時間屋
7. 子の心親知らず (2/3)
名前を呼ばれた瞬間、こみ上げるものがあった。それは、なぜわたしの名前を、という言葉。そして。
「……助けてください」
いつの間にか呟いた言葉は、国道の騒音をかいくぐって住宅街に漂った。自分の言った言葉に自分で驚き、そして彼女は改めて呟く。
「助けて、ください。孫を……助けてください」
言い切った瞬間、ああ、と声が喉の奥から漏れ出た。それはやがて表記できない音へと変わっていく。
裕子は口を手のひらで押さえた。それでも、声は漏れてしまう。それは嗚咽となって住宅街に響いていった。
「……孫が、病気で、でも、息子達には孫を救えないんです」
瞼の裏に浮かぶのは、かわいらしく笑う赤ん坊、そしてその子を眺めながら顔をやつれさせる、その子の両親。
「……息子が、この不景気で倒産したんです。嫁は女性が働ける仕事を一生懸命探していますが、あっても収入はとても低くて……。家の借金はまだ残っているのにさらに借金が増えて、私も働こうかと思っているんですが、もうこの年ですから、何もなくて」
世の中の誰もが、仕事に困窮している。数年前には考えられなかった。わくようにお金が手に入ったあの時、息子夫婦がこの新興住宅街に引っ越すことを提案してくれた。綺麗な、豪華な一軒家に、どんなに心が躍り、どんなに息子夫婦と、やがては息子家族と暮らす日々を嬉しく思っただろう。
「やっと、やっと生まれた子なんです。でも、助けるお金がないんです。いろんなところに相談したんです、でも、良い方法がなかなかなくて……」
言葉はあふれてきた。次の言葉を考える暇も、必要もない。心の中に仕舞っていたことが、堰を切ったように、次から次へと流れてくる。
「もしこんなに辛いなら、いっそ助けない方が良いんじゃないかなんて……」
「息子さん達が?」
「……そう、言うようになってきたんです。前は何が何でも助けたいって言っていたんですが、もし仕事がない状態が続くなら、この子を生きて幸せにしてやれる自信がないって……家の中が、暗くて重いんです。あんなに日当たりが良くて明るいのに」
いっそ殺してあげた方が子供のためなんじゃないか。青白い顔で夫婦はそう言う。
日だまりの中、息子も嫁も、暗い顔で黙り込んで。
以前は我が子の顔を見れば顔がほころんでいたのに、今はくすりと笑うこともない。
「孫の病気がわかってから、もっと暗くなってしまって」
「……大変ですね」
当たり障りのない労いの言葉に、裕子は頷いた。
「ええ。だから、せめてわたしにできることはないかって……子供ってね、すごいのよ。そこにいるだけで、ふわっと心が軽くなるの。ああ、大切にしなきゃって思えるの。わたしも何度も救われた。旦那が病気で先に逝った時も、息子がいたから何とか頑張ろうって思えたのよ」
その息子が、ようやく生まれた我が子を前に嘆いている。苦しい時に子供がいればどんなに支えになるかを教えても、お金がないからの一言しか返って来ない。
「このままじゃ、孫が見殺しにされるんです。だから、わたしが何とかしなきゃって思って」
「お強いんですね」
「強い?」
時間屋はのほほんと笑った。
「ええ。この時代の女性は意志がお強い。自分の考えをしっかり持っていらっしゃいます」
「そうかしら」
もしかしたら、旦那がいなかったからかもしれない、と裕子は思った。男親がいない息子を思って、父親代わりにもなろうとして、それで男っぽくなったのかもしれない。
「わたしはただ、自分の子のために生きてきただけですよ」
大切な、愛しい我が子のために生きてきた。どんなに辛くても、苦しくても。
それが母親というもの。我が子の幸せを思わずにはいられない。
「ところで」
世間話をするように、時間屋はにっこりと言った。
「誰のため、ですか?」
「え?」
「あなたがお孫さんを助けようとして奮闘していらっしゃるのはすごくわかりました。うらやましいくらいです」
突然の問いに、思わず彼を見上げる。時間屋は穏やかに微笑んでいた。黒い光彩が優しく光る。
「それで――誰のために、お孫さんを救いたいんですか?」
「それはもちろん、孫のために」
当たり前だ、そう思って言った。しかし時間屋は、ですが、と微かに笑みを深める。
「あなたはさっきから息子さん達の話しかしていませんよ」
とても穏やかに告げられた。
「それは……」
「あなた自身、子供がいたから救われた、とのことでしたから、もしかして、と思ったんです」
いたわるような彼の眼差しは静かで、あたたかい。
「息子達にも自分と同じような救いを与えたい、だからお孫さんを救いたい……そう聞こえました」
「それは」
違う、と反論しようとした。しかしその一言は喉から出てこなかった。
代わりに出たのは、感嘆に似たため息だった。
――そうだ。
わたしは、さっきからずっと、暗い顔をした息子達ばかり思い浮かべている。その顔をなんとかしたくて、孫を助けようと思っている。
「わたしは……息子達のために孫を救おうとしていた……?」
そうだ、わたしは、ちいさな子供のことなど考えていなかった。ただ、自分の子供のことを考えていた。
それは母親だから?
その一言で済むものか。あの小さな子は、愛しい息子の子供なのに、わたしはそれを道具として使おうとしたのだ。
そこまで考えてようやく、自分が今まで考えてきたことに慄然とする。
「……わたしは、間違った考え方で孫を救おうとしていた。だから神様はわたしに孫を救う良い方法を教えて下さらなかったのね」
そして、この黒い人と出会わせてくれた。この、奇妙で、穏やかで、間違いを鋭く突いてくれた人に。
「裕子さん」
黒い人が老女の名を呼ぶ。
「あなたにお金を渡すことはできます。しかし、その価値と同じ分、あなたの貴重な時間をいただくことになる……例えば、家族団欒の時間、息子さんから感謝を伝えられる時間、そして、もしかしたら、息子さんの死の間際の時間を」
裕子さん、とまた呼ばれる。
「……あなたのお孫さんには、あなたの大切な時間を投げ出せるほどの価値がありますか」
息子達を救うための道具としてではなく、一人の人間として。一つの命として、あのちいさな子を愛することができるか。
息子のために、ではなく、あの子のために、自分を犠牲にすることができるか。
考える暇はいらなかった。あの子の病気がわかるまで、わたしは確かにあの子を、あの子自体を愛おしく思って可愛がったのだから。
「……ええ」
その思いを完全に失ったわけではない。忘れていたのだ。
「だって、私の家族だもの」
愛しい我が宝。
自分の子供の子供ではなく、ちいさな愛すべき存在。
「……ごめんなさいね」
気付かなかった。こんな単純で当たり前のことを忘れていたことに、今まで気付かなかった。
「ありがとう」
時間を売り買いするという、目の前の男に、裕子は深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
この言葉は、目の前の男へ、そして、ちいさな命へ。
もう忘れはしない、と。
「――交渉成立、ですね」
時間屋はそう言って、目を細めて微笑んだ。
***
Doubt thou the stars are fire,
Doubt that the sun doth move;
Doubt truth to be a liar,
But never doubt I love.
(c) 2014 Kei