が去っていく背中を見送っていた。
 
 ***


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Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.


(c) 2014 Kei