時間屋
6. 命は天に在り (2/2)
数日経って、ぼくは妻に誘われて散歩に出ていた。家に帰ってからすっかりふさぎ込んでいたぼくに、数日もの間、妻は何も言わずにいてくれた。それがぼくにはありがたかった。妻から責められたら、ぼくの心はもうもたない。ずっとそうしていて欲しかった。
でも妻はぼくが思っていたよりも聡明だった。彼女は散歩を趣味にしているが、ぼくが彼女の趣味に誘われたのは初めてだ。ずっと家にいてもしかたがない。そう思って誘ってくれたようだった。
被害者が意識を取り戻したという連絡は二日前に来ていた。とりあえずはほっとした。
でも、問題は山積みで。
そんなぼくと一緒に歩くのは、恥さらしにならないだろうか。そう訊いたぼくに、妻は怒ってくれた。
「私があなたの妻になって何年経ったと思ってるの? そばにいるのが恥ずかしいなんて新婚でも言わないわ」
その言葉は、十年以上前、がんが原因で子宮を摘出した妻へぼくが言った言葉に、そっくりだった。ぼくは嬉しかった。ただ、嬉しかった。
ぼく達は朝方の近所を歩いた。空気は冷たくて、でも夜のそれとは違って柔らかかった。その中を、ぼく達は黙々と歩いていた。車一台通れるような細い道ばかりの住宅街の中は、誰もいなくて静かだった。
ぼくの歩調は彼女の歩調より早かった。ぼくは道路の真ん中辺りを彼女より前に歩いていた。彼女は時折走りながら、道路の右端を歩いていた。
直角の塀に形取られた見通しの悪い十字路を横断しようとした時、右手の道路から来るタクシーにぼくは気付いた。タクシーも交差点内にいたぼくに気付いたらしく、速度を緩めてくれた。ぼくは足早に交差点を通り過ぎた。脇目でタクシーを見ながら渡り終え――気付いた。
タクシーが、ぼくがその前を通り過ぎた瞬間、スピードを上げようとしていた。でも、ぼくの後ろには妻がいる。ぼくは振り返った。
妻はぼくを追いかけて急いで走ってきていた。塀に沿うように走ってくる。タクシーの存在に気付かないまま、妻は駆けていた。スピードを上げたタクシーが向かいに立つカーブミラーに映っていた。
危ない、という単語を頭に浮かべるより先に、ぼくは体を動かしていた。
***
大きな衝撃を感じた。そう思ったのは、全てが一段落したあと。
ぼくは道路に寝そべっていた。目の前には、青白い顔をした、ぼくより年上の白髪が交じり始めた妻。さっきまで、一緒に散歩をしていた人。その人は、今、白に近い青い空を背景にぼくの顔を覗き込みながら、必死の表情で声をかけてくる。その後ろで呆然とぼくを見下ろしているのはタクシーの運転手だろうか。
「あなた! あなた!」
ぼくはそんな名前じゃないのになあ、と思った。結婚して、名前を呼ぶのが恥ずかしいのか、彼女はぼくの名前を呼んでくれなくなった。なんとなく寂しくて、でもどうでも良くなっていったこと。
「……よ、こ……」
「き、救急車! 救急車!」
狂ったように叫ぶ彼女に、ぼくは微笑んでいた。彼女はいつだって姉御肌で、動揺した姿なんて見せてくれなかった。だけど、今目の前で、ぼくのために慌てている彼女を見ることができて。
ぼくは、しあわせだ。
「よ、うこ」
彼女の名前を呼ぶと、彼女はぴたりと動きを止めた。遠くから焦ったように電話をしている男性の声が聞こえる。
「よ、う」
重い腕を彼女へと伸ばす。彼女はそれを勢いよく掴んだ。頬に擦り傷がある。ぼくが突き飛ばした拍子に傷つけてしまったのだろうか。女の顔に傷を付けるなんてなあ、とぼくはぼくに苦笑した。
「しっかりして! 今救急車を呼んだから!」
彼女が掴むぼくの手はなぜかぬめっていた。それでも必死に掴み直してくれる彼女の手の平が赤いことに気付く。血だった。
そうか、だからこんなにも腕が重いんだ。きっと出血して貧血を起こしてるんだ。残念だなあと思った。彼女と違って、貧血と診断されたことが一度もないのが自慢だったのに。
「あなた! しっかりして、あなた……」
ようこ、とぼくは口を動かした。妻の声が段々遠くなっていく。視界もぼやけてきた。次第に手を握られている感覚もわからなくなってくる。酷い貧血のようだ。
ようこ、とぼくはもう一度呼んだ。その声は良く聞こえなかった。けれど。
「ぶじで、よかった」
ぼくのこの声は、確かに、ぼくの耳に届いた。
***
女性の掴む腕から力が抜ける。女性は狂ったように男性を呼び続けた。野次馬が徐々に増えてくる。次第に救急車が近付いて来る音が聞こえてきた。その音が段々と低く遅くなる前に、その場から背を向け歩き出す。
「……あなたからあの時間をいただくことは、できませんでした」
喧噪から遠ざかりながら、黒い帽子を深く頭に押しつけ、男は呟く。
「あなたから、最期の奥さんとの時間をいただいてお金を渡していたら、きっとあなたの心は晴れていた。けれど」
それでは意味がない。
「――あなたは人を幸せにするためにいるから」
聞こえてきた声に、黒いスーツの男は振り返った。そこに立っていた背の高い女性の姿に微笑む。
「ええ、そうですよ、奈ほさん」
男に対して、女性は真顔で離れた場所に立っていた。歩み寄ることなく口を開く。
「あなたは”時間屋”であって”幸せ屋”ではないのでしょう」
呆れたようにため息をつく。
「依頼されたのなら、それをただ黙って受け入れていれば良いのに。あなたは一応、商売人なのだから。……そう思うのは利己的ですか」
女性の言葉に、男は、いえ、と肩をすくめる。
「何も間違ってはいないでしょう。魚屋は魚を売るべきですし、薬屋は望まれるまま薬を売るのが役目です」
「けれどあなたは、望まれる通りの商売をしない」
男は苦笑を返しただけだった。頷きもせず首を横にも振らず、ただ、そっと空へと目を向ける。
「確かに、残念ながら私は”時間屋”です」
青さを増してきた空に微笑む。静かに、穏やかに、ひとりで。
「……時間を売り買いする以外の能を持たないからこそ、できる限り、私はこの商売で誰かの幸せを叶えていきたい。その思いのために、時に自分の利益を捨てることを、あなたは愚かだと思いますか?」
答えはない。頭上に広がる薄い青が徐々にその色を濃くしていく様を、二人はしばらく眺めていた。
解説
2014年10月22日作成
取引をしない時間屋さんのお話。利益を求めているわけではないので…「時間屋さんって何者なんですか」という質問はよくあったんですけど、時間屋さんは”時間屋さん”です。時間を売り買いする人、その概念です。なので時間を売買する上で必要なスキルは全て持ち合わせています。お客さんの声を聞きつけたり、適切な取引を持ち掛けるためにその人の過去や今後の分岐点を見通したり、時間をお金に変えたりお金を時間に変えたり。未来が見える、というわけではないんですが、その人にとって価値のある時間(買い取りに値する時間)を見ることはできるので、今回は「奥さんとの最期の会話」という時間を見てしまったので取引を中止したのでした。
大学生の時のバイトが歩いて四十分程度のところにある小さな居酒屋さんだったんですけど、その店が大きめの道路に面していたんです。で、近くにバス停があって。そこで交通事故があったらしくて外が騒がしくなったんですよね。で、様子を見に行った(つまり野次馬)お店の奥さんが「バス停近いし、巻き込まれたんじゃない?」って言っていて、そこから生まれた作品です。被害者ではなく加害者に目を向けるのは癖のようなものですね。というのもだいぶ昔、それこそ小説を書いていなかった頃に新聞のコラム欄でとある事件が取り上げられていまして。
幼い兄弟が父親が放置していた実弾銃を触ってしまって、確か兄が弟を撃ち殺しちゃった事件だったと思います。父親はもちろん逮捕されて、世間は「銃規制もっときつくするべき」みたいな感じだったんですけど、そのコラムではお兄ちゃんの心情に心を寄せていて。何も知らずに兄弟を撃ってしまったその子の心を思うような文章だったのが衝撃的でした。加害者の方に心を寄せたことがなかったので…自分の意思で事件起こした人のことはどうでも良いし妥当かそれ以上の罰受けろって思うんですけど(過激派)、故意に人を傷付けたらどうなるんだろうって思うようになってから、事件のニュースを見るたびに加害者やそばで事件を目撃していた人へ思いをはせるようになりました。
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei